第56話 付き人じゃなくても
きっと、夕莉のことしか頭になかった。
だから、周りが見えていなかったんだ。
一人でベンチに座っている彼女のすぐ目の前で、見知らぬ男が下卑た笑いを浮かべながら見下ろしていることに気付かず。
そいつが夕莉の腕を掴み強引に引っ張ったところで、ようやく私の体が反応した。
夕莉のいる場所まで、あまり離れてはいない。二十メートルもないくらいだろうか。
けれど、その短い距離がとんでもなく長く感じられた。
あの男が、彼女に何を仕出かすかわからない。その焦燥感以上に。
どこの誰かも知れない男に夕莉が触られたことが、酷く癪に障った。
胸の内から沸々と、言いようのない怒りや不快感が込み上げてくる。
腕を引っ張られて、夕莉がベンチから立ち上がった瞬間、間一髪で男の手首を掴んだ。
強く強く、指先が食い込むほどの力で。
男の手が夕莉の腕から離される。
「いきなり何だッ……」
苦悶の表情で私の顔を見た男は、威圧的な態度から一変してヒュッと喉を鳴らした。
「私の連れに触んな」
ギチギチと、手首を締め上げていく。
怒りのせいで加減ができない。
このままいくと、本当に骨を折ってしまいそうだ。
「わかったッ……わかったから、離してくれッ……!」
顔面蒼白で冷や汗を流しながら、悲鳴混じりに訴えてくる男の声で、我に返った。
掴んでいる手首に目を向けると、自分の手が相当力んでいることに気付く。
これ以上握り締めていたら大声を出されかねないので、潔く手を離した。
すぐさま手を引っ込めた男は、恐怖に支配されたかの如く苦痛に顔を歪めながら、私に掴まれた手首を心底痛そうに押さえている。
再度こちらを睨んだかと思えば、またしても怖気付くように肩を跳ね上げて、そそくさと雑踏の中へ逃げて行った。
あいつ、次現れたら殴る。
不審な男を追い払い、今度こそ安全になった、はず。
安堵のため息を漏らして、夕莉の方へ振り向く。
「夕莉、大丈夫? 何かされてない――」
彼女の様子を見て、途中まで言いかけた言葉が引っ込んだ。
夕莉は、自身の腕を強く抱いて、全身を小刻みに震わせていた。
まるで、何かに怯える小動物のように。
私の呼びかけに、俯いていた夕莉がゆっくりと顔を上げて、
「…………奏向っ……」
恐怖を耐え忍ぶように唇を噛み締めながら、今にも泣きそうな目で私を見つめた。
すごく、怖い思いをしたんだ。
こんなにも弱々しい姿を見せるくらい。
不意に、過去の記憶が思い起こされる。
中学生の頃、攫われそうになった女の子を助けようとした時のこと。
なぜか、その子と今の夕莉の面影が重なって。
無意識のうちに伸ばした腕で、私は夕莉を抱き締めていた。
「――大丈夫。もう大丈夫だよ」
優しく、落ち着かせるように。
背中をそっとさする。
傍目から見ても細身だと思っていた彼女の体は想像よりもずっと華奢で、少しでも強く抱き締めたら崩れてしまいそうなくらい繊細だった。
腕の中におさまっている夕莉が、身を預けるように私の肩へ顔を埋める。
耳元で彼女の息遣いを感じる中、震えが収まるまで私から離れようとはしなかった。
「……で、どうしてあんな所にいたの?」
家まで送り届けるため、再び神坂邸のマンションへ帰る道中。
私の半歩後ろを歩く夕莉に問い掛ける。
幾分か落ち着いた様子だけれど、話せるような雰囲気ではなさそうだった。
ちなみに、杏華さんへの連絡は今さっきしたところだ。
「無事で良かった」と、電話越しでも涙ぐみそうになっているのが伝わってきた。
本当に夕莉のことを大事に思っているんだな、と。
「…………」
「……言いたくないなら、無理には訊かないけど」
案の定、視線を落としながら口を噤んでいる夕莉に、返答する気配はない。
答えたくないのか、答えられないのか。
今の精神的な状況にもよるだろうが、根本的な原因がわからないと、今後も同じようなことが起こらないとも限らない。
「せめてスマホは忘れないでくれると……」
突然、横から夕莉の手が出てきた。
思わず立ち止まり、その手を凝視する。
「……これ。廊下に落ちていたの。あなたに急いで届けようと思って……気付いたら、家を出ていた」
彼女の手の中にあったのは、鍵だった。私の家の鍵。
廊下に落ちていた、ということは、何かの拍子で落としてしまったか。
それをわざわざ追いかけてまで渡そうとしてくれたの? 電話でもしてくれたら、取りに戻ったのに。
