第1話 呪われた二人、男爵令嬢ヘルトルーデの事情




「 台詞 」  … 人型の台詞

「(台詞)」 … 呪いで獣化している時の台詞




***** ***** ***** ***** *****






 ―――あの茶会から二年が経った。



「こんな感じでいいかなぁ。正直、切りがないかな。まだ何処か痒いところはある?」


 パチリパチリと薪の爆ぜる音と、暗い夜の森の中で野宿確定であるヘルトルーデは、立ち寄った街で購入した幼馴染ヴィリーの手によるブラシを、シャッシャッとした音を立てながら動かし続けていた。


 ヘルトルーデが梳かし続けているのは毛。モフモフな毛。何度、梳いても抜け続ける毛。

 起こしている焚火で銀色に煌めく梳き続けているそれは、狼だ。


 ―――銀狼。


 大きさは体格の良い成人男性よりも少々大きめ。モフモフな銀糸の毛に隠れる獣の筋骨はかなりしっかりしている。威圧感も有り、強そうで、一見すると怖い。喉笛を噛みついてきそうで。つまり―――。


「野宿、五日目だね。流石に体が不快になってきたかな。お風呂に入りたい。桶に張った湯でいいから体がとっても拭きたいでーす」

「(……ごめん。私が銀狼姿なばかりに村の宿だと泊まれなくて)」

「あ、いいの、いいの! ちょっと意地悪を言ってみただけよ? 強そうな銀狼の見た目なのに可愛い! グリグリしちゃう!」

「(止めてっ)」


 毛のブラッシングの為に腹をだしていた銀狼が逃げようとするのを、ワシッと両腕で囲うように捕まえて、ヘルトルーデは柔らかい其処に顔を埋める。

 そして獣臭いのを分かっていてニオイを嗅ぐと、グリグリと顔を擦りつけた。


「本当に可愛い! この獣臭さが堪らない! ヘニーと同じだもの!」

「(君の愛犬と一緒にしないでくれる!? 私にだって一応だけれど羞恥心はあるんだよ、ヘルトルーデ!)」

「んー…でもローデヴェイクって、見た目が綺麗すぎて強そうに見えなくて、そこが原因で弟王子に見下された挙句に呪いを受けて逃亡中な訳でしょ? じゃあ、この羞恥に耐えて、色々と鍛えないとね? 王太子殿下!」

「(……ヘルトルーデだって、似たようなものではないの)」


 拗ねた声音を出し始めた銀狼姿のローデヴェイクにヘルトルーデは笑って、銀糸のモフ毛から顔を上げた。

 今は換毛期だからか、ブラッシングをしたばかりでもヘルトルーデの顔全体に毛が付着する。

 ヘルトルーデは口の中にも入り込んだそれを、手を使って取り除いた。


「似てはないんじゃない? ローデヴェイクはこの国の王太子殿下。片や私は平民とまではいかないまでも、貴族枠底辺のしがない男爵家だもん。むしろ権力闘争とは無縁なはずの我が家で、なんで私が呪いを受けたのか不思議でしかないよ」


 銀狼姿のローデヴェイクが軽快な動作で身を起こし、ヘルトルーデの横の位置に移動して伏せをした。


 ヘルトルーデはブラシに溜まった毛を丁寧に取り、コロコロと手のひらで丸める。

 丸まって一定の大きさになった銀の毛玉ボールを、腰に下げていた巾着の中に入れた。

 毛玉のこの後の殆どの作業工程は、何かと器用なローデヴェイクの担当だ。


「(前にも言ったけれど、男爵が外で作った異母妹のせいなのではないの。彼女が男爵家に入り込んでから家がおかしくなったと言っていたよね。君の異母妹のアンシェラ、王宮にまで派手な噂が届いていたし)」

