第7話 異母妹アンシェラ
※ 動物虐待描写が数行程ほどあります。ご注意下さい。
***** ***** ***** ***** ****
魔獣の体内は想像とは違い、仄かに温かい場所だった。
快適か、と聞かれれば首を傾げるしかないが、少なくとも不快ではない。
視界は効かない。そもそも光の無い場所なのかもしれないが、ヘルトルーデの顔を触手が蠢き絡んで目を塞いでいた。
ピシャリと音がした。
口端からヌルリとしたものが無理矢理に口内に入り込み、何かを流し込まれる。
それに全身が拒絶したが、苦しくて、コクリと嚥下せざるを得なかった。
飲み込んだものがヘルトルーデの中に入ると、臓腑がジワリと冷えてくる。
触手に塞がれたままのヘルトルーデの目から涙が溢れ出した。
入れられた何かが臓腑に染み渡った途端に、ヘルトルーデが実際に目にした事の無い光景が流れだしたからだ。
それは一年前の、ヘルトルーデがコニングの屋敷を飛び出した日の事だった。
いつの間にか家族に、使用人らに愛され、コニング男爵家の中心となった異母妹アンシェラ。
彼女自身がヘルトルーデに直接何かをした事は無かったが、アンシェラは周囲を巧みに操る事に長けていた。
もし、アンシェラだけにヘルトルーデが不愉快に思う事をされ続けていたのなら、ヘルトルーデは然程傷つかなかっただろう。距離を置こうと考えただけだったと思う。
けれどアンシェラは、父ロブレヒトを、兄マレイン、執事のルーロフもマフダもフランカも、ヘルトルーデを嫌悪するように仕向けたのだ。
彼らに嫌悪され、冷たい態度を取られつづけた日々を、豊かな真っ白い毛で癒し、ペロペロと顔を舐める事で慰めてくれて、ヘルトルーデの味方であり続けてくれた愛犬ヘニー。
そのヘニーの最期の光景が否応なしに視せられる。
―――止めて。真実を知りたいと思う気持ちはあるけれど、見たくも無いの。
コニング男爵家の日当たりの良い場所に、ヘニーの犬小屋はあった。
元々は屋敷内で飼っていたのだが、アンシェラがやってきて、彼女に懐かずに常に唸り続けていたヘニーは、兄マレインの指示の下、庭園へと追いやられたのだ。
その時にはまだヘルトルーデの意見を聞く姿勢が周囲に少しは残っていたのもあって、せめて日当たりの良い場所を、と指定できたのだ。
あの日、その犬小屋からヘニーはマレインから無理矢理に連れ出されていた。
首輪を引っ張り、促す方向に動かなければ、嫌がるヘニーを殴って、蹴って、木の幹へと叩きつけたようだ。
―――止めて。本当に止めて。ヘニー、逃げて。ごめんね、あの日、私はヴィリーの家に居たの。助けてあげられなかった! 貴方を一緒に連れて行けば良かったのにっ!
殴られ続けて、蹴られ続けて。
ヘルトルーデが血塗れのヘニーを発見した場所に、マレインがグッタリとしてしまったヘニーを連れてくると、そこには男爵令嬢らしからぬ高価すぎるドレスを身に纏い、身の丈に合わない大粒の黒ダイヤと、その周囲に幾つものピンクダイヤをあしらったペンダントを身につけたアンシェラが居た。
彼女は可愛らしい微笑みを浮かべて、マレインの身に抱きつく。
抱きついて、キスをしていた。
ヘルトルーデの身が震えた。この人達は兄妹で何をやっているの、と。
おぞましさに吐き気がした。
『兄様、ありがとう。この犬、いつも私に唸るんだもの。いつ噛みつかれるのかと、もう怖くって』
『分かるよ。私もこんな駄犬は早々に始末するべきだと思っていた』
『……始末だなんて。そこまでする必要は無いと思うの。ヘルトルーデ姉様の愛犬だし、今回、兄様が罰を与えたのだから、これで十分。姉様の愛犬も分かったと思うわ』
『優しいな、アンシェラは。そのようにアレに気を使う必要など無いのに』
『ねえ、兄様。姉様の愛犬が汚れてしまったから、私が今から綺麗にしてあげようと思うの』
『そのような事をする必要は無いだろう?』
『ううん、それはやる。兄様、先に屋敷に戻っていて? 直ぐに戻るから』
『だが』
『ね、兄様。アンシェラからのお願い。ね?』
『分かったよ。また後で』
『うん!』
マレインが屋敷に戻るのを、アンシェラが可愛らしく手を振って見送って。
その姿が見えなくなった途端、アンシェラの雰囲気が変わった。
『たかが犬如きを連れてきたくらいで、キスを求めるとか有り得ないわ。何様なんだよって感じ? あ、攻略対象者様か!』
あははっ、と何処か馬鹿にしたように嗤って、アンシェラは低木の根元に隠し置いていた短剣を手にした。
『
―――止めて、アンシェラ! お願いだから!
