第78話 私にとって
前半の夏合宿とは打って変わって、私と夕莉と杏華さんの三人だけになった今は、驚くほど時の流れが緩やかに感じられた。
みんなで騒がしくするのも楽しいけれど、特に何をするでもなく、ただ無心でいる時間を過ごすのも悪くなかった。
夕莉の付き添いで来たとはいえ、四六時中彼女の隣にいるわけではない。
杏華さんと一緒に料理をしたり、暇な時間に一人で日光浴をしたり、割と自由にさせてもらっていた。
この数日でやった付き人らしい仕事を強いて挙げるなら、散歩に出かける夕莉のお供、くらいだろうか。
別荘を出る日の前日。
海辺を散歩したいと言う夕莉についていくことになった。
もちろん護衛として。
先日の夜中や肝試しの時のように、またいつ症状が現れるかわからない。
ただ、私が今日まで見守っていた限りでは、肝試し以降に体調を崩すことは一度もなかった。
とはいえ、油断は禁物だ。
これまで以上にしっかり目を掛けておかないと……。
「杏華、出掛けてくる」
「あ、遅くても夕方頃までには帰ります」
「はい。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
素っ気なく言い放って先を行こうとする夕莉の後ろを慌てて追いかけながら、杏華さんに一言伝えておく。
わざわざ掃除の手を止めて、笑顔で見送ってくれた。
別荘から少し歩いただけで辿り着ける海辺は、今日も閑散としていた。
眼前には、清澄な青い海と白い砂浜が広がっている。
緩やかに海岸へ打ち寄せる波の音が心地良い。
まるで二人だけの世界にいるようで、胸がズキズキとした痛みを訴える。
夕莉が好きだと、はっきり自覚したあの日から。
彼女をただの女の子として見れなくなってしまった。
目が合うたびに恥ずかしさで顔を逸らしたくなるし、さりげなく私の体に触れてくるたびに、心臓がおかしいほどバクバクしてしまう。
動揺を悟られないように、いつも通りの態度で接するよう努めているけれど、夕莉にはどのように映っているのかわからない。
あの日から彼女は、ふとした時に笑顔を見せてくれるようになった。
と言っても、小さく微笑む程度ではあるが。
中身のないただの雑談を楽しそうに聞いてくれたり、キッチンで料理をしていたら待ち遠しそうにワクワクした目で覗いてきたり。
以前よりも感情表現が豊かになって、なんていうか、もう……率直に可愛い。
何をしていても、どんな表情をしていても、全てが愛おしく感じてしまう。
これが"盲目"というやつなのだろうか。
今まで気持ちを抑え込んでいた反動で、自分でも引くほど夕莉への想いが溢れている。
今だって、私の少し前を歩く夕莉の後ろ姿を見て、かなり邪な欲望を抱いてしまっている。
――めちゃくちゃ手を繋ぎたい、と。
自分から繋ぎにいけないのがすごくもどかしい。
横に並んで歩けば、あっちから触れてきたりするかな……なんて、いよいよ打算的なことを考え始めた時、不意に夕莉が立ち止まった。
「……海に来るのは、今回が初めてなのよね」
振り向いた横顔を見るだけでドキッとする。
笑えないくらい重症だ……。
行動や仕草にいちいちときめいていたら、心臓がいくつあっても足りない。
興奮で眉間にシワが寄りそうになるのをなんとか堪え、普段通りを装う。
「ん……そうだけど」
生まれてこの方、海はおろか、山や川にも行ったことがない。
貧乏で車もなかったし、連れて行ってくれるほどの余裕もなかった。
さらに言えば、校外学習や修学旅行の経験もない。
そういう行事がない学校に通っていたわけではなくて、単にお金がなくて行けなかったのだ。
「それがどうかした?」
「皆で海に来た時、奏向がいつもより楽しそうに見えたから」
その時の光景を思い出すように目を細めている。
嬉しそうに口元がほころんでいた。
……楽しそう、か。
確かに、みんなで遊んでいたあの瞬間は、人生で一番はしゃいでいたかもしれない。
「……子どもみたいな一面もあるのだと思って」
「精神年齢が低いって言いたいのかなー」
「いいえ。とても――可愛かった」
「…………っ……」
……痛い。胸がとんでもなく痛い。
今のはさすがに応える。
