第35話 決戦(11) 転生
神国スヴォレミデルの隣に位置するヴィーネンルーダ公国の片田舎に、名もない小さな村がある。
そんな場所にある教会は村同様に名称が無く、小さくて、廃教会寸前だ。
当然、定着する司祭も居ない。訪れたとしても総本山から左遷されたような訳アリの聖職者が短期間滞在するだけの施設と化していた。
とはいえ、村の者にとっては大切な教会だ。
皆が皆、豊かではないから、教会建物が立派になる事は決してないが、出来る限りの修繕と掃除を代わる代わる村民の手で行っている。
本日の教会の掃除担当はレアだ。
印象的すぎる赤い色の髪を一つに束ね、水を張った木桶と雑巾を持って教会前に立っていた。
新緑色の瞳を雑草だらけの小道に向けるが、誰も来る気配が無い。
「うーん。ちょっと早く来すぎたかな? オレクが手伝いに来るって言ってくれたけど」
オレクはレアの隣の家に住む幼馴染だ。
将来は騎士を目指すか、家業の狩猟を継ぐかで悩んでいる少年で、同じく少女な年齢であるレアに求婚済みという、おませさんでもある。
レアは木桶と雑巾を持ち直して、寂れた教会に足を向けた。
オレクが約束を反故にする事はないので、先に教会内の拭き掃除でもしようと思ったのだ。
オレクには是非とも雑草の方を何とかしてもらいたい。
村の小道も教会周辺も、草木が生い茂っている為に、抜いた側から虫とご対面しそうだ。
教会に入り、レアは新緑色の瞳を輝かせた。
寂れてはいたが、レアにとって村の教会は、前世のスマホアプリのお気に入りの乙女ゲームの舞台を思い出すからだ。
まずは祭壇から、とレアは雑巾を絞る。
「此処、ヒロインがジュリアン様と出会った教会に似ているんだよねぇ」
絞った雑巾で手を拭きながら広げて、パンと張り、レアは祭壇を拭き始めた。
全村民一丸となって結構まめに掃除しているにも関わらず、ひと拭きするだけで雑巾に付着する土汚れが酷い。
村の道は舗装されていないから、それも仕方がないのかもしれない。
乾季に風が吹くものなら、村道からも畑からも土が盛大に舞うからだ。
「……小説や漫画のように、転生するとは思わなかったなぁ」
しみじみと呟いて、レアは祭壇を一生懸命に拭う。
その度に印象的な赤い髪が揺れた。
「小説や漫画だとさ、よく知っている話の世界に転生するけど、私は違ったね。転生だって気づいた時に、片田舎在住の身で調べられるだけ調べたけど、大陸にある国名で知っているのは無かったし。ジュリアン様に会えないのは残念だけど……でも、それで良かった」
木桶に張った水の中にレアは雑巾を入れた。
土汚れが酷いから、一度で木桶の水が濁る。
それを見て、レアは前世の最期を迎えた川を思いだした。
「前世の自分の在り方を後悔しているからさ、私。努力して上手くいかなかったとしても、諦めちゃ駄目だったんだって。あの時、皆、必死になって助けようとしてくれたよ。……少しでも歩み寄れば良かった。あとちょっとでいいから、皆との関係を頑張れば良かった。遅いよ。後悔しても。遅いもん。終わっちゃったもん。菅野菜々葉は、あの時に」
ポトリと木桶の水に涙が落ちた。
自分が泣いている事にそれで気づいて、レアは質が良いとは言えないゴワゴワとした生地の服の袖で目元を拭う。
オレクが来るのに泣いてはいけなかった。
彼に余計な心配をかけてしまう。
「お母さんとお父さん、絶対、泣いたよね。すごく悲しんだよね。……親不孝すぎるわ、私。最低だよ」
はぁ、とレアは深い溜息をついた。
前世の事を思い出す度に、後悔と反省と、どうしようもない悲しみとが、ごちゃ混ぜになって押し寄せてくる。
レアは印象的な赤い髪を持つ頭を左右に振って、気持ちを切り変える事にした。
「今は祭壇のお掃除! 集中しよ! まだやる事はいっぱいだよ!」
それから暫く、レアは黙々と祭壇を拭いた。
何度も拭いて、雑巾が汚れると木桶の中に放り込む。
漱いで、絞って、また拭いてを繰り返した。
それが一通り済むと、レアは祭壇の前で膝をついて手を合わせる。
他の箇所の掃除を開始する前に、そしてオレクが来る前に、女神シルフィアに祈りを捧げようと思ったのだ。
今世の世界で女神シルフィアは、一番信仰者が多く、人気のある神だ。
「女神シルフィア様。この世界に転生させて下さって、ありがとうございます。私を受け入れて下さって、本当に感謝しています。
前世の私は後悔する事がいっぱいありました。親も同級生も悲しませてしまいました。それが辛いです。今更どうにも出来ない事が、こんなにも辛い事だったなんて知りませんでした。ううん、知ろうともしなかったんだと思います。反省しています。すごく反省しています。
