幕間 募る想い

 廊下にあるものが落ちていることに気付いたのは、夕飯の時間になり、ダイニングルームへ向かっている最中だった。


 何気なく視線を下にやると、いつもは塵埃一つない清掃の行き届いた廊下に、小さな光るもの――鍵が落ちていた。


 見覚えのない形状だった。

 自室に来るまでの間では見かけなかった。その後、この廊下を通ったのは奏向だけ。

 ということは、あれは奏向のものだろうか。


 大きさからして、家の鍵のようだ。

 奏向は先程ここを出たばかり。もし推測通りならば、あの鍵がないと彼女が困るのでは――。


 床に落ちているそれを見て、一瞬のうちにそんな思考が夕莉の頭を過る。


 自分でもなぜかはわからないが、それを拾った直後、無意識に自室へ引き返していた。

 今からでも走って追いかければ、何とか間に合うかもしれない。


 急いで部屋着から外出着に着替え、いつもは杏華に一言伝えてから家を出ていたことも忘れて、一人マンションを後にした。


 最寄駅のロータリーに着いたところで、呼吸を整えながら一旦辺りを見回す。

 帰宅する時間帯ということもあり、周りは人で溢れていた。


 金髪である奏向は比較的見つけやすいはずだと思ったが、いくら注意深く探してもそれらしき人物は見当たらない。

 すでに改札を通ってしまったのだろうか。


 彼女が今どこにいるのか、確認するために連絡しようとして、ふと気がつく。


 手元に何も持たず、家を飛び出してしまったことに。今あるのは、奏向のものと思われる鍵だけだった。

 そこで、自分が無鉄砲な行動をとってしまったことを思い知る。


 呆然と立ち尽くしながら、徐々に冷静になっていく。

 外出することを杏華に伝えず、連絡手段であるスマホも忘れ、夢中で奏向を追いかけるなんて。

 今までの自分なら考えられないなんとも突飛な行動に、呆れるほかなかった。


 人混みから避けるように、一旦近くのベンチに腰掛ける。

 手に持っている鍵を見つめながら、ため息を吐いた。


 ここで座っている間に、奏向はもう電車に乗ってしまっただろう。

 今すぐ連絡をしようにも、スマホを家に置いてきたせいで、引き返す時間もかかる。


 結局、無駄足を踏んだばかりか、奏向の手間をかけさせるような結果を招いてしまった。

 落ちていた鍵を見つけた時点で電話をしていれば、彼女もすぐ取りに戻れたかもしれないのに。


 奏向のことになると、冷静さを欠いてしまう。

 放課後、図書室で彼女と話してから、胸がずっと苦しい。

 いつ以来かもわからない笑顔を不意に見せてしまうほど、心を開いていたことに驚いたのだ。


 それだけではない。あの時、夕莉を見つめる奏向の眼差しが、いつもと違った。


 冗談でからかう時のいたずらな顔ではなく、真っ向から向き合おうとする真剣な表情。

 その確かな意思の中に、慈しむような優しさがあった。


 初めてだった。惹きつけられるほど澄んだ瞳に、これほど感情を揺さぶられるのは。

 奏向の顔を直視できず、逃げるように図書室を後にした。

 あの場に居続けていたら、心臓がどうにかなってしまいそうで。


 今もなお心を乱すこの気持ちが、彼女に対する"好意"なのかはわからない。

 ただ一つ言えるのは、それが雇用関係において間違いなく抱いてはならない感情だということ。


 相手に決して気を許さない。

 それが、付き人を雇う際に自分へ課した掟だった。


 だというのに、奏向と共に過ごす時を重ねていく中で、知らぬ間に胸の内を明かしている自分がいる。

 屈託のない笑顔に触れるたび、絆されていく。


 利害の一致で契約しただけで、お互い私情を挟む余地はないはずだったのに。

 あんな目で見つめられたら、自分と同じなのではないかと思ってしまう。


 もしかしたら奏向も、余計な感情を抱いてしまっているのではないかと。


 二人の繋がりが、ただの主従関係ではなくなり始めている。


 非常に不安定な情緒のまま、これから奏向とどう接していけばいいのだろうか。

 煮え切らない態度を続けても、彼女に迷惑をかけるだけなのはわかっているのに。


 二度目のため息を吐き、俯いていた顔を上げた時。突然、横から見知らぬ男が声をかけてきた。


 振り向くと、男が薄気味悪い笑みを浮かべながら、舐め回すような視線をこちらに向けている。

 その姿をはっきりと視認した瞬間、背筋が凍るような悍ましさを感じた。


