君塚つみき

「――ッ⁉」

 気が付くと、僕――野原のはら光央みつおは、夜空の下で立ち尽くしていた。

 外灯の淡い光がらす眺めには馴染みがあった。老朽化が進んだ木造校舎。砂利じゃりが敷き詰められた狭い校庭。滑り台やブランコなどといった定番の遊具。ここは僕が住んでいる沖縄の小さな離島にある、通い慣れた小学校である。

 ここまでは何も問■もんだいない。しかし、それ以外が異常だった。

 僕はついさっきまで真■まひるの校庭にいたはず。だがどういうわけか、今はすっかり夜になっていた。加えて一■いっしょにいた他の人の姿が忽然と消えてしまっている。

「何が起こった?」

 不可解な事態に唖然としていたとき。

 から声がした。

「野原君?」

「うわ⁉」

 驚いて真上を向くと、五メートルほど上空に女の子が浮遊していた。まっすぐ伸びた長い黒髪に、島の子にしては珍しい白い肌。純白のノースリーブワンピースに身を包む彼女は、ロープ等で吊られているでもないのに、地面と水平な姿勢で宙に浮かんでいる。

 女の子は僕と目が合うと、パッと顔を綻ばせた。

「やっぱり野原君だ」

「え、月花げっかさん⁉」

 風見鶏かざみどり月花げっかさん。この学校でただ一人の六年生にして、僕の唯一のクラスメイトだ。過疎化で生徒数が激減した当校では、二つの学年を統合して一つのクラスとする■式ふくしき学級制を採用している。校内で一人だけの五年生である僕は、月花さんと共に五・六年学級に属しており、彼女とは気心知れた仲であった。

 見知った顔を見つけられたのは幸いだが、そんなことは常軌を逸した現象のせいで頭に入ってこない。

「なんで飛んでるんですか⁉」

「知らなーい。こっちが聞きたいくらいだよ。それに野原君だって浮いてるじゃん」

「は? ほんとだ! なんで⁉」

 月花さんが■差ゆびさす先、青色の運動靴をいた僕の足は確かに、地面から鉛筆一本分浮いていたのであった。



「野原君もこっちおいでよ」

 と誘われた僕は、月花さんに向かって浮上した。泳ぐように手足を掻かずとも、僕の体は重力に逆らって浮かび上がり、月花さんのいる高さで停止する。不思議なことに今の僕は浮遊するすべを理解していた。あと心なしか、身体が薄っすらと透けているような気もする。

「なんなんだ、これ」

 己の身に起こった変化に戸惑っていると、月花さんが怖いことを口にする。

「私たちまるでお化けみたいだね」

「じゃあ僕ら死んじゃったんですか?」

「かもしれない」

「そんな」

 自分が死亡した可能性を突きつけられて僕はサッと青ざめる。対して月花さんは楽観的だった。

「そんな落ち込まないでよ。もしかしたら夢を見てるだけかもだし」

「はあ」

 死亡説も夢説も胡散臭うさんくささはイーブンだが、死んでいる■合ばあいはもうどうしようもない。だから僕は斬定的に、ここは夢の中だと考えることにした。

「それにしても、僕らの身に何があったんですかね」

 死んだにしても夢を見ているにしても、現実世界の僕らは今、■■いしきがないことになる。なぜそんな状態に至ったのかが気になった。

 月花さんが過去をさかのぼるように遠い目をする。

「私たち、さっきまでみんなと校庭にいたよね」

「はい。確か授業中でした」

 そのときは三限目で、計十九人の全校生徒と五人いる先生の全員が校庭に集まっていた。

「なんで外に出てたんだっけ?」

「なんでって……あれ? そういえばなんでだ?」

 授業中に校内の生徒と教師がこぞって外に出ていた理由は、なぜか覚えていない。それは月花さんも同じようで、僕らは共に眉をひそめる。

「私はともかく、野原君が物忘れとは珍しい」

「面目ないです」

 そのときふと、あることが引っ掛かった。

「月花さんって僕のこと、野原君って呼んでましたっけ」

「いつもそう呼んでるけど。どうかした?」

「うーん、何か違和感があるというか」

 野原君。彼女にそう呼ばれるたびに、むずむずとした耳慣れなさを感じる。まるで僕のことではないような、何か別の呼び名があったような、そんな気がするのだ。

 月花さんが心配そうに言う。


「もしかして野原君、記■を失くしてるのでは」


 おや?

