猫騙し
@kzppp
短編小説・猫騙し
…今の自分なら、あの川の流れの一部にだってなれる気がする。心地よい風を頬に感じながら、とりとめのないことばかりを頭に浮かばせている。この風は北の故郷へ春を乗せてゆくのだろうか。もう雪は解けたのだろうか。去年、大学入学を機にこの地に来てから地元には帰れていないから、今年の夏は帰ろうかと考えていたが、そんな気持ちもとうにしぼんでいる。家族や友人に会ったら真っ先に話そうと思っていた土産話が、今日、泡沫となって消えた。ふうと長い溜息をついて顔を上げると、眩い西日が山峡から差し込んでいる。今日はもう帰ろうかと、寄りかかっていた橋から身を起こして歩き始めた途端、
「あイタ。ちょっと、其処のヒト。」
突然近くで声がした。どこを振り返ってみても、誰一人いない。
「其方じゃア、なくて、ほら。」
その正体は、足元にいた。
「ご、ごめんなさいっ。」
反射的に謝りはしたが、とっくに脳は正常の域を脱していた。
「まア、いいけど。ずっと隣に居ましたのに…。何か悩みでも?」
漫画でしか見たことのない、花魁を連想させるような口調で喋っているのは、猫だった。白化粧を施したのかと言うような美しい毛並みが、より一層それを思わせた。これが本当の「猫騙し」というやつだろうか。
「ねエ、驚くのはわかりますけど、うんだのすんだの答えなさいよ。」
「…じ、実は、付き合っていた恋人に振られたんです。」
もうこの際どうでもよかった。今日自分に降りかかった別れに比べれば、目の前にいる存在が、とても些細なことのように思われた。
「どれくらい付き合っていたの?」
「3か月です。」
「まア、そんなに。あなた、種付けは終えたんでしょうね。」
「種…?あ、いえ、そういうことは、してないです。」
猫の表情が明らかに動くのを見てわかった。
「え、どうして?3か月も一緒にいたんでしょう?あなた繁殖期でしょう?」
「だって、恋人がそんな雰囲気じゃなかったですから。」
「…人間ってわからないわ。生物は種の存続を本能的に、半ば運命的に求められているものなのに。繁殖を終えて生涯を終える生物も沢山いるんですよ。知能を持つことは結構だけど、持ちすぎるのも考え物ね。過ぎたるは猶及ばざるが如し、なんて言葉は案外当たっているのかも。」
「あなたにも言語以外の知能があれば、わかったと思いますけどね。」
「それもそうかもね。ふふふ。」
猫の言い様に少しイラっときたので嫌味を言ってみたが、軽く流されてしまった。今の自分では敵わないと思った。
「それにしても、人間って何でもかんでも白黒と決めたがるわよねエ。」
「納得して生きるためじゃないですかね。」
「どうしてそれをそれとして、そのまま受け入れられないのかしらね。」
「猫って、どういう猫がモテるんですか?」
「メスは出産経験豊富、オスはデカくて強いの。」
「単純で良いですね。」
「人間は?」
「知れたら悩んでないですよ。」
「美女とイケメンじゃないの。」
「それもそうかもしれないですね。あはは。」
それからどれほど話したか、時間は忘れていた。気づけば日はどっぷりと暮れていた。
「案外猫でもヒトと話せるのね。そりゃ、ヒトだって本来獣なのよね。じゃア、ね。」
去り際にそう言うと、猫は一瞬にして闇夜に消えていった。その時、ほのかに甘い香水の香りを嗅いだ気がした。
猫騙し @kzppp
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