02.「死んでも愛すよ」

       *



「ッ――……」


 待って、私は何を……っ!?

 漫画さながらに、ベッドから飛び上がった。急にもたげた頭が、低血圧で一瞬鈍痛とくらみを訴える。

 詰まっていた息を吐き出して整える。じんわりと全身ににじむ汗が気持ち悪くて、半ば無意識に襟元えりもとをぱたぱたと仰いだ。胸元に吹き込む冷ややかな空気が、私の体に現実味をもたらしてくれる。

 気づけば、状況を語るものを求めてしきりりに目を動かしていたが、そもそも辺りが暗闇に包まれていてかなわない。夜目よめがきくと言っても、状況そのものを一から把握できるほどのものではない。ベッドの感触から自室であることの確信はあったため、手探りするまでもなくベッド脇にある照明スイッチを押し込んだ。

 明るさに目が慣れると、当たり前のように自室の光景が映った。しん、として何の変哲もない私の別荘。

 机上きじょうたたずむ時計に目をやれば、午後十時三十分を回ったところだった。

 日付は――六月の、三日。


「六月三日……」


 吐き気を刺激するような心象とともに、まぶたの裏に濃くき付いた日付。いや、き付いた先はまぶたではなく、記憶だ。

 ……記憶。

 記憶のことを俎上そじょうに載せるのなら、まずは今この瞬間までの記憶が奇妙な形で刻まれていることについて整理するべきだ。

 みおに別れを告げられてから、約一週間。平日五日間を丸々またいでいる。

 この一週間、自分が何をしていたかの記憶が朧気おぼろげだ。

 大学に行っていた記憶はかすかに残っている。ただ、今思えば――意識が抜けてうわの空のまま出席していた。授業を受けている光景は思い出せるが、内容はほんのつゆほども覚えていない。誰かに話しかけられていたとしたら、無視しているか、何か訳の分からないことを答えていたかもしれない。


「そんなこと、あり得るの……?」


 あり得るのか。自我を失った状態で、本能的に社会生活を営んでいたなんて。

 ――あり得たのだ。

 あまりのショックに、何が何だか分からなくなって。自分が自分じゃなくなって。

 廃人になるスレスレのところから、今ようやく帰って来たのだ。


「そっか。私、ずっと逃げて――……」


 走馬灯のように、ちかちかとフラッシュバックの連鎖。

 もう、全てを思い出した。

 澪の誕生日パーティーを、まるで初めての経験のように過ごしていた。この一週間、理性を失ったまま行動していた。

 それは全て、ひとつの事実――現実からの逃避。常軌をいっした現象に自分が壊されるのを防ぐための、人間に備わった最後の緊急手段。

 本当は、覚えている。忘れるわけがない。



 首をくくった澪の、生気が完全に抜けた姿。



「澪……」


 ベッドの横、すぐ隣の壁面へと目をやった。

 この壁の向こう。たった一枚壁をへだてただけの場所で、澪はもうすでに。

 心臓が締め上げられるように痛む。喉の奥で、胃液が湧き上がる。


「澪の言いつけの意味、今だから分かるよ」


 体の異常を気合でし殺しながら、私は玄関へ足を進めた。下駄箱の上、この部屋の鍵と並んで置かれたもう一本の鍵を、ぎゅっと握りしめる。

 この鍵も、言いつけの真意を語っているじゃないか。

 本当に思い浮かべられることすらいとって――ましてや会ってほしくもないのなら、私の部屋に鍵を置いておくことは一番避けたいはずだ。この一本で、私と澪の物理的なへだたりは意味を失う。何が何でも、この鍵だけは取り返しておくべきだったのだ。

