第55話 失跡
「おめでとうございます。奏向さんは本当に何でもこなしてしまいますね」
「いやいや、それほどでも」
切らしていたトイレットペーパーやゴミ袋、あとはストック用にティッシュや洗剤など諸々購入して、夕莉と一緒に神坂邸のマンションへ帰宅したら。
突然杏華さんからお褒めの言葉をかけられた。
時期的に中間テストのことだろうなと察する。
「……って、どうしてそのことを?」
あまりに嬉しそうな笑顔を向けられたから、流れで返事をしてしまったけれど。
結果は夕莉と加賀宮さんにしか教えていないはずなのに。
とうとう心まで読まれるようになったか……。
「お嬢様から連絡をいただきました。文面から喜びが伝わってきましたよ」
「杏華……!」
思わぬ告げ口に動揺した夕莉が、キリッと杏華さんを睨む。
何食わぬ顔でニコニコと笑みを浮かべながら、とぼけるように首を傾げる杏華さんの姿が、どこか小悪魔的だった。
冷静さを欠いた夕莉の反応を楽しんでいるようにも見える。
「おや。何か不都合なことでもありましたか?」
「誤解を招くような言い方はやめて」
「それは失礼いたしました。けれど、あながち間違いというわけでもないですよね」
「……っ、別に……」
珍しくしどろもどろになって言葉を詰まらせている夕莉。
何とかして本音を隠そうとしているところ残念だけど、彼女が喜んでくれたことはしっかり私にも伝わっている。
普段感情を表に出さない子にあんな笑顔を見せられたら、きっと誰だってわかってしまう。
私の反応を確認するように遠慮がちに視線を向けてきたので笑顔を返すと、すぐに顔を逸らされた。……照れてる。
「せっかくですし、お祝いとして奏向さんもご一緒に夕食でもいかがでしょうか。ちょうどおかずを作りすぎてしまって」
夕莉をからかって満足したのか、杏華さんはキッチンへ戻ると、出来立ての料理を見せるように鍋の蓋を開けた。
瞬間、食欲をそそる香りが一気に広がる。
ほんのりと甘い匂いに誘われて、私も彼女の横から鍋を覗き込んだ。
「うわ、おいしそ。角煮ですか」
じっくり煮込まれたであろう豚肉とゆで卵の色が絶妙で、味がしっかり染み込んでいるのが見ただけでわかる。
……なるほど。神坂家の角煮は大根入りなんだ。
「奏向さん、和食がお好きでしたよね」
配膳の準備を始めながら、杏華さんがにこりと微笑む。
まさか、私の好みを覚えてくれていたとは。
ちょうどお腹が空いていたし、許されるのならぜひとも食卓にお邪魔したい。
が、ここは何とか食欲を我慢し、好物の食べ物を目の前に腹の虫が鳴ってしまいそうになるのをグッと堪える。
「お気持ちはすごく嬉しいんですけど……今日は遠慮しておきます」
"今日は"というより、"今日も"と言った方が正しいか。
以前も何度か食事に誘われそうになったけど、そうなる前に毎回適当に誤魔化して退散していた。
私の返答に、杏華さんが眉尻を下げる。
「もしかして、和食の気分ではありませんでしたか……?」
「いえ、そういうわけじゃなくて。そろそろ終業の時間なんで」
「……あら……もうそんな時間、でしたか」
意表を突かれたように目を瞬かせた後、すぐに意味を理解したのか、寂しげに微笑みながら頷いた。
私が誘いを断っても、彼女は無理に押し切ろうとはしない。
それはおそらく、断らざるを得ない理由があることを知っているから。
