第30話 決戦(6) 彼女の心を占める名は





 猫の身軽さが幸いして、ヘルトルーデは素早い動作で、玉座のある大広間を走り回っていた。

 獣のように鋭く突き出た牙から涎を滴らしながら、巨躯に見合う太く長い腕がヘルトルーデの後を追う。

 その腕には、ささくれたような尖った鱗が生えていた。鱗の色はアンシェラの肌の色だ。人間の皮膚がそのまま鱗化した様は、おぞましさしかない。


 豪華絢爛な大広間の、この国の伝統紋様を意識した美しい床を、アンシェラの魔獣のような腕が突き破る。何度も何度も。猫の後を追い、ヘルトルーデを殺そうとする彼女の意思が確かであると感じられる躊躇のない動きだ。


 印象的だったアンシェラの赤い髪は、無数の蛇に姿を変えていた。うねうねと蠢く様子は、何時ぞやの触手にも似ていた。アンシェラ顔の護るように在る触手のような蛇の夥しい数の眼は、猫のヘルトルーデの動きを追い続ける。


 凶悪な魔獣のように変化してしまったアンシェラは、これまでヘルトルーデが見てきた、どの魔獣よりも酷く醜い。

 魔獣であれば魔獣ならではの美学の一切を無視する有様なのだ。


 鋭い牙と爪、触手のような蛇の髪、鱗に覆われた太く長い腕を持ち、異様に全体が大きくもなったが、奇怪なことに、腹から胸元までは少女らしい美しさを保っていた。


 そんな彼女の胸元には、大粒の黒ダイヤと、その周囲に幾つものピンクダイヤをあしらったペンダントが変わらずに輝いている。頭上に載っていたティアラは落ちて、その衝撃で幾つかの宝石が外れ飛んでいた。


 魔獣のように変化したアンシェラの醜さは下部が顕著だ。

 下半身は既に人のものでなく、獅子やドラゴンのようなものでもない。

 そういうものではなく、ヌチャリとした粘液を纏う海の生物のようであり、人のはらわたの全てが剥きだしているようにも見えた。

 それが銘銘に意思を持ち、動いている。

 猫のヘルトルーデを確実に追ってくるのだ。


 豪華絢爛な大広間の美しい床に腸のようなものが触れたところから、ジュウと嫌な音が鳴り、異臭を放つ。焼けているのだ。纏う粘液が強酸の性質を持つのかもしれない。


 ―――このままでは確実にやられる。攻撃に転じないと。


 そうは思う。先程からずっと思っている。しかし、ヘルトルーデは未だ猫の姿のままだ。

 猫の跳躍力でヘルトルーデは跳んだ。広間に何本もある円柱を足掛かりにして、別方向へと移動する。


 円柱が盛大な破壊音と共に崩れた。アンシェラの変わってしまった鋭い爪と鱗を持つ太く長い腕が、猫のヘルトルーデを追って円柱に強烈な打撃を加えたのだ。


 円柱が、床が、美しい大広間がどんどんと壊されていく。

 避ける為にヘルトルーデが広範囲に動けば動くほど、玉座のある豪華絢爛な大広間は見るも無残な様相を呈していた。

 ヘルトルーデは焦る。


 ―――どうしよう、このままでは。早く解呪を、剣を私に!


 アンシェラの鋭い爪と鱗を持つ太く長い腕が再び床を貫いた。

 この国の美しい伝統紋様が粉々に破壊され、残骸が勢いよく周囲に飛散する。

 その一部の先鋭な破片が、走りまわるヘルトルーデの猫の前脚に突き刺さった。


「(……っ)」

「やっと一撃を加えられたわ、ヘルトルーデ姉様。猫になんてしなければ良かった。すばしっこくてムカつくし、アバラの浮いたみすぼらしい野良猫にもならなかったしね。まあでも、此処までよ。踏み潰して、臓物を飛び散らせて、王宮で飼っている犬の餌にしてあげる。この王宮、大型犬を何匹も飼っているの。王太子ローデヴェイクの所有物みたいよ? 彼、犬派みたい。猫派のオリフィエルが愚痴っていたわ。腹黒い王太子ローデヴェイクは、りげ無く犬をけしかけてくるんだって」


 アンシェラがニタリとした嗤いを深めた。

 人のものとは思えない突き出た牙が、獣のように涎を垂らし続ける。

 夥しい数の蛇の眼がヘルトルーデを見逃さず、下半身の腸のようなものがジュウと迫った。

 ボキリとアンシェラの鋭い爪と鱗を持つ太く長い腕が鳴る。


「―――死んで? 無様に。ヘルトルーデ姉様」

「(ローデヴェイクッ)」


 危機的状況に、今が最期となるのならば、真っ先に思い浮かぶ程に心を占める名をヘルトルーデは叫んだ。


 その直後だ。

 だからという訳ではないだろうが、突如、猫のヘルトルーデの躰が眩い光を放った。



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