でも――そうか。
しっかり者の夕莉がスマホを忘れるほど必死になって、私を追いかけてくれたのなら。
「そうだったんだ。――ありがと」
てっきり、嫌なことがあって非行に走ったのかと思ったりもしたけど、案外理由が可愛いものだった。
心配させるなと叱ろうかと思っていたのに、そんな感情もどこかへ吹き飛んでしまう。
差し出された鍵を受け取って、笑顔を向けた。
相変わらず、夕莉は俯きがちだったけれど。
顔を合わせようとしない彼女に苦笑しつつ、歩みを再開する。
今はまだ、あまり話しかけない方がいいかな。
しばらくの間お互い無言でいたが、先に沈黙を破ったのは意外にも夕莉の方だった。
ぽつりと、覇気のない小さな声で私に質問してくる。
「……奏向は、どうして私があそこにいるとわかったの」
「偶然だよ」
全てのタイミングがうまく噛み合った結果だ。
本当に、運が良かったとしか言えない。
ドラマのような、むしろそれ以上の展開だなと自分でも驚いたほどだから。
「……付き人のルールを忘れたわけじゃないわよね」
「もちろん。一言一句、正確に覚えてる」
薄々勘付いているだろうなとは思っていたけれど、やっぱりそのことを突っ込んでくるか。
怖い目に遭った後だというのに、変なところで頑なに規則を厳守させようとすんのね……。
「覚えていた上で、故意に違反した……?」
「何のこと?」
「
夕莉の語気が強くなる。
ふざけているとでも思われたのだろうか。
しかし、私は至って真面目だ。ルールを破った覚えは一切ない。
今までも、これからも。
私が夕莉の付き人であり続けることを望む限り、決して自分から破ることはない。
「業務時間外は接触禁止……」
「"非常時を除いて"、でしょ」
「主人の体に触れてはいけないと……」
「今はあんたの付き人じゃない」
「っ……じゃあ、どうして――」
ふと、もう一つの足音が消えた。
同時に、私の斜め後ろを歩いていたはずの夕莉の気配が遠のく。
気になって振り返ると、夕莉が離れた位置で立ち止まっていた。
手を握り締めて、責めるような眼差しを私に向けている。
しかし、その目に威圧感はまるでなく、涙が溜まっているかのように潤んだ瞳は不安げに揺れていた。
僅かに歯を食い縛って、それでも気丈に振る舞おうとして。
見ているこっちが苦しくなる、そんな姿に、彼女にしかわからない苦悩や葛藤を垣間見た気がした。
真っ向から私を強く見据えて、
「私を、気に掛けたりするの」
絞り出した声は、怒りとも哀しみとも取れる、複雑な色をしていた。
付き人じゃないのに、どうして助けたのか。
そう問い
確かに、主従関係のない状態なら無理に体を張って庇う必要はないし、手柄を立てたところでお給金やボーナスが貰えるわけでもない。
私にメリットなんてないのに、どうして――。
みたいなことでも思っているのだろうか。
合理的な彼女らしい疑問だ。
私にとっては、甚だおかしな問いだけれど。
「さあ。何でだろうね」
戯けるように答えた私に、夕莉が眉根を寄せる。
「見返りのため……?」
「変なこと訊くじゃん」
あまりに不信感丸出しで、思わず苦笑が漏れてしまう。
主人と付き人、という関係性を取り除いたら、夕莉はこんなにも警戒心を剥き出しにするんだと、新たな発見があった。
同時に、少しだけ寂しい気もした。
私たちは、主従という形でしか打ち解け合うことはできないのかな、と。
「まぁ、強いて言うなら――」
寸分も私から目を離さない夕莉のもとへ、一歩一歩近付いていく。
警戒しているのか、ピクッと肩を震わせながらも、隙を見せまいと虚勢を張っている。
そんな彼女の固く握られた手にそっと触れると、緊張が解けたように手を緩めてくれた。
そのまま指を絡めて、包み込むように握る。
「失いたくないから、かな」
損得勘定で動いたわけじゃない。
見返りなんて求めるはずない。
彼女が無事でいてくれるなら、私はきっと、どんな状況でも迷わず自分の身を投げ出すと思うから。
「ほら。早く帰んないと、杏華さんが心配するよ」
未だ思い詰めた様子でいる夕莉の手を引いて、私たちはまた歩き始めた。
隣に並ぶ夕莉が、躊躇いがちに戸惑った声を上げる。
「奏向……これは……」
「もう一度言うけど、今はあんたの付き人じゃない。ルール守る必要ないんだから、好きにしてもいいでしょ。それとも、"付き人じゃない私"とは関わりたくない?」
