(11)
三毛猫は、真っ暗になった高い土手の上をトボトボと歩いていた。
もうどれくらい歩いてきたのだろうか。方向感覚もなく、とにかく風吹川を遡って行こうという考えだけだった。延々と続く土手は、どこまでも終わらないような気がしてくる。ただ、そこは幅の狭い土手であるため、車も通らない場所であることは幸いだった。
あの男の腕で殴られたお腹の辺りはズキズキとしていたが、歩けない程ではない。しかし、以前のように風のように走ることは無理だ。それでもあの時、人間の清太が来てくれたおかげで、自分は致命傷まで負わずに済んだ。だから、あの男の体に最後の力を振り絞って何度も飛び掛かった。それで清太は奴に勝つことができた。
人間の結羽を清太がしっかりと抱きしめたのを見て、三毛猫はようやく自分の役割が終わったことを感じていた。
(もう、結羽は、大丈夫だ——)
そう思ったからこそ、あの場をそっと離れて、ゆっくり休みながらここまで歩いてきた。猫は自分の死期を悟ると、自ら人間から離れてどこかに行ってしまうと聞いたことがある。今なら、その気持ちが少しだけ分かるような気がした。
ただ、今でも1つだけ、思い残していることがある。
(白猫に……結羽に、会いたい)
彼女はきっと結羽の家にいるはずだ。あそこまで戻れば、彼女に会うことができる。風吹川の土手をずっと川上に行けば、いつかはその家のある五坂町の辺りまでたどり着くことができる。その希望だけを胸に、方向感覚のない道を、ゆっくりと歩いていた。
(清太——)
おや、と思って立ち止まり辺りを見回す。どこからか、自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
(気のせいか)
幸いにも、夜でも視界がはっきりしているので、歩くことは苦にはならない。再び足を踏み出し、歩き始める。
その時、土手の先の方に、何か光るものが見えた。
(何だろう?)
その小さな光は、どんどん自分に近づいてくる。すごい速さだ。そして、それがすぐ目の前で急に止まった。
「清太……」
白猫の金色の目が大きく見開かれてこちらを見ていた。一瞬、それが夢ではないかと思って唖然とする。
「おかえり」
再び白猫の声を聞いて、知らぬ間に涙が出てきた。猫も嬉しいと泣けるんだと実感する。白猫はハアハアと息を上げながら、その顔を自分に擦り付けてきた。その体の温かさに、心が救われる思いがする。
「結羽……会いたかった」
「私も……。清太が無事で良かった。本当に」
白猫はそう言うと、清太に顔を擦り付けてきた。心地よい、小さな顔。疲れ切った清太の心が、奥の方からどんどん温められていくように感じられた。
「どうして、ここが……?」
「風が、あなたの匂いを運んでくれたの」
そう答える彼女の息遣いをすぐ傍に感じる。
「ちょっと、休んでいかない?」
白猫が言うのに頷くと、彼女は真っ暗な土手の斜面の草むらに座り込んだ。それに続いて隣に座る。目の前にある河川敷の向こうには、風吹川がゆったりと流れている。その川の音が僅かに聞こえる中、隣にいる白猫の体の温もりが、しっかりと伝わってきた。
「清太のお父さんは無事よ。私、清太のウチに行ってたから」
「えっ? ウチに行ってたのか?」
「うん。……私のウチで松上に飛び掛かってから、前に神様と会った時みたいに意識を失った感じになったんだけど、気づいたら清太のウチにいたの。もしかしたら、神様が連れて行ってくれたのかもしれない」
白猫は思い出しながら答えた。松上が人間の結羽を拉致し、それから何らかの手段で智治を連れてウチに来るとしたら、あまり時間は無かっただろう。そうすると、白猫の言う通り、何らかの不思議な力が働いたとしか思えない。
「清太の家の花壇の辺りで倒れていた私に人間の清太が気づいてくれて、すぐに抱きしめてくれたの。それでとにかく必死に清太に伝えようとしたら、清太も分かってくれたみたいで、すぐにバイクに乗って出て行ったわ。私も清太に抱きしめられてから、何だか急に体が楽になって、そこで待っていたら、松上とお父さんが来た。それで松上にまた飛び掛かってやったの」
「すごい……。結羽って、勇気あるな」
「フフッ。何だか、この猫の体って、運動はまるでダメだった人間の私とは違って、すごい身軽で、何でもできる気がするのよね。そうそう。それで、家にいたお母さんがその騒ぎに気付いて、すぐに110番してくれたみたい。結構早く警察が来てくれたから」
