第5章
第79話 異変
夏休みが終わり、二学期が始まってからおよそ一週間が経った。
九月の上旬はまだ暑さが残っていて、合服を着るには少し早い。
来週辺りから衣替えの移行期間で、長袖のブラウスや冬用のスカートを着用する人が出てくるだろう。
真夏の時期よりは温かさが幾分かマシになった風で、じんわりと滲んでいる汗を乾かすように涼んでいたら、いつの間にか信号が赤から青に変わっていた。
ハッとして前方を見ると、夕莉が先に横断歩道を渡っているところだった。
置いていかれないよう足早に後を追う。
夕莉の隣に並び、 彼女の横顔を一瞬だけ盗み見る。相変わらず綺麗な造形だった。
そして、今日も何を考えているのかわからないような無表情をしていた。
最近、夕莉の感情が読めなくなっている。
まるで初めて出会った頃のように。
こうなってしまった原因は、わからない。
ただ、様子が変わったなと思い始めたのは、別荘から帰ってきた翌日以降だった。
夕莉は元々、そこまで感情を表に出すような子ではないことは知っている。
それでも、以前と比べていろんな表情を見せてくれていると思っていたのに。
それだけじゃない。
心なしか、目が合うことも減ってきたような気がする。
考えすぎかもしれないけれど、意図的に避けられているような――。
もう一度夕莉に目を向ける。
視線を受けてもまるで気付いていない素振りで、ずっと前を見ていた。
視線が合わないからといって、完全に無視されているわけではなくて。
嫌そうな態度をとられることはないし、話しかければ少なくとも反応してくれる。
とはいえ、見るからにテンションが低く……。
「今日の夕飯、杏華さんから買い出し頼まれてるんだけど、買う食材は任せるって言われててさ。なんか食べたいものとかある?」
「…………特には」
「あ。そういやこの前、和食食べたいって言ってたよね。肉料理と魚料理、どっちがいい?」
「……どちらでも」
「じゃあ、昨日肉料理作ったから、今晩は和食の魚料理にしよっか」
「……ええ」
――と、こんな感じでほとんど生返事しか返ってこないから、会話が続かないというか、私が一方的に話しているだけになってしまう。
沈黙の長さで、ちょっと考えてくれてるのかなとか、瞬きのタイミングや視線の動きで、これはお気に召さなかったかもとか。
夕莉の口数が減ってしまったため、些細な仕草でなんとか感情を読み取ろうと努力はしているけれど。
やっぱり、彼女の内面を探るのは難しすぎる。
あの時、私に向けてくれた笑顔は幻だったのではないか――そんな気さえしてしまう。
今まで私と一緒にいた夕莉の素顔が全て嘘だったなんて思いたくない。
素っ気なくなってしまった原因が少しでもわかれば、何かしらの対処ができるかもしれないのに。
せっかく縮めた距離を離したくない。
好意は伝えられないけれど良好な関係は保ちたいとか、自分勝手も甚だしいことは承知している。
それでも、夕莉には笑っていてほしいから。
「夕莉」
名前を呼んで、足を止める。
数歩先を行って立ち止まった夕莉は、無機質な機械のように振り向いた。
急に呼び止められたことに怪訝な顔をするでもなく、不思議そうに首を傾げるでもなく。
ただそこにあるものを注視しているだけの、何の感情も込められていない目で私を見る。
「最初に、お願いしたよね。『怒ってるなら"怒ってる"って言って』って」
「……それが何?」
「今、わかんないから訊いてる」
「……私も最初に言ったはずよ。機嫌を伺うようなことはしなくていいと」
「心配するのもだめなの?」
「心配……?」
一切の変化がなかった夕莉の表情に、ほんの僅かな陰りが差す。
眉間がピクリと動いたのを私は見逃さなかった。
ようやく感情が垣間見えるような反応を見せてくれたかと思えば、逃げるように顔を背けられる。
何か気に障るような失言をしてしまったのだろうか。
さらに言及しようとした時、夕莉が低い声で問い掛けた。
「私の様子がおかしいとでも?」
「……そうだね。最近、話す時も一緒にいる時も、なかなか目を合わせてくれないから。避けられてんのかと思って」
「……ただの思い込みだと思うけれど」
「だったら、ちゃんと私を見てよ」
避けていないと言うのなら、目を合わせることくらいできるはず。
私にやましい隠し事がなければ、いつも通り振る舞ってくれるはずなんだ。
一縷の望みをかけて、夕莉がまた振り向いてくれるのを待つ。
微動だにしなかった彼女の手が、ぎゅっと拳を作った。
そして、ゆっくりと私に顔を向ける。
その眼差しは、どこか苦しそうで、まるで私を責めているように見えた。
「あなたがしている"心配"は、業務上の確認よね」
「……?」
予想外の反論に、言葉が詰まる。
業務上の確認――そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。
もしここで否定すれば、夕莉のことを"大切な雇い主"と断言した私の表明に信憑性がなくなってしまう。
けれど、だからといってすぐに肯定もできなかった。
本心はもちろん、付き人ではなく一個人として、夕莉のことが純粋に心配だからという理由に他ならない。
そんな私情を正直に晒そうものなら、私の気持ちが彼女に気付かれてしまうリスクが高まるから。
仮に、本当に"業務上の確認"だとしたなら、それがどうしたというのか。
だって、夕莉は私情を挟まないビジネスライクな関係を望んでいるはずで。
それなのに、彼女の言い方はまるで、私の対応に不満を持っているような――。
「もう、余計な気遣いはしないで」
静かに言い捨てて、夕莉は歩き始めた。
後を追わないといけないのに、足が動かない。
これ以上、何を訊いたら夕莉が正直になってくれるのか、わからなくて。
先を行く彼女の後ろ姿を、黙って見つめることしかできなかった。
◇
頬杖をつきながら、窓の外をぼんやりと眺めてため息を吐く。
授業に身が入らない。
板書の半分も書き写せていないノートを開いたまま、終鈴が鳴っても片付ける気にはなれなかった。
夕莉のことを考えすぎて、いよいよ日常に支障をきたし始めている。
彼女の感情が読めなくなったタイミングは、何となく把握している。
そして、きっかけはおそらく別荘での出来事が関係していることも。
一つ言えるのは、私の言動に問題があった可能性が高いということ。
夕莉の態度を一変させるような何か――考えれば考えるほど、あれが原因だったのではないかと思わずにはいられない。
私の推測が当たっているとしたら、夕莉が怒るのも当然だ。
あの時、本当は意識があって、私のしたことをはっきりと覚えているのなら。
そりゃあ失望するに決まっている。
というか、好きだってことバレたも同然じゃ……?
