幕間 叶わない

 いつもなら安心できる彼女の隣は、今の夕莉にとって不安定な場所になっていた。


 今夜は一人になりたくて、自室のソファーで膝を抱えて蹲る。

 ベッドで眠る気にはなれなかった。

 また悪夢を見るかもしれないと思うと、意識を手放すことにどうしても恐怖を感じてしまう。


 自然と目が冴えていく。

 今は悪夢への恐れだけでなく、得体の知れない憂鬱な気分のせいで、心身共に疲弊しきっていた。


 視線を上げて部屋の中を見渡す。

 特に何かが変わっているわけでもない、一人で使うには広すぎる空間。


 自宅の部屋も似たような広さで慣れているけれど、世界でたった一人になってしまったような孤独感に襲われそうだった。


 体が震え出す前兆を感じ取る。

 じわじわと、少しずつ息が上がっていく。


 ――また、始まってしまう。


 心の中で焦りを悟った時、ふとベッドに置いてある枕が目に入った。

 一見すると何の変哲もないただの枕だが、あれは奏向の部屋からさりげなく借りてきたものだった。


 ソファーから立ち上がり、おもむろにベッドへ近寄る。


 夕莉は奏向の枕を手に取ると、弱々しく胸に抱きかかえてそっと顔を埋めた。

 僅かに残る、彼女の匂い。

 早くなっていた鼓動が徐々に鎮まっていく。


 奏向の部屋のベッドで寝た日、症状は出てしまったもののいつもより快適に眠ることができた。

 やはり、彼女の存在を身近に感じると精神的に落ち着けるのだと思う。


 それと同時に、胸の奥に小さな痛みが走る。

 今まで経験したことのない感覚だった。



 奏向に対してただならぬ感情――いわゆる好意を抱いているのは、夕莉自身も薄々気付いていた。


 いつの間にか、彼女のことを考えると胸が痛くなったり体が熱くなったり、ずっと隣にいてほしいと望んだりする。

 これらの感情や現象は、少なからず好意がなければ起こり得ない。


 ただ、"好き"にもいろいろな種類があって。

 尊敬しているから好きなのか、一緒にいて楽しいから好きなのか、信頼や安心を感じられるから好きなのか。

 奏向への"好き"は、どれにも当てはまっているようで、どれにも当てはまっていないようにも思う。


 人を好きになったことはある。

 しかし、それはあくまで"人として好き"なのであって、そこに恋愛感情というものが含まれたことはない。

 そもそも、恋愛感情と呼ばれる"好き"がどういうものなのか、夕莉はわからなかった。


 例えば、杏華のことは好きだけれど、奏向へ向ける想いと同じかと聞かれたら、それは違うと断言できる。

 杏華へ抱いている感情は、家族を敬愛する気持ちに近い。


 では、奏向への好意はどういう種類の"好き"なのだろうか。

 胸の内側で燻っているこの感情の正体を確かめるために、夕莉は行動に移すことを決めた。



 他人に体を触れられるのは苦手で、自分から触れるのも怖かったはずなのに、奏向が相手だと不思議と嫌悪感や不快感を抱かない。

 むしろ心地良さすら感じる。


 初めは安心感だけだった。

 それが、少しずつ興奮も覚えるようになって、刺激的な快感を伴うようになった。


 もっと触れたい。

 触れるだけではなく、それ以上のことも――。


 心の中で芽生える欲望が段々過激になっていくにつれ、行為も大胆になっていく。

 その度に奏向は戸惑いながらも、本気で拒絶するようなことはしなかった。


 "好き"の気持ちが大きくなっていく。

 奏向の隣にいると、いろんな感情を曝け出せる、飾らない素の自分でいられる気がした。


 こんなにも誰かを欲して求めたことはない。

 奏向が傍にいてくれれば、過去の苦しみも独りでいる寂しさも全て忘れさせてくれる。


 彼女がある一面を現したのは、そう思い始めた頃のことだった。



 微睡みの中、夕莉は何かに身を預けている。

 大好きな匂いに包まれているような感覚に、全てを委ねたくなる恍惚感を覚えた。


 そこに、もう一つの感覚が訪れる。

 唇に、柔らかい何かが当たった。


 夢だと思った。

 あまりの心地良さに、体までもが快楽を感じているのだと。

 けれど、妙に現実味のある感触が夢であることを否定する。


 目が覚めて、しばらく放心状態になっていた。

 自分の唇を指先でそっとなぞる。


 キス、されたのだと思う。

 一体なぜ――そんな疑問が浮かぶよりも先に、相手が誰だったのか、その可能性を想像すると心臓が飛び出しそうなほど脈動した。

 体中が一気に熱を帯びる。


 もし推測が正しければ、彼女はどういうつもりで事に及んだのだろうか。

 ルールや責務に忠実で、決して自分から勝手に触れようとしてこなかった彼女だからこそ、夕莉は動揺していた。


 なにも、おかしな話ではないのかもしれない。

 夕莉へ向ける奏向の感情や接し方が、ただの他人に対するそれではないことも感じていた。

 彼女が手を出してくる可能性がゼロではないと、頭の片隅では用心していたはずなのに。


 それでも心のどこかで、信頼しきっていた。