 男が何か話しかけている。

 しかし、その内容は全く耳に入って来ない。

 あまりの恐怖に心臓が止まってしまったかのような錯覚に陥り、呼吸がままならない。


 一刻も早くこの男から離れなければ。

 思い通りに動いてくれない体を無理に立ち上がらせようとして。何の前触れもなく、腕を掴まれた。


 直後、全身にブワッと悪寒が走り、言い知れない嫌悪感に総毛立つ。


 不意にフラッシュバックする、過去の記憶。

 当時の恐怖が鮮明に蘇り、動悸が激しくなる。

 パニック寸前の状態で抵抗できる力もなく、腕を引っ張られベンチから体が離れた。


 その時、夕莉と男の間を割って入るように、誰かが目の前に現れた。


 少しだけ癖のある金色の髪に、夕莉と同じ学院の制服を着た少女。


 先程まで必死に探していた人物が、今まで聞いたことのない怒気を含んだ低い声で威嚇しながら、男の手首を掴んでいる。

 苦痛に顔を歪めた男は、呆気なくこの場から逃げていった。


 もうここにはいないと思っていたのに。

 心配そうに覗き込んでくる奏向の顔を見て、涙が出そうになった。


 地獄のような状況から解放され、目の前に求めていた人がいる安心感に、我慢していたものがドッと溢れてくる。


 未だに震えが止まらない体を、奏向の腕がそっと包み込んだ。


 ――温かい。

 乱れていた呼吸が少しずつ安定していく。

 背中をさする手が心地よくて、しなだれかかるように身を委ねた。



 精神が徐々に落ち着き、二人でマンションへ帰る途中。

 なぜあの場にいたのかと尋ねる奏向のに、夕莉はわだかまりを感じていた。


 彼女は付き人のルールを覚えていながら、それを破った。

 違反によりクビになることを恐れて、常日頃から過剰なほど意識していたにもかかわらず。


 男から助けてくれたことには感謝している。

 しかし、それとこれとは別だ。何事もないかのように振る舞う姿が、不信感を募らせる。


 彼女が付き人なら、不安になることはないと思っていた。

 決してルールを破らず、主人に背くようなことはしないと。それなのに――。


 規約違反をした以上、例外なく解雇しなければならない。あなたはもうクビだと、伝えなければ。

 しかし、口から出たのは宣告ではなかった。


 信じたくなかったのかもしれない。

 奏向が、結局は他の人と同じ、自分の欲望のためだけに動くような身勝手な人間だということを。


 ――違う。信じていたのだ。

 奏向はきっと、主人を裏切るようなことはしないと。


 その信頼が脅かされて、彼女を疑う気持ちと、信じたいと思う気持ちがい交ぜになり、自分でも抑えられない怒りのような感情をぶつけてしまう。


 そんな夕莉を前にしても、奏向は依然として飄々とした態度を崩さなかった。

 間違ったことはしていないと言わんばかりに。

 そして、夕莉を見据えながらゆっくりと近付いてくる。


 やはり、ルールに違反してまで助けてくれたのは、何か思惑があってのことだったのか。


 思わず後退りしそうになった時、奏向の手が固く握られた夕莉の手に優しく触れた。

 不思議と、抵抗感はなかった。


 ――奏向は、ずるい。


 何でもないように振る舞っておいて、急に距離を縮めてきたかと思えば、下心を感じさせるような魂胆など微塵もなく、またいつも通りの態度に戻る。


 全ての行動が純粋な思いからくるもので、裏表がない。正直で、真っ直ぐだ。

 だから、されるがままでも、嫌悪感を全く感じない。

 それどころか、彼女になら触れられてもいいとさえ思えてしまう。


 自然と、自分を守るように強く握り締めていた手が緩んでいく。

 無防備になった夕莉の手に、奏向の指が入り込んでくる。

 心の内側に潜り込まれたような、くすぐったい気持ちになった。


 手を握ったまま離そうとしない奏向に、夕莉は戸惑いを隠せないでいた。


 触れられてもいいからといって、ルールを破ったことを許せるわけではない。

 規則は規則。守ってもらわなければ意味がない。


 どうにか絞り出した異論の声に対して、彼女ははっきりと明言した。

 今は夕莉の付き人ではない、と。


 迷いのない意志の強さに、夕莉は気圧されたように口を噤んだ。


 それなら、今の二人は一体どんな関係なのだろうか。

 主人でも付き人でもない、こうして手を繋ぎながら帰り道を歩いている二人は、傍から見ればどんな関係に映るのだろうか。