 セミの鳴き声じみた、ジジッ、というノイズが鳴って、月花さんの声が一部聞き取れなかった。

「すみません、何を失くしているって言いました?」

「え? 記■を失くしてるんじゃない、って……」

 再びノイズ。さっきと同じ箇所だ。『き』で始まるのは分かったが、その先がまったく聞こえない。そして今度は月花さんもノイズを耳にしたようで、彼女の声が尻すぼみになる。僕は周りを見回すが、ノイズの発生源らしきものは見当たらない。

 怪訝な顔色になった月花さんは、数秒の沈黙を挟んでから再度口を開く。

「記■を失くして、」

 ノイズ。

「記■を、」

 ノイズ。

「……」

 静寂。

「…………記■!」

 ノイズ。

 月花さんが口に出そうとした特定の言葉が、まるでテレビの放送禁止用語みたいに掻き消される。そのノイズは、頭の中に直接ひびいているようで。

 何か異常なことが起こっていた。

「なんなのこれ!」

 堪忍袋のが切れた月花さんが、身体を丸めてぐるぐると回転しながら喚き散らかす。斬新すぎる怒りの表現方法だった。

「どうしましょう」

 何らかの原因によって、月花さんの発言が邪魔されているのは確実である。僕らが宙を飛べるくらいなので、ここはこういった不思議な現象が発生する■所ばしょなのだろう。もはや割り切るしかない。問■もんだいはどうやって月花さんと会話するかだ。

「そうだ」

 妙案を思いついた僕は、ご乱心の月花さんに■示しじを出す。

「月花さん。今言おうとしてた言葉、別の単語で言いえられませんか?」

「別の単語? えっと」

 回転を止めた月花さんはしばし思案した後、「あれだ」と言ってある単語を挙げた。

「メモリー!」

 それは英語だが、僕でも分かる■単かんたんな言葉だった。

「記■か! あっ、」

「あら、野原君もだね」

 僕の声にもノイズがざる。発言を遮られるのは月花さんだけではないようだ。だがこれで僕の予想は当たったと見ていいだろう。彼女が発した言葉は『記■きおく』だ。

「なんで『記■』にだけノイズが掛かるんだ?」

 記■喪失きおくそうしつがどうこうという話は頭から吹き飛び、僕の興味はこの奇妙な現象にぐいぐいと引き寄せられていた。

 改めて単語を耳にしたところ、やはり『記』までは聞き取れた。ノイズが掛かるのは『おく』の部分。となると『記■きおく』という熟語ではなく、『おく』の部分に問■もんだいがあるのかもしれない。

 そう仮説を立てた僕は、検証のために月花さんに協力を仰ぐ。

「すみません。今から僕が短い文を読み上げるので、それが全部聞こえたらマル、聞こえない部分があったらバツって言ってもらえますか?」

「おっけー」

「ありがとうございます。じゃあ」

 まずは。


「オクラを食べる」

「マル」

『オクラ』は問■もんだいなし。


「距離を置く」

「マル」

 これも大丈夫。


「荷物を送る」

「マル」


「会議に遅れる」

「マル」


「■病な性格」

「あ、バツ!」

「出ましたね」

■病おくびょう』にノイズが掛かった。搔き消されたのは前半で、後半の『びょう』は聞き取れた。


 僕はさらに続ける。


「屋内で過ごす」

「マル」


「ハイオク満タン」

「マル」


「■測で物を言う」

「バツ」

 また出た。ノイズの発生パターンは『■病おくびょう』と同じだ。


「一■円」

「バツ」

一■円いちおくえん』もダメ、と。


「なるほど。段々分かってきましたよ」

「野原君、これは一体何をしてるの?」

「実験ですよ」

 僕はこの試みの趣旨を説く。

「『記■』――メモリーのことです――へのノイズの掛かり方から、『おく』と読む言葉が聞こえなくなるのかなと思ったんですよ。それで他の言葉がどうなるか試してみたんです」