 奏向がルールを破るはずがない――いや、もし手を出されたとしても、奏向になら何をされてもいいと。


 矛盾が生まれている。

 付き人が主人に触れてはいけないと、ルールで決めたのではなかったのか。

 それなのに、キスをされたことに悦楽を感じるなんて。


 バルコニーに佇んでいる奏向の顔を見た瞬間、夕莉はえも言われぬ感情に襲われた。


 胸の内がぐちゃぐちゃに掻き乱される。

 "好き"という気持ちと、どうしてキスしたのかという疑問と、何事もないかのように平然としている奏向への不安と。

 そして、自分の中で何かが揺らぎ始めている戸惑いで。


 確かめたい。今すぐに。

 奏向へ抱きついた夕莉は、躊躇うことなく問い質して。


 ――大切な雇い主だよ。それ以上でも、それ以下でもない。


 その言葉を聞いた瞬間、時が止まったように感じられた。

 けれど、すぐに意識を現実に引き戻した。

 頭の中で何度も反芻して、言葉の意味を理解するように努めた。


 良かった――それでいい。


 付き人として申し分ない答えだった。

 何も間違ってはいない。

 元々、付き人が主人に余計な情を抱いてはいけないという、絶対的な規則があるのだから。


 これで安心して、今後も彼女を傍に置ける。

 やはり、奏向を付き人にした自分の目に狂いはなかった。


 今まで奏向を誘惑するような行為をしてきたのは、自分の気持ちを確かめると同時に、奏向が自分に靡くかどうかを試すためでもあった。


 彼女は簡単に誑かされるような人ではないと踏んだ自分の推測が、本当に正しいのかどうか。


 どれほど誘惑しても揺らがないのなら、付き人として相応しいと証明される。

 逆に、簡単に屈してしまうようであれば、彼女も前任と同じなのだと。


 結果、奏向は前者であることがわかった。

 だから、優秀な人を付き人にできたことを雇い主として誇るべきだ。



 それなのに。


 なぜ、胸の奥がじりじりと痛くなるのだろうか。

 奏向の言ったことは正しいのだと自分に言い聞かせるたびに、痛みがどんどん広がっていく。



 ――違う。


 ――違う。


 ――違う。


 胸の奥底に眠っていた感情が、爆発する。



 心から聞きたかった答えではなかった。


 もし奏向の返事が、ルールを破るような答えだったとしても。

 解雇されるとわかった上でもなお、彼女が自分の本心を打ち明ける覚悟を見せてくれるのなら。


 きっと、許していた。


 そもそも、キスを拒絶しなかった時点で、奏向の違反行為に目を瞑っていたのだ。


 奏向から触れられても、特別な感情を向けられても、全部、認めて、許して、受け入れる覚悟が無意識にできていた。

 奏向を誘惑するような行為をしたのも、本当は自分に少しでも気を持ってほしかったからだと、今なら言える。


 付き人のルールはもはや、夕莉の中で効力を失っているも同然だった。


 だから、本当は確かめたかった。

 奏向の想いと自分の想いが同じなのかを。


 同じだったらいいなと、思っていた。


 呆れるほど身勝手だと思う。

 今まで自分からは散々好意を向けておいて、相手からの好意は受け付けないなんて、不公平にも程がある。

 それでいて、自分には気がないとわかった途端、勝手に傷付いて落ち込んでいるのだから。


 規則を作ったことを後悔するくらい、奏向に心を許すことになるとは思わなかった。


 どんな答えでも解雇しないから、と前置きしておけば、正直な気持ちを聞くことができただろうか。

 そうだとしても、夕莉の望む答えを出してくれる保証は当然なかった。


 同じでなければ意味がないから。

 たとえ奏向から「好き」と言われても、その"好き"の種類までも同じでなければ、夕莉の好意はただの一方的なエゴになってしまう。


 それに、もう遅い。

 自覚するのが遅すぎた。


 あの答えが全てだ。

 突きつけられてしまった。

 奏向は夕莉に、"特別な感情"を抱いていないということを。


 あくまで"雇い主"としか思っていないのなら、奏向はなぜキスをしたのだろう。

 考えるほどに胸が苦しくなる。

 もしかしたら、あの感触は現実ではなく、やはり夢だったのかもしれない。



 夕莉は枕を抱えながら、噛み締めるように唇を引き結ぶ。


 目の奥がツンと痛くなって、堪え切れずじんわりと涙が滲んできた。

 一度浮かんだ涙は歯止めが効かず、大粒になって次々に溢れていく。

 いくら目元を拭っても止まってはくれない。


 理解してしまった。

 奏向に対する感情の正体を。


 ずっと隣にいてほしいと願うだけでなく、心も体も許したくなって、相手の全てを自分のものにしたくなる。


 こんな形で気付きたくなかった。


 奏向を想うこの"好き"という感情こそが、"恋"なのだと。


 そして、生まれて初めて抱いたこの恋は、気持ちを伝える前からすでに終わっていて、きっと叶うことはないのだと。

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