第100話 彼女と私の関係
一つでも破ればクビにすると言われ、時にはストーカーだと勘違いされながら、必死に守ってきたルール。
今でもそれが有効なら、私はとっくに解雇されている。
これまでに一つどころか、いくつも破ってしまっているから。
それでもまだ夕莉の隣にいることを許されているのは、彼女が私を心から信頼してくれている証拠なのだと思う。
もはや無いに等しい規則をいつまでも設けておく意味がないとか何とかで、契約内容の見直しでもするのだろうか。
まさか、今さらやっぱりクビにするなんて言い出したりは――。
きっとそんなことはあるはずがないと、余裕ぶって呑気に考えていたら。
突然、夕莉が契約書をくしゃくしゃに丸め出した。
そのままゴミ箱にでも捨ててしまうのではないかという勢いで。
「ちょ、ちょっと……え?」
……何してんの夕莉さん?
「ここに記されている規則に基づいた雇用契約は、今日限りで解約する」
事務連絡をするような単調さで、平然と言ってのけた。
待って……まさかとは思うけど、契約破棄された? 何のきっかけがあって?
確かに、解雇される覚悟で告白はした。
とはいえ、いきなり突き付けられるのは想定外すぎる。
両思いになったら雇用関係が解消されるなんて聞いていない。
今になって急に気が変わったとか?
手のひら返しがえげつないんですが。
どうしよう、早く別のバイト先を探さないと――。
「代わりに、新しい契約書を持ってきたわ」
頭の中で盛大に慌てふためいていた時、夕莉が鞄からもう一枚の書類を取り出した。
差し出されたそれを、放心状態になりながら受け取る。
泳ぐ視線を何とか一点に定めて、書類の内容に目を通していくうちに、だんだん思考が冷静になっていった。
「あれ……」
新しい契約書の中身は、これまでのものと変わらなかった。
時給1万円で、夕莉の付き人として仕えること。
業務内容も労働時間も今まで通りだ。
ただ一つ、大事な規則を除いて。
「『付き人の六ヶ条』が……なくなってる」
呆然とする私に、夕莉が穏やかな眼差しを向ける。
「このルールは元々、自分の身を守るために作られたもの。裏を返せば、
そう話す彼女は、晴れやかな表情をしていた。
体に触れちゃいけないとか、恋愛感情を抱いちゃいけないとか。
最初の頃はよくわからないルールだなと、相手の事情も考えず、ただ理不尽に思っていただけだったけれど。
今なら理解できる。
夕莉がどんな思いでこの規則を作ったのか。
生半可な気持ちで判をついていないと言った彼女が、どれほどの覚悟を持って私を雇おうとしたのか。
「それに……このルールを無くすことが、本当の意味で過去を乗り越える足掛かりになると思う」
だからこそ、この決断は彼女にとって大きな転機になるのだろう。
誰かを信じるために勇気を出す、その第一歩。
ルールがなくなって安心したというよりも、夕莉が少しずつ前向きに変わろうとしていることが純粋に嬉しかった。
「それじゃあ――」
契約書から視線を上げて、夕莉を見据える。
さっきまで狼狽えていたのが嘘のように、期待と高揚感で胸が躍った。
「平日だけじゃなくて、土日も会いに行っていいの?」
「ええ」
「手繋いだり、キスしたりしても?」
「……人前じゃなければ」
「夕莉のこと、ずっと好きでいていいんだよね?」
「私への想いがこの先も変わらないのなら」
「変わらないよ」
変わるはずない。
今もこれからも、他の誰かに目移りするなんて考えられない。
もし、私を雇ってくれる人が彼女以外だったとしても、こんな感情は芽生えなかった。
夕莉だから、好きになったんだ。
私の心を奪える人は、彼女しかいない。
「その言葉、忘れないでね」
いつかの時に聞いたセリフ。
あの時、温情なんて微塵も感じさせない冷めた目で私を見ていた夕莉が、今は優しい笑みを浮かべている。
お金にしか興味がないと、対抗するように豪語していた私も、すっかり彼女に骨抜きにされてしまった。
こうしてたくさん笑うようになって、私以外の人にも心を開くようになるのかな。
それはとても喜ばしいことだけれど、せめてこの笑顔は、私だけのものでありたい。
「奏向」
澄んだ声が、鼓膜を震わせる。
聞き慣れているはずのその音がひどく心地よく感じて、徐々に鼓動が高鳴っていく。
目の前の彼女が、ただひたすら愛おしい。
名前を呼ばれるだけで、静かに見つめ合うだけで、心が満たされて幸せが溢れる。
「これからも、私の隣にいてくれる?」
熱い眼差しと甘い雰囲気が相俟って、なんだかプロポーズみたいだった。
