エピローグ

 ゆっくりと目を開けると、暗闇の中に三日月の姿が目に入った。

 

 周囲からは、たくさんの人の話し声がザワザワと聞こえている。清太は思わずハッとして飛び起きた。そこは青いビニールシートの上だった。どうやらそこに横になっていたらしい。周りを見回すと、同じようにビニールシートを敷いて、その上に座っている人々が数えきれないほどいる。持ってきたお弁当や、屋台で買ったような焼きそばなどを食べながら、思い思いに楽しんでいる。既にかなり酒も入っているのか、大声で喋ったり笑ったりする声も聞こえていた。


(どこだ、ここは?)


 ふと見ると、手元に1枚のチラシがあった。そこには、「20XX年 市山の花火」の文字が大きく書かれ、協賛している企業などの名称がズラリと並んでいる。


(そうか……今年の花火大会か……)


 そのチラシを手にしてようやく分かった。ここは、市山町の花火大会の会場だった。町が風吹川の河川敷に作っているその有料の指定区画には、それぞれびっしりと人が座り込んでいる。その中で、清太が座っている区画は、大人が3人ほど座ることができる比較的狭い区画のようだ。


 その時、会場にアナウンスの声が流れてきた。


『皆様。お待たせしました! いよいよ市山の花火がスタートします。それではご一緒に、カウントダウンをお願いします』


 会場にいる人々が一緒になって10から叫んでいく。


 ……5、4、3、2、1


 ドドドドー!


 爆音とともに光の筋が夜空にいくつも描かれ、その一瞬後に大きな光のリングが描かれていく。それとともに周りからたくさんの歓声が上がる。次々に勢いよく上がるその光の祭典を、清太はビニールシートに座ったまま見上げていた。


(結羽——)


 光に照らされた清太の瞳から、スッと涙が滴り落ちた。どうやら長い夢を見ていたようだ。あの事件が起こった高校時代に、自分と死後の世界から蘇った結羽が猫の姿で転生し、人間の結羽の命も、その家族の命も助けるという、儚い夢。いつか二人だけで見に行きたかったその花火大会が、今、自分の目の前で繰り広げられている。


(結羽……。良い夢を、ありがとう)


 結羽に伝えるように心の中で呟く。猫の姿で彼女と過ごした日々。人間の彼女のために、そして彼女の家族や清太の父のために、白猫の彼女とともに、清太は全力で駆け回った。それは十分に幸せな夢だった。きっとこの夢は、失意のどん底にいた自分のために、彼女が見させてくれた夢なのだろう。しかしその夢は、ハッピーエンドでは終わらなかった。


(バカ……。忘れることなんて、出来る訳がないだろ)


 夢の中で、彼女は清太に言った。自分の事はもう気にしないで幸せに生きて欲しいと。それは、彼女の書いたあの手紙にも書かれていた事だった。しかし、清太にはそれができるとは到底思えない。


 空を見上げている瞳から、再び涙が溢れて頬を伝う。その時、ふと、花火より更に上の夜空に気づいた。光が届かない、真っ暗な空。


(結羽……この花火、見えるだろう?)


 空のはるか彼方から、彼女もきっと同じ花火を見てくれている。彼女が言ったように、清太と過ごした記憶が失われてしまったとしても、花火好きの彼女は、ただ純粋に、同じこの光の祭典をきっと見てくれている。そう思うと、少しだけ心が安らぐ気がした。


 ひとしきり続いたオープニングの花火が終わり、拍手と歓声が起こっていた時だった。


「お兄ちゃん。お待たせ」


 声の方を見ると、妹の安那が金魚のような鮮やかな魚が描かれた浴衣姿で立っていた。慌てて手の甲で涙を拭く。もう一度顔を上げると、その横には、見知らぬ男が立っていた。


「焼きそばで良かったですか?」


 男は持っていた大きめの紙袋の中から、清太の方にビニール袋を差し出した。


(誰だ? コイツ)


 体は細いが清太よりも長身そうな男。安那と一緒に帰って来たところを見ると、彼氏だろう。


「ああ……ありがとう」


 やや気まずい感じを抱えながら、男の手から、そのビニール袋を受け取った。その時だった。


(あれ……?)