「そうか……ごめん。ありがとう」
「そんなの別にいいわよ。それに、松上も逮捕されて、私のお父さんも無事だって。警察の人がそう言ってたわ」
そう聞くと、一気に体の力が抜ける気がした。
「結羽は大丈夫なんでしょう?」
「うん。無事だよ。俺も大村を思い切り何度も引っかいてやった。そうしたら人間の清太が来て、落ちていた竹の棒で奴に綺麗な
ハハハ、とそこで笑った。隣で白猫も笑顔を見せる。そして、顔をこちらに寄せた。
「本当に、ありがとう」
白猫が顔を押し付けながら言った。
「うん……」
「人間の結羽の命は、人間の清太に救われた。それを手助けしてくれたあなたのおかげで」
「俺は、そんなに大したことはやっていないよ。結羽がいたからこそできたんだ。それに、結羽だってウチの父さんを守ってくれた」
それを聞いて、白猫は首を振る。
「私だけじゃ絶対に無理だった。清太がいてくれたこと、そして、私に道を示してくれて、その道を切り開いてくれたから、私も動くことができたの。……本当にありがとう」
真っ暗な闇の中、白猫の目がキラリと光っている。しばらく2人で並んだまま、黙って川を見つめていた。ゆったりと川の流れる音が耳に響き、土手の斜面を強い風が吹き抜けていく。その時、ふと三毛猫は気づいた。
「そうだ。この辺って、市山の花火大会の会場の近くだよね」
「えっ? ……ああ、そうかも」
「この辺りは打ち上げ場所に近いから立ち入り禁止になると思うんだ。だから、逆にここから見たら相当迫力あると思うよ。まだもう少し先だけど、ここまで来る安全なルートを探しておかないとね」
そう言って白猫の方を振り向くと、彼女は少しだけ頷いてから、暗い夜空を見上げた。
「どうしたの?」
不思議に思ってそう尋ねると、白猫はハッとしたようにこちらを向いた。
「……あのね。1つお願いがあるんだけど。……少しだけ目を閉じてくれない?」
えっ、と白猫の方を振り返ると、「いいから」と言って笑っている。
「分かった」
そっと目を閉じる。スズムシだろうか。リーン、リーンという音が耳に響いてくる。隣に誰かがいることをしっかりと感じながら、そのまま目を閉じていた。
次第に時間の感覚が薄れていく。どれくらい時が経ったのかよく分からなくなる。
「いいよ」
白猫の声が近くで聞こえた。ゆっくりと目を開ける。不思議と、さっきよりも辺りが暗く感じられるような気がする。長い間、目を閉じていたせいなのだろうか。
「清太、こっちを見て——」
その声が聞こえた隣をゆっくりと振り向いて、思わず目を見張った。
「――!」
黒い瞳だ。暗闇の中に、自分を真っすぐに見つめる大きな瞳。黒く長い髪。優しい笑顔。はっきりと見覚えのあるその姿で、キラキラと輝く光を浴びながら、本物の、人間の姿の結羽が隣に座っていた。
「結羽……」
「フフ……あなたも、自分の姿を見て」
言われてハッとして自分自身の姿を見下ろす。人間の、手と足、体が、同じように光に包まれて視界の中にあった。
「あっ、俺だ……」
「やっぱり、人間の、清太の姿が一番だね」
そう言って、結羽は隣にいる清太の肩に頭を乗せた。彼女の長い髪が半袖の腕にそっと触れる。そして、彼女の体の温もりも清太の中にじわじわと伝わって来るように感じた。
彼女のことを、心の底から愛おしく思う。隣を向いて、結羽の背中に腕を回して、座ったまま正面から抱きしめる。その細く、柔らかな体が、今はしっかりと自分と共にある。
「ありがとう。清太——」
「結羽……俺、本当にお前のことが好きだ。……だから、もう絶対に離さない」
うん、と清太の胸の中で結羽が頷く。
「清太のおかげで、私は自分の生きる力を取り戻した。あなたとの楽しくて大切な時間が、暗く深い、1人きりの世界から、私を救い出してくれた。本当にありがとう」
清太も頷いて、彼女を抱きしめ続ける。もう、彼女の中に闇はない。どんなことがあろうとも、頼るべき場所を、自分の居場所を見つけられたから。そして、それは清太も同じだ。彼女がいるから、彼女を大切に思う気持ちが、清太の心を強くする。彼女とずっと、一緒にいたい。
「結羽——」
そう呟いて、胸に抱いた彼女の顔を見つめる。彼女もこちらを見上げた。不健康なほどに痩せていたと思っていた彼女の体には、闇が消えたせいなのか、空虚なところはどこにもない。今は確かに、その全てが優しく十分に満たされているのだ。
