01.「紬希――別れよう」(3/3)

「ねぇみおぉ、私ちょっと火照ほてって――」

紬希つむぎ

「はい」


 私は――アルコールで性欲が覚醒する。

 これは、成人してからのこの一ヶ月ちょっとで実証済みで、発動率はもれなく百パーセント。普段なら理性の支配下にいてくれている欲情が、アルコールで火がつくと手綱たづなを噛みちぎる。その結果、むたびに澪に襲い掛かっては追い返されての繰り返しだった。

 欲求不満もそろそろ無視できないレベルにまで育ってきて、しかも澪のいる場でお酒を入れてしまった。自制が効かなくなる寸前かもしれない。


「ほんまにごめん、今日はあと一個やらなあかんことがあんねん」

「ヤらなあかんこと……!?」

「……しなあかんこと」


 からみ方が面倒になってきている私を前に、澪はあきれる一歩手前の雰囲気だった。

 自分ではそんなつもりはなかったのだが、彼女いわく、「紬希の性欲はそこらへんの一般人よりぶち抜けてねん!」らしい。アルコールなど何らかのトリガーがないと表出しないため、普段意識下で溜め続けている欲が爆発するという表現が似合うようだ。挙句、そのエロさが胸に溜まって肥大化しているとまで言われたことがある。人生で初めて、人を乳で往復ビンタしてやろうかと考えたものだ。

 性欲は知らないが、胸の大きさに関してはそこらへんの一般人を探せばすぐに私以上の人を見つけられる程度なのに。

 ……さて、過去の話は捨て置いて。


「何、誕生日パーティーするのに他の予定入れてたの?」

「もちろん紬希とのパーティーが一番大事やし、楽しみにしてたで。実際その期待を超えるぐらい楽しかった。でも……ほら、二十歳の誕生日って特別やんか。今日にしかできひんこと――今日やっておきたいことがあるねん」


 澪の目は、いつになく真剣だった。

 これまでの、明らかに適当な理由をつけて酔った私を追い払っていた時とは違う。どこか覚悟を決めたような目――そしてどこか、不安をともしているようにも見える目。私なんかが邪魔できるような事情ではないということを、本能が感じていた。

 なにか。

 ――胸騒ぎがする。


「……わかったよ」

「出来上がっちゃってるとこ、ほんまごめんな」

「言い方」

「お詫びに、今度は追い返さへんから」

「え!?」


 思いも寄らない言葉が澪の口から聞こえて、思わず私は机に思い切り乗り出した。危うく感情のたがが外れかかったところで、神様か何かの制止が入る。

 身を乗り出した衝撃で、ゴミを片づけた机の上にぽつりと残されていた缶がカーペットに落ちた。今回はもう空っぽだけど――ちょうど、さっき澪がやったことと同じ流れ。

 興奮と冷静の間の微妙なテンションで、缶を拾い上げて机に戻す。はじめより随分と高くなった金属音がした。


「……性欲で危機感知センサー壊れてるやん」


 帰り支度――と言っても立ち上がって玄関に向かうだけだが――を始めていた澪が、皮肉っぽい笑みを向けながら言い放った。私が彼女の缶をキャッチしたことは、どうやら危機感知センサーとして片づけられたらしい。

 慣れた手つきで靴を履いて玄関の戸を開け、こちらに手を振る澪に向かって、渾身の思いで言い返した。


「私のセンサー火気厳禁だから」

「ナイストライ、百点満点。……なんでボケセンスに磨き掛かってんねん!」


 欲情が往々にして火にたとえられる――それになぞらえた高度なジョークのつもりである。






 それから、一夜をへだててのことだった。


『紬希――別れよう』


 私の心は、そんな言葉を放つ電話口に――壊された。


「………………え?」


 茫然自失――。

 まさにその状態を、人生で最も鮮明に体験した。

 聞こえた言葉を何度も何度も脳内で反芻はんすうして、それでも意味の認識が全然進まなくて。何か話そうにも、返す言葉が全く思い浮かばない。自分のこともさっぱり分からなくなってしまうくらいに、どこか外界から切り離されたような感覚。


「え、あ――……」


 必要以上に強い力で耳に押し付けたスマートフォン――その電話口で黙っているのが気持ち悪くて、言葉にならない声をらしてしまう。このまま何もしないでいると、自分があっさり廃人になってしまうような感じがして、とにかく話そうと必死に口を開閉させた。

 口元に意識を吸われながらも、通話の向こうの、どこか切羽詰せっぱつまったような息遣いを耳が拾う。そうはっきりと聞こえたものではないが、確かに不自然な気配。

 詳しくは察しきれないけれど。

 泣くのを、こらえている……?


『紬希。……これが最後になるから、ちゃんと聞いてほしい』

「…………」


 相変わらず返事はできない。息が詰まる。

 声が出ないのもそうだけど……

 最後って、どういう意味での最後だ。どうして最後なの。

 電話の向こうで――壁の向こうで、澪がどんな表情をしているのか。どんな心持ちで話しているのか。何を、伝えようとしているのか。

 何もかもが分からなくて。信じられないくらい、怖い。

 返事を待つためなのか、あるいは澪自身が心の準備をするためなのか。とにかく少しけたのちに、ついに彼女は言葉を再開した。


『あたしは、ずっと目を背けてきた。向き合わへんようにしてきた。でも、もうこの事実からは逃げられへん。……この社会で、あたし達みたいな奴らはさ。どう頑張ってもただの負け組で、異端児で』


 そして、言い放つ。重く息を吸って。



『出来損ないや――……』



 ――凍ったように、静かな世界。

 私が次に知覚したのは、何かが頬をでる感覚だった。

 固まって言うことを聞かない腕を必死に持ち上げて、顔へと持っていく。触れると、頬を伝う正体は大粒の涙だ。うっかりこぼれ落ちたなんてものではない。さながらダムが決壊したかのように、なく降り注ぐ涙。

 悲しくて泣いているのではない。意識が追いつかないうちに、生理的な反応として涙が流れている。どうやらショックが身体を壊してしまったようで、制御が行き届かない。

 はなすする音。嗚咽おえつが邪魔をして乱れる息遣いの音。

 気づいていないだけで自分がそこまで泣いているのかと思ったが――違う。

 音は、だ。


『ツムギ、』


 その、過去類を見ない声音こわねの一言。

 生物の本能を逆撫さかなでする響き。生存本能をむしる波形。不快感を直接耳に流し込まれるような反響。

 澪の声がそんな響きをはらんだわけではない。電波の都合で変調したというわけでもない。

 ひとえに、私の身体が壊れて――心が狂ってしまった結果だった。



『死ぬまで、あたしのことを思い浮かべもせんといて――反吐へどが出る』



 ……あ。

 と、思えたのが私の意識の最期。

 伝えるべきことを言い終わった澪は、すぐに電話を切ってしまった。通話終了を告げる、もはや聴き慣れたこのアプリ専用の効果音。その後を追う、完全な静寂。

 通話の終了に合わせて、私の世界は暗転した。



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