 清太の隣に座り込んだ安那の向こうに、その男が座る。清太はもう一度、その男の顔をじっと見つめた。


(コイツ……亮介じゃないか)


 そうだ。深沢亮介。安那は去年、この男と結婚したのだ。祖母も入院中だったがまだ存命で、結婚式自体には出席できなかったものの、病院で安那の花嫁姿の写真や映像を見て、涙を流して喜んでいた。どうして亮介の事を忘れていたのだろう。寝ぼけていたのだろうか。


「結構、どの店も混んでて、時間かかっちゃったね。オープニングの花火は何とか土手の上から見えたから良かったけど」


 安那が言うと、亮介も笑顔で頷いてから、隣に置いた紙袋の中から別の容器を取り出した。そこにはたこ焼きが並んでいる。安那はそこに楊枝を刺して口に入れた。亮介も同じようにして、それを一口に食べる。


「それにしても人が多いですね。去年はこんなに多かったかな?」


「こんなもんじゃないの。お父さんとお母さんも人が多いから疲れちゃってるかも」


「えっ? 父さんたちが来てるのか?」


 驚いて安那の方を見ると、彼女はチューハイの缶を一口飲んでから答えた。


「今年はどうしても花火が見たいって、最初にお父さんとお母さんが言い出したんでしょう? それでお兄ちゃんも先週末から休みを取って、畑仕事を手伝ってたんじゃない」


「俺が、畑仕事を……?」


「まあ、そのおかげで、二人とも来てるはずだけどね」


 安那は再びたこ焼きを口に入れる。思い出そうとするが、なぜか安那の言うような事があったという記憶がない。強烈な内容だったあの夢のせいで、やはりまだ寝ぼけているのだろうか。そういえば、やや頭も重い感じがする。


「あっ、また花火が始まりましたよ」


 亮介が夜空を指差すと、オープニングの花火で盛り上がった心を落ち着かせるように、控えめな花火がパンパンと音を立てて上がっていく。星の形や笑い顔など様々なデザインの花火が、赤色、黄色、緑色などの明るい色をつけて次々に輝きを放っている。周りの人々も、食べながら、飲みながら、それを見上げたり、歓声を上げたりしていた。


 それが終わってしばらくすると、再びアナウンスの声が聞こえてきた。


『それでは皆様。次は、メッセージ花火の時間です』


 歓声と拍手が周りから聞こえてきた。それは、大切な人に感謝や想いを伝えるメッセージとともに、花火を打ち上げてくれるというイベントだ。皆で祝うという雰囲気になるので、この花火大会では昔から会場を大いに盛り上げる名物企画の1つになっている。


 最初は、子供や孫からのお爺さんの還暦を祝うメッセージだ。孫の可愛いコメントが大人たちの心をくすぐっていく。次は、初めて産まれた子供に対する、元気に育って欲しいとの親からのコメント。こういうものも心が温まる。コメントの後に花火が上がると、大きな拍手が送られていた。


『さあ、皆様。いよいよお待ちかねの、プロポーズのメッセージです!』


 一際大きい、「オオー!」という声が周りから上がる。例年、このイベントではプロポーズのメッセージ花火が必ずといって良いほど盛り込まれる。そして、それが一番の盛り上がりになるのだ。特に、酒も入った大人達の盛り上がりは大きい。


「亮介もこのプロポーズをやってくれたらよかったのに」


「僕が? いやあ、そういうのはちょっと……」


 頭をかきながら言葉を濁す亮介の前で、安那が楽しそうにしている。安那は母に似て活発な感じなのに対して、亮介は清太と同級生の筈だがかなり落ち着きがある。二人の様子を見て、良いバランスだなと心の中で思っていた。


『これは、長く離れ離れになってしまった二人のお話です』


 アナウンスの声が、それまでとは違って静かに語り始める。


『皆様は、自分の正直な気持ちを伝えることができているでしょうか。……いいえ。本当の気持ち、特に大切な気持ちは、なかなか言葉として伝えることは難しいことがあります。これからお話しする二人の男女も、なかなかそういう大切な気持ちを伝えることができませんでした』


 辺りがその声に聞き入るように静まり返っている。なぜかその声が心地よく体に響いてくる感じがする。周りも静かなのは、皆もそう感じているせいなのかもしれない。


『そんな時、突然、二人は離れ離れになってしまうことになりました。そして、何年も……本当に長い間、二人は再会することはもちろん、連絡を取ることもできませんでした。しかし、二人ともずっと、心の中ではお互いのことを想い続けました』


 河川敷に敷かれたビニールシートの上を、涼しい風が流れていく。座り込んだ人々は、まるで時間が止まったように静まり返っている。


『そんな時、二人は本当に偶然に再会します。本当に限られた時間だけでしたが、二人はお互いの本当の想いを伝え、同じ場所で、同じ時間をともに過ごすことができたのです。……しかし、それは正に淡い夢でした。目が覚めた時、世界は全く変わっていなかったのです。ただ偶然に、二人は同じ夢を見ていただけの話でした。目の前の現実に直面し、二人は深い絶望感を味わったのです』


 そこで少し間が開いた。


『しかし、それは本当に夢だったのでしょうか。本当に、二人は離れ離れのままなのでしょうか。いいえ、私は信じたい。奇跡が起こることを。今日、この場所で、二人が再会できることを!……さあ皆様も、応援していただけますか!』