好きな子から"可愛い"と言われて響かない人なんて地球上にいるだろうか。
今まで"怖い"とか"冷たい"とかなら散々言われてきたけど、ここまで露骨な褒め言葉をかけられたことはほとんどなかった。
夕莉がじっと私の目を見て唐突にそんなことを言ってきたせいで、思考が完全に狂ってしまう。
同時に、体が沸騰したように熱くなる。
咄嗟に目を逸らして、よくわからない言い訳を返した。
「ま、まぁ、無邪気な心を忘れないってのは大事だからさ」
「……そういうことにしておくわ」
夕莉はクスッと微笑んで、海の方へ体を向ける。
風が吹いて、彼女の艶やかな長髪がふわっと靡いた。
手で髪を押さえている仕草も様になっていて、思わず目を奪われてしまう。
吸い込まれるような感覚に陥りながら、自然と言葉が溢れる。
「……楽しかったのは、本当だよ」
海を眺めていた夕莉が、私に顔を向ける。
私はまだ、目を合わせるのが恥ずかしくて。
水平線を見渡しながら、心の中で感じていることを一つずつ紡いでいく。
「海だけじゃない。肝試しも、ホラー映画観たり、みんなでご飯食べたりしたのも、全部。……多分、夕莉とならどんなことも楽しめる気がする」
まともに顔を合わせられないくらい、夕莉のことを意識してしまっている。
ここに来たのは付き添いのためで、遊び目的でないことはわかっているけれど。
それでも、この気持ちだけは伝えたい。目を見て、しっかりと。
「連れてきてくれてありがと」
きっと夕莉に出会わなければ、私は今学院に通えていない。
勉強も友達もできず、夢もなく毎日無心でアルバイトをして、お金のことだけを考えて淡々と生きていただろう。
彼女は、私に青春をさせてくれるきっかけをくれた。
その感謝を伝えたかったんだ。
私を見つめる夕莉の目が、大きく見開かれる。
ほんのりと頬を紅潮させて、照れ臭そうに視線を逸らすと、すぐ隣まで寄ってきた。
肩が触れ合う。
手の甲が触れて、夕莉の手が滑るように私の手の中に潜り込んでくる。
感触を確かめるようにすりすりと弄ったあと、ゆっくりと指を絡めてきた。
握られている手から、夕莉の温かさを感じる。
ほんとに……繋ぎに来てくれた。
そうなるようにわざと扇動したつもりはないのだけど。
嬉しさのあまりニヤけてしまう。
……ダメだ。こんなだらしない顔を夕莉に見られるわけにはいかない。
口元を押さえていたら、横から顔を覗き込まれた。
「少し、歩きましょう」
「……うん」
初めて手を繋いだわけじゃないのに、凄まじく緊張している。
こうして触れ合うだけで、どんどん気持ちが大きくなっていく。
夕莉が好きでどうしようもないこの想いをぶつけることができない代わりに、そっと彼女の手を握り返した。
散歩から帰宅する。
夕食の時間まで好きに過ごしていいと、杏華さんから言われた。
他に手伝えることはないかと訊いたけれど、今日くらいはゆっくりしてほしいとのことで。
お言葉に甘えて、自室で休むことにした。
……なぜか夕莉も一緒に。
歩き疲れたのか、ソファーにもたれて眠っている。
先生たちが帰ってから、彼女は私の部屋に入り浸るようになった。
一人が寂しいのか、この部屋が気に入ったのか、理由は定かではないが。
日中だけならまだしも、寝る時も我が物顔でベッドに寝転んでは、抱き枕の如く私に抱きついてくる。心臓に悪すぎる。
無防備な姿を見せてくれるのは大いに歓迎だけど、ここまで頻繁に気を抜かれると、どうしていいのかわからなくなる。
傍にいてくれるだけで嬉しいと思う反面、下心という邪念が湧いてしまうことに罪悪感を覚える。
寝顔も言うまでもなく可愛くて目の保養になるのだけど、あんまりガン見しているとよろしくない感情が芽生えそうになるから。
バルコニーに移動しようとした、その時。
夕莉の体が横に傾き始めた。
一瞬躊躇ったものの、すぐさま手を伸ばす。間一髪、倒れる前に体を支えることができた。
「あぶな……」
両肩を掴んで、元の位置まで上体を戻す。
それなりに振動があったはずだが、夕莉は眠ったままだった。
……早くこの手を離さないといけないのに。
自分の意思に反して、体が思うように動いてくれない。
