第34話 決戦(10) 菅野菜々葉の記憶





 学校指定のジャージ姿の菅野菜々葉は、数日前に上流で降雨があったと増水気味の川を眺めながら、適当な岩に腰をかけて、一人スマホを弄っていた。

 川の流れが普段より早く、水は濁り気味で、突然深くなっているところもあるからと、川へ入る事も、近づく事すらも引率の教師から禁止されている。故に、川の水に足を浸すことはしていない。


 今は高校生活最後で最大のイベントである修学旅行の自由時間だ。

 大半の同級生は、川の横の山を少し上ったところにあるキャンプ場に居て、今夜のキャンプファイアーの準備を自主的にやっていたり、男女仲良く各グループで遊んでいたり、菜々葉のように河原へ下りてきた生徒たちは生徒たちで、川に石を投げてキャアキャアと飛距離を競っていた。


 そんな少し離れたところで楽しそうに自由時間を満喫している同級生たちを、菜々葉は努めて気にしないようにしている。

 楽しそうな彼ら、彼女らの声は聞こえない。

 あの人たちは、菜々葉には関係無い。

 見えない。聞こえない。向こうからも気づかれない。

 そう思いながら、いや、祈りながら、菜々葉はスマホを弄り続けていた。


「此処、電波が入って本当に良かった。修学旅行の行き先希望アンケートで、秘境に近い山と川に決まった時は絶望したけど……。秘境って何よ。普通、有名観光地でしょ、行き先って」


 ふぅと溜息をついて、菜々葉はスマホを弄る手を止める。


「どうしよう。課金しちゃおうかな。此処で課金いっとかないとジュリアン様の攻略厳しいでしょ。この乙女ゲー、課金要素多すぎ。無料で遊べるのなんて、中盤までじゃん。……でも、イラストが美麗なんだよねぇ。最推しは正当派王子のジュリアン様だけど、公爵のデリックも、魔法使いのエヴァンも、騎士のクライヴも、攻略対象者、皆、カッコイイんだよね。声優さんも豪華だし。うん、課金しよう!」


 許容範囲内なら多少の課金は許してくれる親に感謝と申し訳なさを感じながら、菜々葉は三千円ほど課金する。

 それで早速、購入するアイテムを選ぼうと画面を切り替えると、隠しルートが発生したとの通知が入った。


「隠しの攻略対象者が出た! セオドアだって! え、めっちゃカッコイイ! 黒髪碧眼かー。いいね!」


 最推しが変わっちゃうかも! 嘘、嘘! 浮気はしないよ、ジュリアン様! と呟き、心の中で悶えながらスマホを弄り続けていると、キャンプ場の方からホイッスルが聞こえ、次いで拡声器で、集合、と教師が叫んだ。


 菜々葉がスマホ画面から顔を上げると、同じく集合の声が聞こえたのだろう、少し離れたところで石を投げていた同級生らも、手を止めて、キャンプ場の方を見上げている。

 戻るのだろう、彼ら、彼女らは、手にしていた石を河原に捨てて、手を叩きだした。


「私も戻らないと。はぁ、憂鬱。どうせボッチなんだから、修学旅行になんて来なきゃよかった。……でもなぁ。行かないと、お母さんに余計な心配させちゃうし。それも嫌だし」


 地味で、平凡で、気の利いた会話が苦手でつまらない。

 目立たなくて、存在感がないから気づかれない。

 皆の輪の中に居ても空気を悪くしそうで、それを理由に嫌悪を向けられたくもなくて、菜々葉はいつも息をひそめて日常をやり過ごしている。


 そんな自分が嫌いだった。大嫌いだった。変わりたいと何度も思ったし、努力もしたが、変われなかった。小学生の頃から引きずっている性分だ。変われるはずもなかった。筋金入りなのだ。


「ま、密な環境の学生生活もあと少しだしね。この先は進学しても人間関係とか緩そうだし、そう思うと頑張れるよ。寂しさはジュリアン様で補えるし、……恋愛感情だって満たされると思ってる」


 座っていた岩から腰を上げ、パンパンと菜々葉はお尻を叩いた。

 河原で遊んでいた同級生たちが思いの外、早く撤退していくのに些か焦る。

 変に気づかれて声を掛けられるのは嫌だが、無人の場所に置いていかれるのも嫌すぎた。

 菜々葉は慌てて足を踏み出だした。

 そして物の見事に失敗する。


「え? うわっ!」


 踏み出した先の河原の石が予想外に不安定でグラついて、体勢を思いっきり崩したのだ。

 かなり派手に転倒して、パシャリと上半身が川の中に浸かってしまう。

 川に入ってはいけないと注意をされていたが、これは事故だし、転倒した場所は手首ほどと浅い。

 しかし問題は―――。


「スマホ! 私のスマホが!」


 転倒した勢いで、スマホを川の中へと放ってしまった。

 その事実に菜々葉は軽くパニックになる。


「え、やだっ、どうしよう! スマホは大事! スマホは失くせない! スマホは親友! 恋人! 彼氏だよ! 私の命だから! スマホだけは失えないって! ジュリアン様! 課金したばかりなのに! 無理だよ! スマホを今、失くしたら、この後の日程を私はどう過ごせばいいのよ!」