でも、それならどうして私をクビにしないんだろう。
ため息を吐いて頭を抱える。
これは謝って済む問題じゃない。
いや、そもそも原因がそうと決まったわけではないから、自分から謝りにいったら墓穴を掘るだけ……。
クビにしないのなら、私の失態に気付いていない可能性も充分あり得るし。
じゃあ、結局何がいけなかったんだと振り出しに──。
「……おい。次、移動教室だけど」
頭を抱えすぎて机に突っ伏していたら、横からぶっきらぼうに話しかけられた。
この声は雪平だ。
二学期に入って席替えをしたのだけど、私が窓際の真ん中辺り、雪平がその隣になった。
私の隣だとわかった瞬間、盛大に舌打ちしてきたのは言うまでもない。
「……うー」
わざわざ教えてくれた雪平に、顔を伏せたままため息混じりの返事をする。
体を一ミリも動かす気力がない。
声を出すことすら億劫に感じる。
そんな体たらくを見兼ねてか、呆れたような声音で容赦なく突っかかってきた。
「お前さ、最近ため息多すぎ。こっちまで気が滅入るからやめてくんね?」
「…………ごめん」
素直に謝ったら、「は?」と明らかに引いているような声を出された。
「え、きも」
「うん……きもいよね……」
「……いやいや。あたしが言うのもなんだけど、あっさり認めんなよ」
いつもなら返り討ちにするまで言い合うところだけど、今の自分の異常さを自覚しているから何も反論できない。
客観的に見ても、きもいと思う。
夕莉の機嫌が気になるからってここまで思い悩むとか、我ながら重い。
きっと蔑むような眼差しで私を見ているであろう雪平が、独り言のようにぼそっと呟いた。
「ただでさえ二色といると調子狂うってのに……」
「私といると……調子が…………うっ」
聞き流せばよかったものを、傷心している今の状態では無視できなかった。
何せ、内容があまりにタイムリーすぎて。
夕莉も、そうなのかな……。
私が傍にいると、目を合わせるのも嫌になるくらい不満が募ったりしているのかもしれない。
想像したら余計に悲しくなってきた。
「はぁ……めんどくせーな。一人で悩むのも落ち込むのも勝手だけど、あたしの視界に入らないとこでやれよ」
「……善処します」
多分ムリ。席隣だし。
項垂れたまま、なんとか上体を起こす。
教科書やら筆記用具を持って教室を出て行こうとする雪平を、咄嗟に呼び止めた。
「雪平は、気にならないの?」
「何が」
「私がこうなってる理由」
「興味ねぇ」
心底どうでもよさように吐き捨てる。
こんな時でも相変わらず私に対して当たりが強すぎるのに、不思議と嫌な感じはしない。
雪平の態度に慣れているのもあるけど、様子がおかしいからと変に気を遣うのではなく、いつも通り接してくれるのが逆に安心するのかも。
「とりあえず早急にそのネガティブな空気をどうにかしろ。いつものお前よりうざい」
「……励ますの下手だね」
「はァ!? 都合良く解釈すんな! 別に励ましてねーわッ」
顔を赤くしてそそくさと教室を出て行ってしまった。
いつも通り、か。
……そうだ、私が露骨に調子を崩してどうする。
きっと、一番悩みを抱えているのは夕莉の方だから。
彼女がきちんと自分の口から事情を話してくれるまで、"付き人"としての体裁を保ち続けるべきだ。
どんな事態が起こっても、どれだけ主人に素っ気ない態度をとられても、付き人は絶対に動揺してはいけない。
いかなる時も平静を装わなければ。
これからも、夕莉の隣にいるために。
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