ヘルトルーデは心の底から叫んだ。届けと。あの時にこの声が届けと。
けれど。
アンシェラは振り上げた。
鋭さしか感じない短剣を、ヘニーの躰に躊躇いもなく突き立てたのだ。
*****
朦朧とする意識の端で、ブチリブチリと何かを力任せに引き千切るような音が聞こえた。
次いで、自分の名を呼ぶ声だ。
「(ヘルトルーデ!)」
必死さしか感じないローデヴェイクの声音に、ヘルトルーデは返事をしようとして出来なかった。
咳き込んだのだ。
コフリと喉の奥から先程流し込まれたものが込み上げてくる。
肌にローデヴェイクの毛並みが触れるのに、彼に向かって吐く訳にはいかないと、ヘルトルーデは飲み込もうとして、口の中に狼の前足が捩じり込まれた。
「げほっ」
「(吐き出して、ヘルトルーデ! 闇に関連するものをこれ以上、飲み込んではいけない!)」
銀色の毛に覆われた太い前足がグイグイとヘルトルーデの口を更に開こうとする。
堪えきれず、ヘルトルーデは込み上げてくるものを吐き出した。
「ろ……ローデヴェイク、ごめん、けほっ……汚れ―――」
「(そこは今、気にするところかな? 大丈夫? 体に何か異変は?)」
「えっと、特には」
「(本当に?)」
ブチリとまた音がした。
今度は顔に巻きつく触手を引き千切っているようだ。
ブチリブチリと音がする度に、視界が段々と開けてくる。
その事にホッとしていると、ローデヴェイクの疑わしそうな声音が
「(闇の力には精神に作用してしまう力もあるんだ。そこはどうなの? 嫌なものを視たりしなかった?)」
「え?」
「(君が嫌で仕方のないものや、知りたくなかった事を視なかったかと聞いているの)」
再び音がブチリとして、涙に濡れたヘルトルーデの目が光を感知した。
全ての触手がローデヴェイクによって取り払われ、視界が開けたのだ。
「ありがとう、ローデヴェ―――」
その先を口にする事が出来なかった。
見る事が出来るようになったヘルトルーデのオレンジ色の瞳が最初に映したのは、勿論、銀狼姿のローデヴェイクで。
「ひっ」
「(ヘルトルーデ?)」
「いやぁぁっ」
耐えられなかった。
心が悲鳴を上げた。
アンシェラが振り上げた短剣の先に、大好きで大切だったヘニーが居て。
ヘルトルーデが発見した時には、真っ白な毛を血塗れにして冷たくなっていた。
そしてローデヴェイクは。
いつもはモフリとしている美しい銀色の毛を、今は真っ赤に濡らしている。
血に染まる銀狼が淡い光を放ち出した。
「(ヘルトルーデ、気持ちが落ち着くよう眠った方がいい。少し寝て、君が目を覚ました時、私は人型で、君は猫ちゃんだ。魔獣の体液で汚れてしまった猫姿の君を、私がシッカリと洗い流すよ。温泉を見つけておくね? ああそうだ、安心していいよ。魔獣の息の根は止めてあるからね)」
ローデヴェイクの優しい声が、眠りにつくヘルトルーデを包み込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます