第2話 呪われた二人、王太子ローデヴェイクの事情





 唇をザラリとした舌で舐められて、ヘルトルーデは目を覚ました。


 舐めたのは銀狼姿であるローデヴェイクで、彼は続けてヘルトルーデの目尻と頬を舐める。

 大人しくされるがままに舐められていたヘルトルーデは身を起こし、銀狼のモフリとした毛に覆われた躰に腕をまわしてギュッと抱き締めた。


「(嫌な夢を見たようだね。涙を流しながら寝ていたよ)」

「……うん」

「(アンシェラが来た後の夢?)」


 ローデヴェイクに聞かれるのに、ヘルトルーデは彼の首の銀色の毛の中に顔を埋めながら首肯した。


 空が夜から朝に変わろうとしている。

 体の奥にザワリとした気配がし出した。


「(私が呪いを受けてなく、王太子としての力と立場を変わらず維持し続けていたのなら、君の異母妹を簡単にどうにか出来たのだけどね)」

「アンシェラを? そうかな。直接会ったら、ローデヴェイクもアンシェラが好きになるかもよ? 皆、そうだったし」


 ヘルトルーデが腕をまわして顔を埋めているのを物ともせずに、ローデヴェイクがヘルトルーデを押し倒した。

 そしてヘルトルーデの耳や顔全体を犬のように舐めまくる。

 あまりの擽ったさに、ヘルトルーデは夢の残滓の涙を引っ込めて笑った。


「(会った事はあるよ。話さなかったかな?)」

「そうなの? うーん、聞いていないと思うけど」

「(夜会は勿論、王宮の奥深くにまで入り込んでいた事がある。私の愚弟のオリフィエルに引っ付いてね)」

「王宮の奥深く? 王族居住区域とか?」

「(そう。愚弟の私室に)」

「え?」

「(何をしていたのかは知りたくもないけれど、それ以外にも公爵家の愚息セルファース、魔塔の堕落者ケフィン、騎士団長の嘆かわしい汚点のフィクトル、そして君の愚兄のマレインとよく戯れていたよ。何の権限があるつもりなのか、王宮の庭園で茶会をしたりしてね)」

「……ごめん」

「(どうして君が謝るの)」


 ザワリザワリとした感覚が断続的に体中を巡り始めた。

 夜が去り、陽が昇り始めたのだ。


「もう時間だね。猫さんに変身するわ。……ねぇ、ローデヴェイク。早く私の上から退いて、服の用意をした方がいいんじゃないの? 人型の全裸なんて、ちっとも笑えないよ?」

「(そう? 別に私はヘルトルーデに見られても構わないよ?)」

「そういう事は言わないの!」


 人であればクスクスと笑っている様子の銀狼の重い躰を両手で突っぱねて、ザワリとした感覚と、全身に蟲が這うような嫌悪を催す感触にヘルトルーデは眉根を寄せて耐えた。




*****




 人型のローデヴェイクは、男の歩幅でザクザクと道程を進めるだけ進むと、午前中には森を抜け、ちょうど昼に差し掛かる頃にファースという街に到着する事が出来た。


 ファースは街としては小規模。とはいえ、銀狼を部屋に隠せるくらいの宿は有り、これから先の旅の必需品を補給するのにも不自由は無いだろう。

 諸々の手続きを終えて街に入ったローデヴェイクは、目立つ銀髪を隠す為にフードを深く被り、聖職者の出で立ちで街を闊歩する。顔を見せるのは商売の時だけで、それ以外は肩に乗せたクリーム色の毛を持つ長毛種の猫だけが知っていれば良かった。


「(まずはどうするの?)」

「宿の確保が最優先。いい加減に私の猫ちゃんをお風呂に入れてあげたいしね」


 そう言って、肩に乗る猫のフワフワとした毛にローデヴェイクが鼻を寄せると、モフリとした尻尾にペシリと顔と叩かれた。


「(止めて。誰かさんのせいで五日もお風呂に入ってないんだから)」

「猫の匂いしかしないよ。銀狼の時の獣臭い私と一緒。だから気にしなくていいと思うよ?」

「(気にするから! 猫の姿でも一応、十七歳の女性なの、私! 年頃なのよ! 婚約者だっていたし!)」

「……どういう事?」

「(え?)」


 ローデヴェイクは自身の声音が数段低くなったのを自覚した。

 今、聞き流す事が出来ない事を可愛い猫―――ヘルトルーデの口から聞こえたような気がしたのだ。


 肩に乗るモフリとしたクリーム色の猫をガシリと掴んで、ローデヴェイクは眼前に持っていった。

 猫のヘルトルーデがビローンと長い胴体を伸ばさざるを得ない状態に敢えてする。

 適度に湿った彼女の可愛い猫鼻に、ローデヴェイクは自分のそれを寄せた。


「婚約の話なんて初耳だけれど」

「(そうだっけ?)」

「そうだよ。なに、どういう事? 相手は誰?」

「(あー…あのね? 家同士の取り決めで婚約を結んでいただけよ? 私は勿論、向こうも特別な感情を抱いた事はなかったと思う。二年前の茶会で、婚約が破棄されたわ。彼が好きなのは婚約者だった私ではなくて、アンシェラだし)」