「で、結果は?」

「恐らく、関係あるのは『おく』という読みだけではないですね。このノイズは特定の漢字に反応して発生するみたいです」

 今のところノイズが掛かったのは、

記■きおく』・『■測おくそく』の『おく』、

■病おくびょう』の『おく』、

一■円いちおくえん』の『おく』、

 の三つ。

 これらの字はすべて同じつくり――漢字の右側部分ことだ――を持つ。『用■ようい』や『注■ちゅうい』、『■外いがい』などに使われる『』の字だ。この共通点が、ノイズが発生する法則性に関係している予感がした。

 と、ここで月花さんが真下を■差ゆびさす。

「その字、地面に■いてみよっか」

 ジッ、とノイズが鳴った。

「あ」

 僕は月花さんと顔を見合わせる。

「今ノイズになった部分、言い換えてください」

「筆記してみようか、って言った」

 これもすぐに理解できた。僕はペンを握るジェスチャーを添えて答えを述べる。

「『■く』ですね」

「正解!」

 月花さんは笑顔で親■おやゆびを立てた。

 今ノイズが掛かったのは『手紙をく』、『■物しょもつ』、『下■したがき』等の使われ方をする『しょ』の字の部分である。それは『おく』とは異なる読みをする漢字だった。

 僕はこれまでの法則性が乱れたことに困惑する。


たては関係ないのか」


 あれ?

 僕、今なんて言った?

たてって何ぞ?」

 月花さんもきょとんと首を傾げる。

「僕、たてって言いました?」

「うん」

 その首肯を受けて、僕は狐につままれたような心地になった。

 僕が口にしたかったのは『立』ではなく別の言葉だ。

 もう一度その単語を声に出してみるが。

「立。立。うわ、なんだこれ」

 やはり僕の声は変質して『立』になってしまう。

「そうだ」

 さっき月花さんにやってもらったみたいに、別の単語で言い換えればどうだろうか?

 焦りを鎮めながら僕は考える。アレは言い換えると――

「サウンド! サウンドって言いたかったんです」

「なるほど立ね。あ、私の方もやっぱりこうなるんだ」

 月花さんの口からも『立』と発される。僕が言いたかった単語は伝わったのだろう。

「どういうことだ」

 英語ではサウンドと呼ぶあの言葉が、なぜか『立』に変わってしまう。その謎めいた道理に迫ろうと、二つの字を頭の中に思い浮かべたとき。

 鮮烈な閃きが舞い降りた。

「……ああ、そういうことか!」

 そしてすべてを思い出した。

 それは分かってしまえば単純な仕組みだった。


しょくだ」


 口にした解答を自分の耳で聞いた、僕はその推測が正しいと確信した。

 あの字が『立』になったのも。

 特定の言葉がノイズになったのも。

 月花さんから呼ばれる名前に違和感があったのも。

 学校のみんなが授業中に校庭に出ていたのも。

 じゃないこの世界が夜であることも。

 すべて食が原因だ。

 ならば。

 謎が解けた興奮に当てられながら、僕はでまくし立てる。

「月花さん! たぶん僕たち、もうすぐ現実に戻れます!」

「どゆこと?」

「空を見てください」

 ■乱こんらんする月花さんに対して、僕は人差しゆびを上に向けて見せた。その先には、りのないな空がある。

 僕らが上空を見上げたとき、それは現れた。

 何もなかった中天が、突如として裂ける。

 のような孤を描くその白い裂け目は、閉じていた瞼が開いていくかのように、ゆっくりと広がっていく。

 やがて、その裂け目から強い光が溢れた。

 どこか希望のようにも感じられるその光は。

 奇妙で不思議なこの夢の世界を、まばゆく包み込むのであった。


「――ッ⁉」

 気が付くと、僕はベッドの上で仰向けに寝ていた。

 見慣れぬ天井。ベッドの周りに張られた仕切り布。微かに鼻を突く消毒液の臭い。ここは学校の保健室だ。

 僕はベッドから起き上がって、仕切り布の外に出る。

 部屋の中央に大きなテーブルが置かれていて、二人の若い女性が椅子に腰掛けていた。片方は五・六年学級を担当している山岸やまぎし先生で、もう一人は養護教諭の真木まき先生だった。

