第15話 人生の午後三時
人生の午後三時にはもう、壁を破ろうという気概がない。三時になって、そんなことをする時間も、必要もないのかもしれない。
人は午後三時になったら、何をすべきなのか。まずは、おやつだ。陽もだいぶ傾いてきている。お茶を飲んで、夕飯の買い出しに行くだろう。そして、夕飯を作って、風呂を入れる。
しかし、もしもこれが夏だったら、どうだろう。新しく今から洗濯をするかもしれない。薄いものなら、乾いてしまう。
布団を干すかもしれない。干さないよりは、多少さらっとするだろう。
午後三時には、女性ホルモンが減少して、昔なら死んでいた頃かもしれない。だからもう、三時は余生なのだという人もいる。欝だとか、認知症が静かに本当にゆっくりと始まっているからだという人もいる。
成熟とはずいぶんとつまらないものだと思う。私はもう、きつい言葉で人を責めたり、人に何かを言われてカッと腹を立てて何かを言い返したりすることはない。これを成熟というのなら、それはとても、平和な感情だと思う。しかし、私に本来あったはずの闘争心や、攻撃本能までもなくなってしまって、私は日々、自分が野心を抱いた対象がなんであったかを、朝になるたびに忘れてしまっているのだった。
その時だった。
あいつがやってきた。
『そうやって、あたかも普通に紛れて、一般人として、流れていこうという、あんたの魂胆は、目に見えている。あんたは、それが許されない。一生、報われない血の海で、溺れ続けなくてはならない。川岸で、息がちゃんと吸えて、ちゃんと、ものが食べられて、
負債の取り立てにおびえずに、静かに暮らしていけると思うな。あんたは、ずっと溺れなくてはならない。あんたは、ずっと、叩かれ続けなくてはならない。たどり着くことのない、階段を、上がり続けて、どこまでいっても、高さの変わらない、同じ景色を見ていなくてはならない。なぜなら、あんたは、地獄の住人だから。隠れられていると思ったら、大間違い。あんたは、生きながら地獄で泣きわめかなくてはならないのだ』
いつもの言葉を言った。
私はもう、何も感じなかった。
怖くもないし、面白くもなかった。トランキライザーになどならなかった。
するとあいつはがっかりしたように、言った。
『俺はお前にたくさんの奇跡をやった。俺はお前の夢をすべて叶えた。それなのに、お前は、奇跡が起きた一瞬は泣いて喜ぶものの、次の日には当たり前の顔をしやがるんだ。
感謝してくれよ。
毎日、感謝して、奇跡だ!と驚いてくれよ。
ギャーッと叫んでくれよ。
太陽が昇った!
朝が来た!
鳥が鳴いた!
蝉が鳴いてる!
空気が吸える!
排尿できた!
水が流れた!
紙がある!
朝ご飯が自動で炊けた!
火が着いた!
車がある!
そもそも、命がある!
というように、喜んでくれよ。
感謝の舞を踊れ。
あの時、そう思ったじゃないか。
それなのに、お前はすぐに忘れて、当たり前の顔をして、人生の午後三時、などとのん気なことを言っている。
なぁ、頼むよ。俺のやることにもっと、注意を払ってほしい。俺が与えることに、もっと、びっくりしてほしい。当たり前の顔をするな。与えるほうは、力を注いでいるのだ。百円だしてぽんと買ってきているわけじゃない。当たり前の顔をするな。頼むから』
私は足元で泣く神に、言った。
『だって、しょうがないでしょ。更年期なんだから』
女の短編集 清涼 @seiryo
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