「相手は」

「(ケフィンよ。魔塔の後継の。隣の領地だったしね、彼)」

「―――成程」


 ローデヴェイクはその名を脳内にあるとあるリストにシッカリと書き加え、そしてそのような大切な情報を今の今まで言わなかった罰として、猫のヘルトルーデの柔らかい腹を歯を立てずに軽く食む。


 当然、「(きゃあぁぁ)」という悲鳴を猫のヘルトルーデはあげるが、呪われている者同士か、呪いを掛けた者、または魔力値の高い者以外には猫の鳴き声としか認識されないので、ローデヴェイクは気にせずに猫の毛に覆われた彼女のモフモフ腹を堪能した。




*****




 ローデヴェイクがヘルトルーデに出会ったのは、今から約一年前の事だ。


 その日は新月で、夜の森は周囲が視認し難い程に暗かったが、銀狼姿のローデヴェイクにとっては然したる問題では無かった。


 呪いを受けるというどうにもならない事態に逃げるという形で一旦王宮から身を引いたローデヴェイクは、以来、常に警戒を全方位に走らせていた。

 ローデヴェイクが獣の姿に変わるのを、当然、呪いを仕掛けた側は知っているからだ。


 陽が落ちている間は銀狼の姿を余儀なくされているローデヴェイクは、夜は森の中に身を隠し、人目の無い獣道を敢えて選んで、荷物を口に咥えながら当てもなく彷徨っているようで目的地に着実に向かっていた。

 自身に掛けられた解呪について僅かにでも手掛かりがありそうな地にだ。


 ―――魔王城跡地。


 嘗て魔王という存在が居たとされる地。魔を統べる王がその永遠ともいわれる命を勇者という存在に封印されたといわれている場所だ。

 大抵の者はこれらを子供らに語る作られた物語のひとつと片付けるが、一国の王太子であるローデヴェイクは、それが遠い過去にあった実話だというのを知っていた。


 王宮に残る記録の全てが真実とは限らないから、過去、本当に魔を統べる王が勇者という人間でしかない存在に封印されたのかは分からない。そこは確かめようがない。

 だが、魔王がある時を境に表舞台から消えたのだけは確かだった。

 果たして解呪と魔王城跡地が繋がるのかは道程を進むローデヴェイク自身も自信は全く無かったが、藁にも縋るという考えのもとに目的地として定めていた。


 浄化、治癒を担い、闇の魔力に唯一対処できるとされている、この大陸の最大勢力であり、女神シルフィアを信仰する教会スヴォレミデルは頼りにならないと判断した。


 何故なら強い光属性の魔力を持つローデヴェイク自身が解呪を何度も試みるも、掛けられた呪いを揺らす事すら出来ないからだ。

 スヴォレミデルに教皇だ大神官だのは居るが、果たして本来求められる実力でその地位に就いているのか。教会内の腐敗の噂を耳にしていたローデヴェイクには、彼らが自分より強い光属性の魔力を持っているとは到底思えなかった。


 新月の森の中を進んでいると、人の気配を感じた。

 銀狼の耳をピンと立たせて音を拾うのに集中すると、頼りない微かな足音と鼻を啜るような音が聞こえる。


 ―――泣いているのか?


 そうは思ったが、如何せん、今の姿は銀狼だ。

 呪いを仕掛けた者らからは凶刃を、それ以外の存在からは悲鳴を上げられるだろう。


 煩わしいと思い、面倒だとも思った。

 故に人が足を踏み入れるのを躊躇う更に険しい獣道へと方向を変えようとして、ローデヴェイクの獣の鼻はある臭いを嗅ぎ取った。


 ―――呪いか。


 自身と同じ臭いだ。解呪できなければ決して消えない不快な悪臭。

 ほんの少しの興味を持った。どのような者が呪いを受けたのか一目見ようと好奇心の方が勝った。


 暫くその場で待って、呪いの臭いと女の匂いを混じらせる者が視界に入る。

 全裸の少女だった。年の頃は十五、六といったところだろう。

 震え、心細そうで、今にも大粒の涙を流しそうな少女だ。


 なにやら込み入った事情がありそうだと思ったが、それはローデヴェイクには無関係で、ローデヴェイクにはローデヴェイクの成さなければならない事があった。

 とりあえず唸る姿を見せ、踵を返そうとして、出来なかった。


 突然、少女が声を上げて泣きながら、少しの躊躇いもなく銀狼であるローデヴェイクに抱きついたからだ。


 銀の毛を持つ躰に顔を埋められ、涙を染みこまされて、けれど温かく柔らかい少女の感触にローデヴェイクはらしくもなく狼狽えた。


 暫く泣き続ける少女に躰を提供して、少女が泣き疲れて寝てしまうのに、ローデヴェイクは人型であれば深い溜息をついて、咥えていた荷物から外套を取り出して少女に掛けた。

 夜の森の寒さに少女がこれ以上震えないように、豊かな銀の毛を持つ狼の躰で包み込んだ。


 翌朝、少女が可愛らしい猫の姿に変わり、酷く困り果てているのを見て、ローデヴェイクは名前と経緯をゆっくりと聞いてやった。


 猫である少女の名前はヘルトルーデ。


 彼女が呪いを受けたのは、愛犬の血に仕掛けられていた闇の陣に触れたからだと推測された。

 そんなヘルトルーデが健気に頑張って元気に振舞おうとする姿がいじらしく、また、王宮では見なかった飾り気のない素直で正直な性格に、ローデヴェイクの心が持っていかれたのは、それから幾らもかからなかった。



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