「あー…彼氏がいっぱいってやつ?」

「(そう。私の愚弟であり第二王子のオリフィエルに始まり、公爵家嫡子のセルファース、魔塔の後継ケフィン、騎士団長の子息フィクトル、まだ居るよ)」


 呆れたように獣の濡れた鼻を鳴らして、銀狼姿のローデヴェイクが、重量のある狼の頭を甘えるように横に座るヘルトルーデの膝の上に乗せた。

 ヘルトルーデは薪を火の中に幾つか放って、銀糸モフモフの狼の頭を撫でてあげる。

 銀狼の耳がピクリと動き、垂れ下がった。


「傾国の美女という訳ではないんだけど、雰囲気が可愛らしいところが受けるのかな? 髪の色も印象的な赤い色だし」

「(問題は髪の色ではないと思うけれど。まあ、なんにせよ、君はそのアンシェラに呪いを掛けられたんだよ。太陽が昇っている時に猫化するね)」

「やっぱりそれしかないよね。……辛い」

「(私だって辛いよ。夜は銀狼姿、昼は人なんて、王宮から逃亡するしかない)」

「昼が人の姿なら、逃亡までしなくても良かったんじゃない? 夜は部屋に閉じこもっていればいいし」

「(王宮はそのように甘いところではないよ。常に何処にでも人の目がある。それに呪いを仕掛けた人物が王宮内に居るんだ、見逃すはずがない。早々に白日の下に晒されるよ)」

「……そうだよね」

「(辛くても現実からは目を背ける事はできないし、真実を知りたくなくても見なくてはならない事もあるよ、ヘルトルーデ)」

「それ、ヴィリーにも言われた事がある。ほら、前に話したじゃない? 領地の平民で鍛冶職人の息子の幼馴染。このブラシの作成者」

「(……言っていたね)」


 何故か拗ねた雰囲気を更に濃くしたローデヴェイクに、ヘルトルーデは快活に笑い、銀狼の耳後ろをワシワシと撫でつつ、彼のモフリとした頭にキスを落とす。


 呪いを掛けられ、解呪の旅を開始してから一年。

 状況的には望ましいものでは全くないのだが、二年前の茶会の時とは比較にならない程の気持ちの充足感に、ヘルトルーデは心からの笑顔を銀狼姿の王太子ローデヴェイクに向けた。




*****




 ―――ああ、夢を見ている。


 ヘルトルーデはその事に気づくことが出来たが、そのまま身を委ねる事にした。

 九割方、あまり愉快ではない夢だろうと分かっていた。でももしかしたら。

 もしかしたら、ヘルトルーデの幼い頃に亡くなってしまった母の夢を見られるかもしれないと思ったからだ。


 ヘルトルーデの生まれ育ったコニング男爵家は、貴族とは名ばかりの、といったような家だった。

 貧しかった訳ではないが、一般的に想像される貴族としての豊かさとは無縁で、そこそこの屋敷と、小さいが食うに困らないやはりそこそこの領地収入。領地の平民との距離も近く、そしてその分、所謂、大貴族と言われる人達との距離は遠かった。王族という存在は雲の上だ。


 ヘルトルーデはその事に不満を持った事は一度も無かった。疑問に思った事も無い。


 優しかった母は早くに亡くなってしまったが、領主の父ロブレヒトと二つほど年の離れた兄マレイン、何でも出来てしまう執事ルーロフに、母代わりのメイド長のマフダ。メイド長マフダの娘でリボンの似合う幼馴染のフランカに、少ない使用人達。そして、忘れてはならないのが、コニング男爵家の真の主、真っ白の毛を持つ飼い犬のヘニーが居たからだ。


 それら優しく温かみのある存在に囲まれて、ヘルトルーデは十分に幸せだった。

 幸せは続くと思っていた。いずれは同じような階級の貴族家に嫁ぐ事になるとしても、その幸せは続くと思っていたのだ。


 ヘルトルーデの幸せが壊れたのは三年前。現在十七であるヘルトルーデが十四歳の時の事だ。


 その時まで亡くなっても母を愛し続けていると信じて疑わなかった父ロブレヒトが、ある少女を屋敷に連れて来たのだ。

 印象的な赤い色の髪を持ち、瞳の色は新緑色。年はヘルトルーデの一つ下で、可愛らしい雰囲気を纏う少女だ。


 名はアンシェラ。


 彼女は父ロブレヒトに手を引かれ、戸惑うコニング男爵家の面々に「アンシェラです。これから宜しくお願いします。あの……ごめんなさい」と心細さが感じられる無理矢理な笑顔を作って言った。