清太はゆっくりと結羽の顔に近づけて、そっと唇を重ねた。柔らかなその感触が全身に伝わり、彼女の腕が背中に回るのを感じる。ずっと、そのままでいたい。初めてそう思った気がした。
やがて、静かに彼女が顔を引いた。
「ありがとう——」
彼女は笑っている。すると、彼女を彩る光が一層強くなった気がした。
「清太……私、本当に、本当に嬉しい。……だけど、もう時間みたい」
そう言い終わると、その姿が星のようにきらめき始める。
「時間——」
「私は一度死んだ人間。でも、神様は私にチャンスをくれたの。7日間だけ」
「7日間……?」
結羽の言うことが理解できずに黙っていると、彼女は優しく笑った。
「猫の姿の時には思い出せなかったけど、今はしっかりと思い出せる。私は、天国でも地獄でもない、ただ後悔と憎悪だけしかない暗闇の世界にいた。そして、そこにいた神様は、私を娘として迎えてくれたの。『白猫の姫』として」
「白猫の……姫」
「うん。私はそれで、神様から力を借りて、白猫の姿に転生し、私を傷つけて、のうのうと生きていたあの男たちに復讐しようとしていた。でも、別に魔法が使える訳でもないし、所詮、この世で猫のできることなんて限られているから、復讐なんて大それたことはできなかった。だからそのうち、せめて私の想いだけは清太に伝えたいって思うようになったの。それであなたは私のあの手紙を読んでくれた」
「もしかして……あの白猫が?」
「ええ、そう。……だけどその結果、お母さんは死んだ」
「結羽――」
「……でもね。清太が私の手紙を読んで、その冷たい世界の現実を悔やんでくれたから、私はあの世界を出ることができた。そして、私は自分の本当の願いを果たすためにこの世界にやって来たの」
「願いって……」
「うん。猫の姿でもいい。7日間だけでもいい。ただ、あなたと同じ世界で、もう一度、一緒に過ごしたかった」
息を呑んで結羽をじっと見つめると、彼女は静かに笑った。
「清太と過ごせただけでも十分だったのに、私は、人間の私と清太との最高の結末を見ることができた。それに、人間に戻ったあなたが私を抱きしめてくれたから、もう本当に何の後悔もない。だから、もうお別れ——」
強くなっていく光に包まれながら、彼女がフフフと笑う。最高の笑顔の中で、彼女の頬を輝く涙がスッと流れ落ちた。その姿に、清太は必死にその体を抱きしめて叫ぶ。
「嘘だろ……結羽! 行かないでくれ!」
「清太……。私は、本当に、こんな幸せな結末になって欲しかった。……だけどね。この結末を、私もあなたも選べなかった。これは、私たちが生きていた世界とは絶対に交わらない、別の世界のお話」
「違う! これが、本当の結末だ!」
抱きしめた結羽が、首をゆっくりと振るのを感じた。
「私はね。もう、この世界の記憶を全て失って、向こうの世界に行くしかないの。それがあの世界を出て、ここであなたと過ごすための神様との約束だったから。……だから、私の事はもう気にしないで、清太にはあなたの世界で幸せになって欲しい。それが私の最後のお願い」
結羽がそこまで言うと、彼女の足元がキラキラとした星のような光の中で、次第に透明になっていくような気がした。
「う、嘘だろ!? やめてくれ!」
「清太……ごめんね。一緒に花火を見る約束は守れなかった。だけど、私はあっちの世界から、きっと同じ花火を見ているからね」
「そんな……」
「神様にもお礼を言っておくわ。たった7日間だけでも、こんなに楽しく過ごせたのだから。大好きな清太と、私でね……」
清太は夢中でその体を抱きしめる。結羽の頬を流れる温かい涙を、彼女に重ねた自分の頬から感じた。
「駄目だ! 結羽……そんな……」
彼女の背にしっかりと腕を回して抱きしめる。絶対に離したくない。もう彼女を失いたくなかった。
「フフ……清太、ありがとう」
「結羽!」
「さようなら——」
光が輝きを増していく。辺り一面が白く見えるほどに明るくなり、清太の体もどこからともなく光に包まれていた。ただ、夢中で目の前の結羽の体をしっかりと抱きしめ続けたまま、そこから先は何も見えなくなった。
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