……だから、今世は後悔しないように頑張りたいと思います。周囲の人を悲しませないように努力します。親を大切にします。村の人たちも大切にします。皆、親切なんです。いい人たちです。今世でもやっぱり気の利いた会話は苦手だけど、皆、それでもいいんだよって言ってくれました。
前世とは違って、地味で平凡な容姿ではないんですけど、それがプラスになったとは思っていません。前世の問題は、そこでは無かったんだと今更ながら分かったんです。
あと、オレクに求婚されました。まだ年齢的に早いからと返事は保留にしているんですけど、きっと私は首を縦に振っちゃいます。軽く見えるけど、優しさが滲み出ている人なんです。私という人間を凄く理解してくれてもいます。彼が将来、騎士になろうが、狩人になろうが、今の私には関係ないです。
前世でやっていた乙女ゲー、あっ、乙女ゲームとは主人公と、攻略対象者という魅力的な男性達との恋愛の物語なんですけど、その私の気に入っていた乙女ゲームの攻略対象者の一人に、ジュリアン様という王子様がいるんです。最推しで大好きだったんですけど、もし、この世界がその乙女ゲームの世界で、実際にジュリアン様が居たら、逆に私は困っちゃうと思います。他の攻略対象者の公爵や魔法使いも、現実は手に余りまくるというか。
あー…そういえばあの時、隠しルートが出たんですよねぇ。隠しの攻略対象者のセオドア攻略、ちょっとやってみたかったなぁ。それが心残りのひとつというか。なんて」
クスリとレアは笑った。
女神シルフィアに祈りという名のカミングアウトが一通り済んで、沈んでいた心がスッキリする。
今世の人生に今のところ後悔はない。
名も無い片田舎の村の少女としての地味で平凡な日々の生活を、レアはとても満足していた。
レアは合わせていた手を解いて、木桶に放った雑巾を手に取った。
オレクはまだ来ないが、椅子拭きや、床掃きなど、やる事は山のようにある。
「オレクが来たら、祭壇に供える花を一緒に摘もうかな」
言いながら自然と微笑んで、レアは立ち上がった。
雑巾を手にしながら、うーん、と伸びをして、掃除の為に椅子に向かう。
カタリと祭壇の下方から物音がした。
当然の事だがレアは驚き、肩を跳ね上げる。
教会は今、レア一人だけで、もしオレクが来たとしても物音が聞こえるのは出入口の扉のはずだ。
では何の音なのか。
片田舎の村だ。村人は全員、家族のように顔見知りで、よそ者が来訪したら必ず耳に入る。
目立ちすぎて不審者が入り込む隙は皆無。可能性としては穀物を荒らす鼠が一番高い。
「マジかぁ。この世界の鼠、見た目が全然可愛くないんだよねぇ。狂暴ですって顔をしてるんだよ。えー…どうしよう。掃除を中断して、オレクを外で待った方がいいかなぁ」
『―――僕は鼠ではないよ』
「……え?」
耳触りの良い声音に話し掛けられた。
それに鼓動を早まらせながら声が聞こえた方へと、レアは勢いよく振り返る。
つい先程まで雑巾で何度も拭いて土汚れを落とした祭壇が、不吉そうな黒い靄で覆われていた。
不快、穢れ、不安、恐怖、そんな負の感情を呼び起こす印象の靄だ。
自然、レアの体が小刻みに震えだした。
じわりと足の先も冷えてくる。
気候は寒くも暑くもない快適な陽気だったが、レアの額に汗が浮かんだ。
冷や汗だ。
黒い靄に覆われた祭壇の上に、ペタリと、赤い血のついた形の良い手が置かれた。
次いで、漆黒の髪を持つ頭が現れる。
レアは唾を飲み込んだ。
祭壇の裏に誰かいる。
どうやら立ち上がろうとしているようだ。
『体の節々が凝り固まっているよ。随分と長い間、僕は眠りに就かなければならなかった』
祭壇を挟んで、レアの前に一人の男が現れた。
漆黒の長い髪、漆黒の瞳、息を飲む程に整った容姿の男だ。
服装は純白の大きな一枚布を緩く体に巻いていて、一部が酷く血で汚れている。
レアは震える手を口に持っていった。
「……羽? 黒い、羽が」
『そう。羽だ。僕は背に羽を持つ存在だからね。忌々しい事に、今は片方しかない』
不快そうに眉根を寄せて、男は漆黒の瞳にレアを捉えた。
『色も本来は純白なんだ。黒くなってしまったけど』
「天使?」
前世の知識と記憶から、自然と思いつく事をレアは口にした。
『さあ? どうだろう』
「白から黒……堕天使」
『嫌な事を言う。僕は何も変わらない。昔も今も。―――ねえ、君、僕の目を見て』
漆黒の髪の男が祭壇をまわって、レアの方へと近づいてきた。
つい先程、体の節々が凝り固まっていると言っていた通り、動きがぎこちない。
ゆっくりと歩くのにも些か苦労しているようだった。