ようやく離れてくれたかと思えば、私は夕莉の隣に座っていて。
自分の肩に、彼女の頭をもたれさせていた。
なに、してんだろ。
夕莉が眠っているのをいいことに、私が無意識に望んでいることを彼女にさせてしまっている。
静かで小さな息遣いが、熱いと感じるほどの体温が、私の肩から伝わってくる。
ふと、私の肩にもたれて眠る夕莉の顔に目をやる。
何の不安も心配も抱えていないような、穏やかで無垢な寝顔だった。
――いけない。
触れては、いけないのに。
理性を無視して、体が本能のままに動いてしまう。制御ができない。
私は今から、ルールを破ろうとしている。
これまで頑なに守ろうとしてきた自身への枷を、この手で壊そうとしている。
わかっている。
もしこのことがバレたら、取り返しのつかない事態になると。
頭では嫌というほど理解しているのに、私は――夕莉の頬に手を添えていた。
初めて触れる、彼女の顔。
見た目以上に小さくて、片手にすっぽり収まってしまいそうなほどだった。
長いまつ毛、筋の通った鼻、潤いのある唇、きめ細かい肌。
いつ見ても秀麗な顔立ちに、胸の高鳴りが治まらない。
この無防備な姿を今だけは独り占めできるのだと思うと、所有欲が湧いてくる。
「夕莉──」
名前を呼んでも、起きる気配はない。
……本当に、起きなくていいの……?
私が今からやろうとしていることは、信頼を裏切るような行為なのに。
バレなければいいなんて考えは狡いと、つい最近まで思っていたのに、あっさり手のひらを返す自分が愚かで嫌になる。
それでも、欲望を抑えることはできなかった。
寝息を立て続ける夕莉に、顔を近付けて。
私の唇を、夕莉の唇に優しく重ねた。
軽く触れ合うだけのキスよりも、深く長く──。
バルコニーで海に沈む夕日を眺めながら、風に当たる。
夏の風はまだまだ生暖かくて、お世辞にも気持ちがいいとは言えないけれど、外の空気を感じていたかった。
そろそろ夕食の時間になる頃だろうか。
夕莉を起こそうと、室内へ戻るために踵を返した時、ちょうど夕莉がソファーから立ち上がっていた。
「おはよー。もう夕方だけど。……って、どした?」
私の姿を確認した途端、どこか悲しげに目を細めて、飛びつくように抱きついてきた。
背中に回された手が、ぎゅっと服を掴む。
突然の行動に訳がわからず、ただただ困惑するしかない。
「……また悪い夢でも見た?」
夕莉の背中を摩りそうになって、すぐに手を止める。
抱き締められた状態のまま硬直する私に、夕莉は恐る恐る問いかけた。
「……奏向は……私のこと、どう思っているの……?」
直球すぎる質問だった。
一瞬思考が停止してから、思い出したように笑顔を作る。
「なになに。いきなりそんな――」
「いいから答えて」
私の肩に顔を埋めているため、表情は窺えない。
けれど、切羽詰まったような声音に、生半可な気持ちで言ったわけではないことはわかった。
……どうして今、そんなことを訊くの。
"どう思っているか"なんて、あからさまに本心を引き出そうとしているような質問に、私は何て答えたらいいのか。
ここで正直に"好き"と言えたら、どれほど楽になれるだろう。
身分も立場も全部捨てて、心に秘めている熱情を曝け出せたら――。
でも、できない。
私と夕莉はどこまでもいっても、契約で結ばれただけの関係だから。
彼女が心を開いているのは、付き人としての私であって、素の私ではない。
だから、付き人ではない私としての私情を、持ち込んではいけない。
何より、これ以上ルールを破るわけにはいかない。
自覚してしまったんだ。
夕莉に対して、"特別な感情"を抱いてしまったと。
「夕莉は、私にとって――」
その感情を夕莉に気付かれたら、規則違反で間違いなく解雇される。
本当は、今すぐにでも好きだと伝えたい。
抱き締め返したい。
けれど、私の本心を打ち明けることで、彼女の隣にいられなくなってしまうくらいなら。
「大切な雇い主だよ。それ以上でも、それ以下でもない」
この気持ちは、何としても隠し通す。
─────
《第4章 あとがき》
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