「あ、起きた!」

 山岸先生が血相を変えて詰め寄ってくる。

「大丈夫⁉ 体調は⁉」

「平気です」

 先生の激しい語気にたじろぎながら、僕は体調が万全である旨を伝える。

 そのとき、背後で足音がした。振り向くと、もう一台あるベッドから女の子がこちらに歩いてくる。

 女の子と目が合う。

 よかった。彼女も無事だったようだ。

「野原君? いや違うか、日野原ひのはら君?」

「さっきぶりです。月花さんもとい、明日花あすかさん」

 僕――日野原ひのはら晃央あきおは、彼女――風見鶏かざみどり明日花あすかさんに、片手を上げて挨拶した。



「日食によって『日』の字が消失する。それがあの夢の中で起こっていたことです」


 保健室の窓から薄暗い空を見上げながら、僕はあの怪現象の正体を明日花さんに明かした。

 日食。地球と太陽の間に月が挟まることで、太陽の一部または全部が見えなくなる天体現象である。

 今日、二〇〇九年七月二十二日は日食の発生日であり、さらにこの島を含む沖縄の一部地域では、太陽が完全に見えなくなる皆既日食が観測できると言われていた。

 皆既食はもう過ぎており、今は月に隠れていた太陽が徐々に顔を覗かせつつある。

「皆既日食で太陽が消えている間、字の中に『日』を含む漢字はある影響を受けていました。『日』がないと字として成り立たない漢字は雑音になり、『日』がなくなっても成り立つ漢字は別の字になっていたんです」

『記憶』・『憶測』の『憶』。

『臆病』の『臆』。

『一億円』の『億』。

『手紙を書く』の『書』。

 これらの字はいずれも、『日』を失って文字のていを保てなくなりノイズと化した。

 一方で『音』や、明日花さんの名前にある『明』は、『日』が取り払われて『立』、『月』という別の字になっていたのだ。

 そして。

「で、『日』の字そのものは完全になかったことになっていました」

 ゆえにあの世界で僕らは、『野原光央』であり、『風見鶏月花』であったわけだ。

「そういうことだったんだね」

 僕の説明を聴いてしみじみ呟く明日花さんであったが、束の間の後、僕に質問してくる。

「でも、そもそもどうして私たち、気絶してあんな夢を見たわけ?」

 山岸先生から聞いた話によると、僕らは日食の観察で校庭に出ていたとき急に意識を失い、保健室に運び込まれたらしい。その原因には熱中症が疑われ、先生たちは僕らが目を覚ますまで気が気じゃなかったそうだ。

 明日花さんに問われた僕は少し考え込んだ後、自分なりの推論を唱えた。

「『日』が消えたことで、名前に『日』を含む僕らは存在を保てなくなったんじゃないかと」

「それで気を失ったと。なるほどね」

 今回校内で倒れたのは僕と明日花さんの二名のみ。名前に『日』が入っていない他のみんなは何事もなく皆既日食を見届けたとのことなので、この線はかなり濃いだろう。

 まあこの理論だと、僕らは毎日夜を迎えるたびに気を失うということになるのだが、そこは数年に一度しか起こらない日食の希少性が生んだ奇跡ということにして、お茶を濁したい所存である。

「ん?」

 明日花さんが、はたと何かに気付いた素振りを見せる。

「名前に『日』がある人が、気を失ったんだよね?」

「はい」

「ってことはまさか」

「気が付きました?」

 僕は苦笑しながら、その先を引き継いだ。

「校外にはわんさかいると思いますよ、あの夢を見た人」



 この日。沖縄の一部地域にて、原因不明の意識障害を起こす人が大勢現れた。

 これらの人々は全員、皆既食の開始時に気を失い、終了時に意識を取り戻した。

 そしてその後みな口を揃えて、気絶中に変な夢を見たと証言している。


 余談だが、僕が住むこの島で皆既食が継続した時間は、五分間だったとのことだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君塚つみき @Tsumiki_Kimitsuka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