漆黒の髪の男が足と止め、両手でレアの頬を包んだ。
その手は鮮血で濡れていて、それを目に留めてしまったレアは無意識に体を引く。
が、許されずに、男の漆黒の瞳とレアの新緑色の瞳が合わさった。
漆黒の瞳にレアは映り込んでいない。
彼の瞳は硝子玉のように澄んでいるのに、光が無く、瞳孔の存在が確認できない。
見てはいけない深淵を覗いているような、そんな瞳だ。
闇のような瞳を見ているうちに、レアの思考が少しずつ鈍っていく。
頭の中を黒い靄が侵食してくるのだ。
朦朧とする自分を自覚しながらレアの体の震えが増すのに、漆黒の髪の男は口を笑みの形に変える。
『オレクは来ないよ』
「……え?」
『オレクは来ない。彼は君のお気に入りのオトメゲームには関係ない人物だから』
「何を言って……」
『この世界は前世の君がお気に入りだったオトメゲームの世界』
「違いますっ」
『僕は君が一番大好きなコウリャクタイショウシャ』
「違っ―――」
『僕の手を見て。血で染まっているだろう? 止まらないんだ。羽を毟られた背から流れ出る血が。長い時を経ても止まってくれない』
漆黒の髪の男がレアの柔らかそうな唇を親指の腹で撫でた。
それに合わせ、レアの喉がコクリと鳴る。
黒い靄が頭の中を支配していく。
拒絶は許されない。
『他のコウリャクタイショウシャが、僕を虐めるんだ。君と一緒だよ。前世の君と一緒。地味で平凡で、昔も今も気の利いた会話が苦手な君とね。だって、そうだろう? 君は前世で周囲を恨んでいたはずだ。妬んでいたはずだよ』
「……やめて」
『地味で平凡な容姿に産み、気の利いた会話が苦手な性格に育てたのにも関わらず、現状に気づきもしない親を君は恨んだ。輪の中に入れず、手を差し伸べてくれないドウキュウセイにも、やはり君は妬んで憎悪したんだ』
「……そんなことは」
『無いとは言えないはずだ。だってさ、手を差し伸べないのは罪だよ。そして何より、気づかないのは最大の罪だと僕は思っている』
「……罪」
『そう。罪だよ。許し難い罪。手を差し伸べられず、気づいてもらえなければ、此方は堕ちるしかないじゃないか。だろう? 自らが動いて手に入れるしかない』
「……手に、入れる」
『欲しいのだから仕方ない。やるしかない。想いを。温もりを。愛を得る為に』
黒い靄に思考を完全に支配されつつあるレアを、漆黒の髪の男は懐に入れた。
レアの印象的な赤い色の髪を鮮血のついた手で撫でて、赤を交じり合わせる。
二人の周囲に、不快で不純物が混じる紛い物の闇の魔力が纏いだした。
より濃い箇所はレアの首元。
縛るための歪んだ闇。
『僕と君は一緒だ。見返そう。見返して、欲しかったものを手に入れるんだ』
漆黒の髪の男―――堕天使がレアの
『ある国にローデヴェイクという王子が居る。彼はね、僕の光の力を奪ったんだ。オトメゲームの隠されたコウリャクタイショウシャだよ。光の魔力。女神の恩恵。女神との繋がり。……辛いんだ。苦しいんだよ。あの力は僕のものだった。昔の僕は、あの力を持っていた』
堕天使が囁き続ける。
『今代の聖女も僕から金の瞳を奪っている。許せないよ。あの瞳も僕のものだ。金の瞳は、女神の
堕天使の血に濡れた手が、レアの首に触れた。
途端、より濃かった黒い靄が収縮していく。
息苦しさに、レアが空気を求めて喘いだ。
「……あっ」
『取り返せないのなら、せめて存在を消そう。目障りなんだ。苦しくて、辛くて、悲しくて、羽を毟られた癒えない背も、心も痛い。仕返しをするんだ。全てに。僕をこのようにした全てにだ。前世の君の悔しさも救ってあげないといけない。君は、この世界の主人公だ。お気に入りのオトメゲームの世界を君は楽しむべきなんだよ。前世の君が大好きだったコウリャクタイショウシャの僕を助けて欲しい。僕も君が大好きだよ』
堕天使がレアの耳朶から顔を離した。
空洞のような光の無い瞳を持つ目をそのままに、口元だけの笑みを彼は深くする。
レアの首元にペンダントが現れた。
片田舎の名も無い村の娘が持つには不相応すぎる大粒の黒ダイヤのような闇の魔石と、その周囲に幾つものピンクダイヤをあしらったペンダントだ。
堕天使がペンダントを血濡れた手で掬い持ち、闇の魔石に口づけを落とした。
『御守りをあげよう。肌身離さずにつけているんだ。大切な君に、今の僕の力を分け与える。上手くいくように応援しているよ―――』
闇の魔石から堕天使が顔を上げると、レアの記憶は歪み、思考は完全に支配された。
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