 一番反発したのは兄マレインだった。彼は母との思い出がヘルトルーデよりも当然多く、父ロブレヒトに食って掛かった。


 それを当然の事だと受け止めながらの父ロブレヒトのアンシェラに関する説明は、人によっては仕方ないとするものではなかっただろうか。

 母が不治の病と言われる難病に罹患したと知り、愛すればこその衝撃から、一時、街の女に逃げて、その結果がアンシェラだと言うのだ。

 そしてアンシェラの母も亡くなり、屋敷に連れて来たと。


 執事ルーロフは溜息を、母代わりのメイド長のマフダはヘルトルーデの頭を何度も撫でてくれた。

 マフダの娘でリボンの似合う幼馴染のフランカは翌日、ヘルトルーデの大好きなクッキーを焼いてくれて、他の少ない使用人達は変わらない優しさを。

 そして彼らは総じて、新しくコニング家に加わったアンシェラには当たり障りのない対応をしていて、唯一、彼女が訪れた時から唸り続けていたのは、真っ白な毛を持つ飼い犬のヘニーだけだった。


 あれ? とヘルトルーデが思った時には既に色々と遅かったのだろう。

 アンシェラがやって来てから数ヶ月もしないうちに、屋敷全体の雰囲気が変わった。


 まず父ロブレヒトがヘルトルーデに冷たくなった。これまでは顔を合わせれば抱きついてきて、髭の剃り残しがある頬を擦り付けてきた父の視線が厳しいものに変わったのだ。

 次に幼馴染のフランカ。ヘルトルーデが挨拶をしても無視しだし、一言も口をきいてくれなくなった。大好きなクッキーも作ってくれなくなり、作っても代わりにアンシェラにあげていたようだ。

 その次は使用人達。温かみのある態度が消えた。次は執事ルーロフ。そして母代わりのメイド長のマフダ。


 兄マレインは何時から変わったのか分からなかった。

 ヘルトルーデがおかしいと気づいた時には、アンシェラを酷く溺愛していて、ヘルトルーデの一切が気に入らないようだった。


 優しかったマレインがヘルトルーデに何かと嫌味を言うようになった。食事の時。廊下ですれ違った時。ヘルトルーデの部屋にわざわざ来て辛辣な言葉を浴びせてきたり、それだけならまだ良かったのだが、数少ない母の形見の宝石類もヘルトルーデの部屋から持ち去ってアンシェラに渡す始末だった。


 それに文句を言うと叩かれた。

 痛みよりも驚きの方が先にきた。マレインに叩かれたのは初めてだったからだ。

 その時、周囲には他にも人が居た。メイド長のマフダと幼馴染のフランカ、そしてアンシェラだ。


 手を上げたマレインを誰も咎めなかった。そればかりか、頬が腫れだしたヘルトルーデをそのままに、全員が冷たい視線を投げて去っていくのだ。去り際、アンシェラだけが振り向いて、口端を上げたのが印象に残った。


 それから暫くは、ヘルトルーデなりに関係改善を試みては挫折しての日々を送った。心が折れるような事が多かったが、それでも頑張れたのは、変わらない愛情を向けてくれた真っ白な毛を持つ飼い犬ヘニーの存在だ。


 ヘニーだけはアンシェラに懐かず警戒に唸り続け、ヘルトルーデの頬を何度も舐めてくれては、涙を流すとそのモフモフした白い毛並みを提供してくれた。

 ヘルトルーデはヘニーの豊かな白い毛に顔を埋めて、自分を奮い立たせていた。

 頑張ろうと。明日こそ昔のように良くなるはずだから、と。

 何度も何度もヘニーに慰められ、無理矢理に元気を出して、やる気を起こして。


 冷たい態度を取られ、物が無くなっていき、誕生日も祝われなくなって、日に三度の食事も一緒に取らなくなった。

 隣領地の子爵家の茶会を最後に貴族枠底辺同士の付き合いにも呼ばれなくなって、その茶会で、魔塔の後継である魔術師ケフィンとの婚約は破棄された。

 