 部屋より少し冷たい空気の廊下を歩いて、五一一号室の扉の前。

 念のため鍵は持ってきたが、二度目の経験だからどうせ使わないことは分かっている。案の定、ノブに手をかけると、さほどの抵抗もなく回った。

 そう、施錠されていない。これも、澪の言いつけの真意を如実にょじつに語る事実だ。

 初めてのときと同じように、固唾かたずみ込み、めいっぱい空気を吸い込む。相も変わらず、私の決死の覚悟と吊り合わない軽さでドアが開いた。


「っ……」


 もう、知っているからだろうか。

 初めて訪れたときよりも、部屋の空気がにごって感じる。嗅覚などではなく――肌で感じる嫌な空気。

 玄関の照明をつけると、私の目は知識に従ってある一点に向けられた。


「ぅ……」


 慣れない。慣れるわけがないし、慣れていいものでもない。

 見ないようにするべきか。それとも、詳しく調べるべきか――。

 思考はその二択でつまづきながらも、足が一歩を踏み出した。

 澪のこんな姿は、一度や二度見た程度では慣れない。だけど、前回には無かった、精神の空き容量を感じる。自分のショックのかたわらで、澪のことを考えられる空き容量が。

 澪は。

 自決の中でも、あえてったのだ。

 準備物が少なく、飛び込みなどと比べて迷惑も抑えられる――一見コミットしやすい方法に思えるが、実際はそうでもないはずだ。

 途中で横やりを入れられないような場所かつ、縄を吊るすことができる場所となると限られてくる。前者を十分に満たすこの寮の部屋は、生憎あいにく縄を吊るせるような部分はない。だから澪は窓のコルセット錠を用いたのだけれど――この方法だと、自分の意思で簡単に中断できてしまう。

 低い支点から座位で行う首吊りは、無論足が地についているため、天井から首を吊った場合と比べて――ましてや飛び降りなどと比べれば圧倒的に中断の可能性が高い。

 もちろん私は自殺になんて詳しくないけれど、きっと苦しみが続く中、意識が飛ぶまで自分の意思で生存本能を抑え続けていたに違いない。


「澪、どうしてそこまで……」


 今回は、訳が分からなくて――ではなく。

 悲しくて、涙が出た。

 苦しみが続く。いつでも中断できる。

 そんな方法で自殺を成功させるには、心の底からの希死念慮きしねんりょ――死をこいねがう気持ちが必要不可欠であることは想像にかたくない。生きるために足を動かそうとする本能を、息の根が止まるその瞬間まで押さえ付けるほどの、全身全霊で死を掴み取る執念。

 何が、澪をそこまで追い詰めた。

 どうして、それだけの闇を抱えた胸中を察してあげられなかった。

 何より。……何より、許せないのは。



 どうして、澪のを、見て見ぬふりをしたのか。



「……私こそ、目を背けてきたんだ」


 脳裏で、電話越しの澪の言葉が再生される。

 ――目を背けてきた。向き合わへんようにしてきた。もうこの事実からは逃げられへん。

 その全て、私の口から発せられるべき言葉なんだ。私が胸にかかげなければいけない言葉なんだ。


「私こそ、向き合わないようにしてた」


 故意ではなかったとしても。本能による強制の結果だったとしても。

 向き合わなかった責任は、私にある。


「私ももう、逃げてなんていられない。ここで使わないと、はただの役立たず――私はそれ以下」


 胸に手を当てて、澪の姿を見つめる。

 現実から目を背けようとする自分の弱さに負けないように、意地でも目をらさない。詰まる息も、無理やり押し流して。

 澪の言いつけ。

 ――死ぬまで、あたしのことを思い浮かべもせんといて。

 一度気づいてしまえば、あまりにも直接的な言い回し。

 彼女は、何も今後一切自分に関わるなと言ったのではない。死ぬまで、だ。

 ……澪は、自分が自殺をする覚悟を決めて、それを阻止されないように牽制けんせいしながらも。全てを終えたあとは、私に気づいてほしかったんだ。見つけてほしかったんだ。

 何かを、伝えたかったんだ。

 忘れていた。八百坂やおさか澪が、思いやりを最優先することを。たとえそれが、最期の言葉であろうと。

 本心を抑えて、私に悲しみを与えないように、この現実から突き離したのだ。付き合ったまま死ぬことを避けるために、あえてぶっきらぼうに振ったのだ。

 私が、澪の思いやりがきく面を愛していたことに賭けて、命を懸けた。


「澪……ごめんなさい。私にしかできない方法で、あなたを助けるから」


 大きくひとつ、深呼吸をする。腐臭すら吸い込み、全てを受け入れるつもりで。

 何度目かなんて、数えていられないほど。今回に比べたら、笑ってしまうくらいにどうでもいいことのために。

 自分の意識を、思うまま。


「死んでも愛すよ。――私の恋人になるってのは、そういうことだから」


 暗がりの澪に、そう言い遺して。

 私の意識は、精神の最下層へと飛び降りた。

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