 スマホが大切なのは現代の人類共通事項だとして、菜々葉の場合は既に依存の域だ。

 その事に勿論気づいていたが、菜々葉にとって、スマホを弄る事が周囲に馴染めない孤独と寂しさを紛らわす重要なアイテムであったし、お気に入りの乙女ゲームは、大切な心の癒し要素だった。


 濁った川の水に浸かった上半身を、浅い川底に手をついて起こした。

 必死に目を凝らすが、やはり川の水が濁り気味でよく見えない。


 菜々葉は唇を噛んだ。

 川に入るしかない。

 どの辺りに放ってしまったのか、転倒のタイミングだったから判然としないが、そう遠くではないはずだ。


 ピリリとした痛みが手のひらに走ったが構わずに立ち上がって、ジャブジャブと水が濁った川に入る。

 学校指定のジャージが水を吸って重くなった。

 それに気づいて、川の中で大腿まで強引に捲り上げる。

 けれど直ぐにそれも無駄な行為となった。

 水深が急に深くなったのだ。


「えっ、何! ちょ……ごほっ」


 川の流れに足を取られた。

 深くなったとは言っても、膝上くらいだ。

 なのに足を持っていかれる。

 全身が引きずり込まれる。

 川の中へ。川の底へ。

 中はグルグルと水が巻いているのか、目まぐるしく変わる視点の転回に状況が理解できない。


 自分が何処を向いているのか分からないままに、とにかく浮き上がらなければと手を伸ばして、ゴチリと頭に堅い物が勢いよく当たった。

 物凄く痛くて、何を見ているのか分からない目がチカチカと光る。

 一瞬、気を失いそうになったが、此処で意識を手放したら終わりだというのは本能で分かっていたから、浮上しようと必死に藻掻いた。

 でも浮き上がれない。足が川底についた気がして立ち上がろうとするが、堆積物があるのか滑ってしまう。


 川の流れに体が好き勝手にされるのに、藻掻いて、藻掻いて、ひたすらに藻掻いた。

 疲労が急速に溜まっていった。力が出なくなってくる。でも出来る限り頑張った。

 その頑張りが評価されたのか、奇跡が起きたのか。

 時間にしたら、ほんの一瞬だったのだろうが、川面から顔を出す事が出来た。


「っ、たす、助けて!」


 今の菜々葉に出せる精一杯の声で助けを求めた。

 手も伸ばせるだけ伸ばした。

 何処に。誰に。

 河原にいた同級生たちにだ。

 つい先程まで、菜々葉には関係無い、見えない、聞こえない、向こうから気づかれない事を祈っていた。

 けれど今は気づいて欲しい。

 見つけて欲しい。

 発見して、助けて欲しい。

 菜々葉はまだ死にたくないのだ。


 死ぬのは怖い。物凄く怖い。

 死んだら人はどうなるのか。天国に行く? 地獄に行く?

 いや、菜々葉の考えは消滅だ。肉体の消滅。思考の消滅。忘却の強制。

 全てが消える。自分が生きているかも死んでいるかも分からない。悲しむ事も、絶望する事も、そもそも考える事すらできない。存在の消滅だ。ただ消える。


 ―――怖い。見つけて。お願い。


 沈んでいく。

 川が菜々葉を離さない。

 おいで、と死の底へと引きずり込んでいくのだ。

 ああ、これはもう走馬灯だ、そう菜々葉が理解した時、河原を去ろうとしていた同級生らが一斉に振り返った。

 菜々葉の精一杯の声に気づいてくれたのだろう。

 彼ら、彼女らは驚愕していた。


「え、菜々葉ちゃん!?」

「菅野!?」

「マジ!? ちょっと! 菜々葉ちゃんが溺れてる!」

「菅野! 何をやってるんだよ!」

「どうしよう! 先生を、」

「間に合わねぇよ! 俺が行く!」

「待て! そのまま行ってもお前も溺れる! 蔦だ! その辺に蔦か長い枝は」

「そんな時間、ねぇし! 待ってろ、菅野! もうちょい頑張れ!」

「スマホ! 私は助けを呼ぶ! えっと、こういう時は海上保安庁だっけ!? ドラマでやってたよね!?」

「それは海でしょ! 自衛隊だよ、自衛隊!」

「消防署じゃないの!? もう何処でもいいから電話かけよう! 菜々葉ちゃん、アイツの腕をとにかく掴んで……菜々葉ちゃん!?」

「いやっ、菜々葉ちゃん!」

「菅野ぉ!」


 ―――ありがとう。ごめんね。


 同級生が必死になって助けようとしてくれる姿を見たのが、菅野菜々葉としての最期の記憶だ。



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