 そのような日々を送り続けていたある日、ヘルトルーデに到底耐える事ができない事が起こった。


 唯一、変わらない愛情を向け続けてくれていた真っ白な毛を持つ飼い犬ヘニーの死だ。

 端的に言うと、殺されていた。

 モフモフしていた真っ白な毛を血で汚し、陽が暮れ始めた屋敷の庭の隅で死んでいたのだ。

 震える手でヘルトルーデが触っても鳴きもせず、動く事もしないで、冷たくただ其処に在るだけだった。


 ヘニーの血濡れた躰には短剣が刺さっていた。

 そしてそれには、犯人が誰であるのかを示すようなリボンが結びつけられていた。

 ヘルトルーデは泣いた。どうして、と冷たくなったヘニーを抱き締めて泣き続けた。

 たくさん慰めてくれて元気をくれたヘニーの温かかった躰に顔を埋め、血が付くのも気にせずに涙を染みこませた。


 夜が更けるまでヘニーを抱き締めて泣き続けて。

 ヘルトルーデは家を出る事を決意する。


 一先ずヘニーの亡骸はそのままに、暗い中、ヘルトルーデは自分の部屋に行き、金目のものだけを持ち出して再びヘニーの許へ戻った。

 そして冷たくなったヘニーを頑張って抱えて向かった先は、領地の平民で幼馴染の、鍛冶屋が実家の職人見習いヴィリーのところだ。

 ヘニーをコニング男爵家の敷地内に埋葬したくはなかった。温かく、幸せだったあの家はもうヘルトルーデにとって耐えがたく、母の形見ひとつ残っていない冷たい家となっていた。


 深夜という非常識な時間帯にヴィリーの家の扉を叩いた。

 寝ぼけながらも不審そうに出てきた家主であり腕の良い鍛冶職人のヴィリーの父は、ヘルトルーデの血まみれの姿に驚き、何があったと家に入れてくれた。

 ヴィリーやヴィリーの母も起きてきて、三人がヘルトルーデの話を聞いてくれた。

 真夜中にヘニーの埋葬も手伝ってくれて、旅支度まで整えると言ってくれたのだ。

 三日後に王都の方へ出来上がった商品を納めに行くから一緒に行こう、暫くコニングの家とは距離を置いた方がいい、と。

 そんなヴィリーとヴィリーの父を巻き込みたくなくて、翌日夜に置き手紙をしてヘルトルーデは姿を消そうとしたのだけれど。


 その前にヴィリーの家から姿を消さざるを得ない状況に陥った。

 置き手紙すら書けないまま消えなければならなかった。


 翌早朝、ヘルトルーデが目を覚ますと、信じ難い事に猫の姿になっていたのだ。

 鏡に映るのは、髪の色と同じクリーム色の毛を持つ長毛種の猫。

 瞳の色も同じオレンジ色だ。

 尻尾は毛が豊かでモフリとしていて、耳は立っていた。


 驚いた。衝撃だった。何故なのか分からず、どうして良いのかも分からず、ヘルトルーデはただヴィリーの家から逃げるように去るしかなかった。

 途方に暮れながら人を避け、逃げ込んだ先の森の中で彷徨って。


 その日の日没、暗い森の中で人に戻れたのに、安堵よりも言いようのない恐怖を覚えた。

 何も持たずにヴィリーの家から飛び出した。

 暗い森の中で猫から人に戻った。


 だから? 人の姿に戻れたとして、これからどうすればいいの、と叫びたかった。

 先立つ物が無い。それより今着る服すら無い。


 夜の森の肌寒さにふるりと震えた。

 怖くて、不安で、一糸纏わぬ姿で自分で自分を抱き締めながら森を歩いて。

 慣れない裸足での行動と心細さに、流石に心が折れそうになった時だ。


 ヘルトルーデは銀狼と出会ったのだ。


 その時のヘルトルーデにとっては、変わらない愛情を向け続けてくれたヘニーが生まれ変わったようにしか見えなかった。

 だから銀狼が警戒して威嚇するのも構わずに飛びつくように抱きついて、泣きながら銀色の毛の中に顔を埋めたのだ。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る