別に終業時間になろうが、夕食を共にすること自体は付き人の業務と何ら関係ないから、杏華さんのご厚意なら喜んで甘えたい。
だけど、午後七時を過ぎてなお神坂邸に居座ると、付き人のルールに抵触してしまう。
『非常時を除いて業務時間外は接触禁止』というルールに。
ふとダイニングに視線をやると、いつの間にか夕莉の姿が消えていた。
着替えにでも行ったのだろう。
挨拶だけして、今日はそのまま上がらせてもらうことにするか。
「……では、これで失礼します」
「はい、お疲れ様でした」
キッチンで杏華さんに見送られた後、夕莉の部屋へ向かう。
さっきまでの様子を思い出しながら、調子は大丈夫なのかなと少し心配になる。
彼女は元々口数が多い方ではないけれど、今日の帰り道では特に無言が多かった。
避けられている、わけではないが、なんとなく私への態度がぎこちないように見えた。
原因について、思い当たる節がないとは言い切れない。
ただ、仮にその推測が当たっていたとして……本当に私のせいなのかなと、些か疑問を抱いてしまう。
いくら口が滑ったとはいえ、私の言動が彼女の様子をおかしくしてしまうほどのものだったとは思えなくて。
今からでもあの言葉を撤回したら、この微妙な距離感も元に戻るのだろうか。
でも、自分で恥ずかしがっておいて何だけど、正直に伝えた気持ちをなかったことにするなんて、やっぱりできない。
夕莉の部屋の前に着き、呼吸を整えるように息を吐く。
……大丈夫。いつも通り、私が変に取り繕ったりしなければ。
軽く咳払いをして、コンコンとドアをノックする。
「夕莉ー。私、もう帰るね」
「………………お疲れ様」
かろうじて聞き取れるほどの小さな声が返ってくる。
返事までの沈黙が長かったから、無視されたのかと思って踵を返すところだった。
明らかに普段とテンションが違うことはわかっても、内面をそう簡単には晒さない彼女の、ご機嫌をとる方法まではさすがにわからない。
お菓子でも与えて元気になってくれたりは……しないか。幼児じゃあるまいし。
これはもう、時間が解決してくれるのを待つしかないのかもしれない。
◇
神坂邸を後にして、帰路につく。
春が終わり初夏の時期ということもあり、午後七時を回ってもそこそこ明るさはある。快晴だからだろうか。
黄昏時も相俟って、空に広がる茜色と紺碧のグラデーションが目を奪われるほどに鮮やかだ。
時折吹く夕風も、程良く涼しくて気持ちがいい。
夕莉の家の最寄駅から電車で帰るのが習慣だけど、今日は徒歩で帰ってみたくなった。
自宅の最寄駅の、一つ前の駅で降りようかな。
そんなことを考えながら改札を通り抜けた直後。
ポケットの中のスマホが振動した。
電話がかかってきた時の通知だ。
人通りの邪魔にならない所まで移動して、スマホを確認する。
発信者は杏華さんだった。
どうしたんだろ。忘れ物でもしちゃったかな……。
「はい――」
呑気に電話に出たのも束の間。
スマホの向こうから聞こえてきたのは、想像もしない声だった。
『奏向さん……! どうしましょう……』
初めて聞く、杏華さんの切羽詰まった声。
不意に訪れた尋常ではない雰囲気に、緊張感が一気に押し寄せる。
並大抵のことでは絶対に取り乱したりしない彼女が、電話越しでも余裕がないと容易に窺えるほど狼狽している。
その状況が、より一層不安を煽っていく。
『お嬢様が……いなくなってしまいました』
「…………え?」
耳を疑った。
"いなくなった"って言った?