渡されたのは雇用契約書だけれど。
でも、彼女と私の関係がどんな形で結ばれていようと、心は同じ気持ちで繋がっている。
お金のためだけじゃない、夕莉の隣にいたい理由があるから。
どんなことがあっても、絶対に離れたりしない。
「喜んで」
答えを示すように、彼女の手を握る。
自然に互いの指を絡ませながら、私たちは笑い合った。
それからのお昼休みは、蕩けるほどの至福の時間を過ごした。
誰も来ないのをいいことに、ご飯を食べさせ合ったり、堂々とスキンシップをしたり。
傍から見れば、さぞかし仲睦まじく戯れているように映ったに違いない。
誰にも見られなくてよかったと思うほど恥ずかしいことをしてしまったなと、放課後になって反省する。
でも後悔はしていない。
押しに弱い夕莉の恥ずかしがる顔がいっぱい見れたし、エネルギー補給のおかげで午後の授業は眠くならずに済んだし。
夕莉とのあれこれを思い出し、つい顔が熱くなってくる…………危ない。
一瞬でも気が緩むと、すぐ彼女のことを考える癖がついてしまいそうだ。
廊下を歩きながら、浮かれているのを誤魔化すために精一杯真顔を取り繕う。
下校時、いつもは昇降口で待っているのだけど、今日は居ても立っても居られなくて。
生徒会室から少し離れた廊下で、今か今かと待ち侘びる。
落ち着きなくふらふらとその場を行ったり来たりしていた時間は、さほど長くはなかったと思う。
先に生徒会室から出てきた加賀宮さんに気付かれ、不審者を見るような目で睨まれた。
咄嗟に、何食わぬ顔で視線を逸らす。
端から私に関心がなかったのか、特に絡んでくることもなく姿を消した。
夕莉が出てきたのは、それから数分後。
手を振る私に気付くと、一瞬だけ驚いた表情をして、照れくさそうに目を伏せた。
"おいで"と手招きをして、私の傍まで来た夕莉の手を引く。
「奏向っ……」
「だいじょーぶ。静かにしてればね」
こっそり誘き寄せたのは、通行人の死角になる場所。
下校時刻のピークは過ぎているし、校内に生徒が残っていたとしても、この場所はあまり通らない。
だから実質、二人きりという状況なわけで。
「ん」
「……それは何?」
「何って、"お疲れさま"のハグ」
ここぞとばかりに両腕を広げて、夕莉が抱き締めてくれるのを待つ。
人前じゃなければいいとのお達しを忠実に守っているだけで、何ら咎められるようなことはしていない。
しかし、夕莉は頬を赤らめるだけで、なかなか動こうとしない。
まさか、お昼休みの一件が尾を引いている、なんてことは……。
ああいう行為に手慣れているのか、そうじゃないのか。積極的かと思えば、初々しい反応を見せることもあるし。
そういうところも可愛いんだよなぁ、と惚けていたら、俯いていた夕莉がぼそっと呟いた。
「……奏向からして」
「いいの? 私からのハグは熱いよ?」
上目遣いで頷く彼女に笑みを返し、背中に腕を回して抱き締める。
ふわりと、ほのかに甘い香りが鼻腔をくすぐった。
ちょっと心配になるほど華奢な体躯をしているけれど、温もりを感じられるだけでも安心する。
夕莉の腕が、私の体を抱き締め返す。
首筋に顔を埋めたあと、耳元で彼女への想いを囁いた。
* * *
流れていく街並みを車窓からぼんやりと眺める。
夜の都会の風景は、月明かりが霞むほど眩しい。
人工的で大きな光よりも、淡く輝く小さな星の方が好きだった。
だから彼女はいつも、無数の星が散りばめられた遠くの夜空を見つめている。
不規則な生活を送っているせいか、夜になっても眠気が来ない。
多忙な仕事の後くらい、疲れて車内で眠ってしまってもいいのに。
そういう時は決まっていつも、ある人へ電話をかけていた。
彼女のことを考えると、どんなに暗いことがあっても一瞬で吹き飛んでしまう。
一日の終わりにする電話のために、今日を生きていると言っても過言ではない。
「……そろそろ落ち着く頃かな」
ショルダーバッグからスマホを取り出し、画面をじっと見つめる。
毎日声が聞けるのは嬉しい。
しかしわがままを言えば、電話越しではなく肉声が聞きたい。
写真を眺めるばかりではなく、対面で触れ合いたい。
最近は特に繁忙だったけれど、ようやく空いた時間ができそうだ。
待ち焦がれていた彼女との再会に胸を膨らませ、少女は無邪気に微笑んだ。
「もうすぐ会えるよ――カナ」
─────
《第5章 あとがき》
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