「…………」
返答がないので、許可を得たと思うことにする。
こんな暴挙、業務時間内で働いたら一発でクビだろうな。
勝手に夕莉に触れて、不快な思いまでさせているかもしれないのだから。
でも、本当に嫌なら私の手を振り解けばいい。
軽く握っているだけだから、少し力を入れたら簡単に離せるはずだ。
それにもかかわらず拒絶しないのは、少なくともこの状況を受け入れてもいいという気持ちが、心のどこかにあるからではないのか……と、勝手に思っている。
会話がなくなって沈黙が流れた後、またしても夕莉が口を開く。
ただ、今回は先程までの強がった声音ではなく、反省するようなか細い声で。
「……心配かけて、ごめんなさい」
小さく呟いた。
「いいよ。夕莉が無事なら」
警戒していたくせに、これほど素直な感情を見せてくれる彼女が無性に愛おしく思えて。
緩く繋いでいた手を、改めて握り直す。
すると、夕莉が私の手を優しく握り返した。
絡み合う指にほんの僅かな力がこもり、お互いの熱が手のひらから伝ってくる。
心臓が、これまでにないほど激しく鼓動している。
夕莉が隣にいてくれてよかった。
どうしようもないくらい赤面している今の私を見られずに済む。
まだ、この手を離したくない。
そんな我儘を、今だけは許してほしい。
明日からはまた、
◇
「ただいま」
おんぼろアパートに帰宅する。
いつも通り家には誰もいない、と思いきや、玄関に粗雑に置かれたハイヒールのパンプスがあった。
……もう。靴は揃えて置くか、シューズボックスにしまえって口酸っぱく言ってるのに。
「あ、カナちゃんおかえりー」
居間からひょっこりと顔を覗かせて、陽気な笑顔を向けてくる。
「いたんだ」
「ちょっとー。お母さんに冷たくない?」
この時間にしては珍しく、お母さんが家にいた。
相変わらず仕事着のままで、体のラインが出るタイトなワンピースを着ている。
どうせお酒でも飲みながら休んでいるのだろうと思ったけど、お母さんが摘んでいたのは、おつまみではなくスナック菓子だった。
よく見ると、テーブルの上には食事を終えた後の食器と、お菓子の袋が散乱している。
作り置きしておいた肉じゃが食べてくれたんだ……って、それよりも気になるものが。
お母さんの隣に、何やら大量の食料諸々が入った大きな袋が四つも置かれている。
見覚えのある袋の柄……まさか。
「これね、さっきヒナちゃんが遊びに来てくれて。お菓子とか日用品とか、たくさん貰ったのよ。ほら見て、カナちゃんの好きなものばっかり。もう少し早く帰ってくれば会えたのに」
私の怪訝な視線に気付いたお母さんが、嬉しそうにお菓子を頬張りながら説明してくれた。
……やっぱり、またか。
確かに、私の好きなクッキーやチョコレート、よく使うシャンプーやハンドクリームなんかが入っている。
「あの子は?」
「仕事があるからって、ついさっき出て行っちゃった。帰り道で見掛けてない?」
「……いや、見てない」
入れ違いになったか。
そもそも、あの子の移動手段は主に車だから、すれ違っていたとしても気付かない。
……まぁ、あっちが私に気付いたら、車を引き返してでも声をかけに来るだろうけど。
「それにしてもヒナちゃん、しばらく見ない間に随分美人さんになっちゃって! 小学生の頃はカナちゃんより小さかったのにねぇ」
それはだいぶ昔の話だ。
小学校を卒業する頃には、とっくに身長を越されていた。
お母さんは仕事漬けでほとんど会っていなかったから、記憶が過去のまま止まっているのだろう。
そんなことよりも。
食料や雑貨を送りつけるのはやめろと何度も釘を刺したのに、あの子ときたら……。
日用品はまだしも、私とお母さんの二人だけでは到底食べ切れない食品類の多さに、どうしたもんかと頭を抱えていたら。
見計らったかのようにスマホが振動する。
画面に表示されている発信者の名前を見て、すぐさま電話を取った。
「
問い詰めてやろうかと思い、矢継ぎ早に話そうとしたけれど。
透き通った声が、躊躇なく遮った。
『カナ――会いたい』
─────
《第3章 あとがき》
https://kakuyomu.jp/users/keinisan/news/16817330655570912534
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