 奏向は今、どう思っているのだろう。

 彼女は気持ちをストレートに伝えてくれるが、肝心な部分は濁しているように思う。


 もし、同じ感情を抱いていたら――。

 そんな淡い期待に応えるように、軽く握っていた奏向の手が優しく力んだ。


 ――失いたくない。

 そう言ってくれた彼女の言葉に嘘はないと、信じてみたくなった。


 激しい胸の高鳴りや火照る体の熱さが、奏向に伝わってしまうかもしれない。

 けれど、それでも構わない。

 許されるのなら、今だけは自分の気持ちに正直になりたい。


 密着する手のひらと絡まる指からお互いの熱を感じながら、夕莉はそっと手を握り返した。




 マンションのエントランスに到着すると、待合スペース付近で杏華が佇んでいた。

 普段の朗らかな笑顔とはかけ離れた、深刻な表情で。

 二人の姿に気付いた杏華は、緊張の糸が切れたように顔を綻ばせる。


 夕莉を送り届けた奏向は、用は済んだとばかりに早々に帰ってしまった。


 無事家に戻り、杏華と二人で夕食を済ませた後も、胸の違和感は治らない。


 リビングのソファーに深く座り、大きなクッションを抱き抱える。

 冷静になろうとしても余計に深く思い悩んでしまうだけで、心を掻き乱すこの苦しい感情は消えてくれない。


 未だ左手に残る人肌の感触が、夕莉の体を火照らせる。

 紅潮している頬を冷そうとクッションに顔を埋めるも、全く効果はなかった。


 奏向のことが、頭から離れない。

 それどころか、彼女のことを考えるたびに胸の痛みが増す。


 自分ではどうしようもできない曖昧な気持ちを抑え込むために、夕莉はただクッションを強く抱えることしかできなかった。




「"付き人ではないからルールを守る必要はない"、ですか。上手く抜け穴を突かれましたね」


 様子のおかしい夕莉から事の顛末を聞いた杏華は、ローテーブルにココアの入ったマグカップを置きながら、斜め位置のソファーに腰を下ろす。

 その表情は、どこか嬉しげだった。


 差し出されたココアを一瞥して、夕莉は再びクッションに顔を隠した。


「彼女の処遇はいかがなさいますか? ……解雇、されますか?」


 杏華からの問いに、暫し黙考する。

 けれど、答えはとうに決まっていた。

 夕莉がどんな結論を出すのかわかった上で言及した杏華の、何でも見透かしたような口調が、少しだけ癪だった。


 顔の上半分だけ覗かせて、平静を装いながら淡々と告げる。


「……認識の相違があったみたい。きちんと説明しなかった私にも非があるから、今回は不問にする」


 契約では、勤務時間は7時から19時と定められている。

 この時間外は就労の義務がない、つまり、付き人としての責務は発生せず、勤務時間内でのみ規則の効果が適用されると、奏向は解釈したのだろう。


 本来ならば、契約そのものが有効であるうちは特定の時間に限らず、いついかなる時も厳守すべきものだった。


 思わぬ齟齬が生じてしまったため、一方的に解雇するのはさすがに勝手が過ぎると判断した。


「殊勝にも、今までずっとルールを破らないよう徹底されていたようですね。……もう、無理に壁を作ろうとしなくても良いのではないでしょうか。彼女は、あの方とは違います」


 切実な思いがこめられた声に、夕莉は堪らず目を伏せた。


「……わかってる」


 『付き人の六ヶ条』という規則は、雇用主と労働者が必要以上に親密な関係にならないために設けた予防策だった。

 夕莉自身も、付き人である奏向からある程度の距離を保つために。


 二人はあくまで、雇用契約によって繋がれただけの淡白な関係に過ぎない。

 これから先も、その関係性が変わることはないはずだった。


 けれど、変わってしまった。

 夕莉の奏向への想いは、明らかにただの付き人に対して抱くものではない。

 そして奏向もまた、主人に対して一線を超えた情を抱き始めている。


 これほどまでにお互いが心を開いてしまえば、ルールで規制した意味がなくなる。


 主人と付き人の在り方を、改めて考え直す時がきたのかもしれない。

 ならば、二人の拗れ始めた関係が取り返しのつかない域に達する前に、確かめなければならない。


 奏向の夕莉に対する本当の気持ちを。

 そして、この胸に潜む感情の正体を。

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