 すると、「オオー!」と会場一帯を地鳴りのような声が響いていく。誰もが歓喜し、大きな拍手が続き、その先に起こることへの期待を示しているようだった。


『さあ、それではプロポーズをする方に登場していただきましょう。皆様、ステージにご注目ください!』


 すると、遠くに見えているステージが、スポットライトの光に強く照らされた。そこを見つめると、その光の中に一人の人間がゆっくりと歩いてくるのが見えた。そして、その人間はステージの真ん中で前を向いて真っすぐに立ってこちらを向く。しかし、しばらく経っても他に誰も出てこない。「あれ? あの人よね……」、「どういうこと?」といった不思議などよめきが広がっていく。


 すると、はっきりとよく通る声が、会場に響いた。


「そう。想いを伝えたいのは、この私。今日のアナウンスを担当している、全日本放送アナウンサー、望月結羽! 私が大好きな人は、きっとここにいる。……そうだよね、清太!」


 ステージに真っすぐに立っている1人の人物。その姿はここからでは遠くてよく見えない。ただ、それが誰なのか見分ける必要はなかった。


「結羽っ!」


 スッと立ち上がって叫んだ時だった。


「お兄ちゃん! これ持って」


 声の方を振り向くと、いつの間にか安那が手にブーケのような花束を持っていた。そこには、黄色い女郎花が大量に包まれている。


「その花って……お前ら、まさか」


「こういうのって、演出が大事でしょう? なにせ結羽さんは今や全国区の人気アナウンサーなんだからね」


「えっ?」


「それにしても、結羽さんったら、大げさな話よね。イギリスに留学していた時のことを言ってたのかな? 確かに長い間だったのかもしれないけど……。あっ、そんな事より、早く行ってあげて」


 亮介もその隣でにこやかにしている。清太は頷くと、花束を受け取って胸に抱え、真っすぐにそのステージに向かって走り出した。ビニールシートの上に座った人々の間を、風のように颯爽と駆け抜ける。サーチライトの光が駆けていく清太の姿を見つけ、その足元を照らしていく。


 ステージの前まで来て立ち止まり、その上に立っている人物を見上げる。朝顔の花の模様に彩られた紺色の浴衣を着た結羽は、長い髪を綺麗に結って、真っすぐにそこに立っていた。そして、持っていたマイクを床に置くと、そこからこちらを見下ろしながら笑顔で頷く。もう、その表情に闇はない。彼女の心は、十分な愛情で満たされているのだ。そして、心が満たされているのは、清太も同じだ。


 清太はそのステージにさっと飛び乗って、彼女の前に立った。


「結羽……本当に……」


 震える声で尋ねると、彼女は大きく頷く。


「空の上から花火を見るつもりだったのに、下からになっちゃった」


 そう言って明るい笑顔を向けた彼女の瞳から、みるみるうちに涙が溢れ出す。そして、清太の瞳の奥からも、温かい涙が溢れてきて止まらない。涙を手の甲で拭いてから、手にしていた花束をそっと彼女の前に差し出すと、彼女はしっかりとそれを抱きかかえる。


「ありがとう……。ねえ、清太。女郎花の花言葉って知ってる?」


「えっ――」


「『儚い恋』と、『美人』なのよ」


 一瞬ハッとしたが、その言葉にしっかりと頷いた。そうだ。正にそれは儚い恋だったのだ。しかし今、その彼女は目の前にいる。美しい彼女はそこに生きている。それは確固たる現実だ。すると、花束を抱えた彼女は、真面目な顔でこちらを見つめた。


「清太、お願い。白猫と三毛猫として過ごした、あの夏からの私たちの記憶を取り戻して」


「記憶を……? どうやって?」


「私を、しっかりと抱きしめてくれればいい」


 結羽がそう言った瞬間、清太は彼女に一歩近づき、その体をそっと抱きしめた。彼女が抱えた女郎花の花束から、優しい香りが二人を包んでいく。すると、信じられない程のたくさんの記憶が頭の中を駆け巡った。笑って、泣いて、たまには喧嘩して。手を繋ぎ、抱き合った時間。共に過ごした二人だけの思い出が、次々に記憶として刻まれていく。そして、ゆっくりと顔を上げた彼女は、静かに呟いた。


「清太……ありがとう」


「もう、離さない。ずっと」


 もう一度、彼女をしっかりと抱きしめる。すると、ドドドーンという低い轟音とともに大きな光の筋が空に上がった。二人とも驚いてその行方を見上げる。一瞬、その光が消えたかと思うと、次の瞬間、真っ暗な夜空にたくさんの大きな金色の花が舞った。

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君に捧ぐ、女郎花と夏の記憶 市川甲斐 @1kawa-kai

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