夕莉が……? え、なんで……。
茫然自失しそうになって、すぐさま無理やり思考を巡らす。……一旦冷静になれ。
杏華さんが冗談で言う……のはあり得ない。
もしそうだとしても、なぜこのタイミングで、そんな嘘で私を騙す必要があるのかという疑問が出てくる。
さすがの彼女も、質の悪いからかい方はしない。
では、夕莉がいなくなったというのは、杏華さんの雰囲気からしても事実だろう。
しかし、慌てるのはまだ尚早のように思う。
『家の隅々まで探したのですが、どこにもいらっしゃらず……靴がなくなっていたので、おそらく外出されたのだと思います。今まで家を出る時は必ずご連絡いただいていたのに……』
「落ち着いてください。外に出ていると言っても、少しの間だけですぐ帰ってくるかもしれないですし、まだそこまで暗い時間帯ではないですから、あまり心配しなくても大丈夫だと思いますよ。とりあえず、夕莉に連絡してみては――」
『実は、あの子のスマホが部屋に置かれたままなんです』
……マジか。
じゃあなに、スマホ持たずに外出したってこと? どういうつもりよ。
単純に忘れたのか、それとも故意に持ち出さなかったのか。
夕莉が前者のような失態をやらかすとは思えないし……。
何にしても、行き先を告げられず突然いなくなって、電話もチャットもできない状況ということであれば、確かに不安にはなる。
ただ、小さい子どもではなく、ましてや思春期の高校生なのだから、ふらっと家出したくなることもあるはず。
ここまで動揺するのは少し過剰ではないか――
『お嬢様は昔、誘拐されそうになったことがあるんです。なので、また事件に巻き込まれてしまわないかと心配で……』
「誘拐……?」
なんとか前向きに考えようとしたけれど、杏華さんの衝撃的な発言で思わず思考が停止する。
事件の被害者になりかけた……? みたいなことだろうか。
それなら、彼女が危惧するのも頷ける。
最悪の事態を想定するに越したことはないし、何かあってからでは取り返しがつかない。
「……わかりました。私、夕莉を探してみます。杏華さんは念のため、警察に届出をしてください」
『……っ、承知しました。ご迷惑をおかけてして申し訳ありません……よろしくお願いします』
僅かに冷静さを取り戻した杏華さんの声に少し安堵しながら、ここで一旦電話を切る。
もしかしたら、夕莉が危険な目に遭うかもしれない。
そんな危機的状況にあるのに、すぐには体が動かなかった。
"探してみます"とは言ったものの、どこをどう探せばいいのか、皆目見当もつかない。
どこか、夕莉の行きそうな場所は――そもそも、なぜ唐突に行方をくらませたのかが謎だ。
家出したくなるほど、思い詰めていたとか?
もっと詳しい原因や手掛かりがわかれば、何かしら推測できるかもしれないのに。
ひとまず、夕莉に電話……って、あの子スマホ持ってないんだった……!
「あーもう、バカ! なんでスマホ持たないでどっか行っちゃうかな……!」
夕莉に発信しようと操作しかけた手を止め、スマホを乱暴にポケットにしまう。
通り抜けたばかりの改札を引き返して、帰宅ラッシュによる人混みを掻き分けながら駅から飛び出した。
……まではよかったが、東西南北のどの方角へ向かうべきなのかすらもわからず、本当に探す当てがない。
あまりネガティブなことを考えたくないけど、もし夕莉の身に何か起こったらと想像するだけで、胸が締め付けられるように苦しくなる。
早く見つけないと。
手当たり次第に、まずは辺りを見渡してみる。
駅前のロータリーは、やはり日中より混雑していた。
探すとしたら……例えば、ロータリー付近の休憩場所なんかにいたりは――
「……いたわ」
自分の目を疑った。
嘘でしょ……そんなことある?
探し始めてまだ一分も経ってないんですけど。
まぼろし……?
あまりに呆気なく見つかってしまったから本物の夕莉だと信じられず、何度も瞬きをしてしまう。
しかし、どんなに目を凝らしても見慣れた彼女の姿がそこにあった。
背中まで伸びた長く艶やかな黒髪。
見惚れるほど美しい横顔。
周りを寄せ付けないミステリアスな雰囲気。
そして、デニムジャケットにロングスカートという、明らかに外出するための服装を身に纏っていた。
間違いない、夕莉だ。
人通りから少し離れた休憩用のベンチに、一人ぽつんと腰掛けている。
何であんな所に……。
何はともあれ無事が確認できたし、杏華さんに連絡しよう。
ほっと胸を撫で下ろしながら、スマホを取り出す――ことはなく。
目を見張る光景を前にして、私は無我夢中で駆け出していた。
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