第228話:閑話 東ヶ崎さんの心

(コンコン)「……はーい」


 鉄製の重い扉の前で軽めのノックをしたら、よく聞いた声が聞こえてきた。


 ここは高鳥家の5階。高鳥家の5階は普通の家とはちょっと違う特徴がある。1階は全て駐車場、2階はリビング、3階は飛ばして、4階は俺とさやかさんの部屋。


 そして、5階はワンルームマンションの様になっている。エレベーターを降りたら長い廊下がある。その両脇に玄関ドアがあり、その中にワンルームの間取りの部屋があるのだ。


 だから、各部屋にトイレや風呂があり、キッチンがある。その部屋だけで生活できてしまうのだ。


 現在、5階の住人は東ヶ崎さんとエルフのみだ。


 お互いの生活音が気にならないように、同じ5階でも部屋が離れていて意図して関わろうとしない限りその存在に気付かない程、建物の作りはしっかりしている。


 そう言えば、エルフはネット配信をしているので夜や夜中に騒いでいることがあるらしいのだけど、ゲームの音や配信の音、エルフの声までも周囲の迷惑になったことはなかった。ある意味、彼女は最高の配信環境を手に入れているのかもしれない。


 そして、今日俺が訪れたのは東ヶ崎さんの部屋。もちろん、チャイムもあるのだけど、俺の訪問は東ヶ崎さんだけに伝えたくてドアをノックしてしまった。


(ガチャ……)「いらっしゃいませ」


「ども……」


 短いやり取りだったけれど、東ヶ崎さんはドアを大きく開けて無言で俺が中に入ることを促した。


 ドアを一歩入ったら部屋中から東ヶ崎さんの匂いがしていた。もう長いこと住んでいると思った高鳥家なのに、東ヶ崎さんの部屋は初めてだ。そして、彼女の匂いに包まれた部屋に入っただけで俺の心は落ち着かない。


 逃げ出した猫が絶対に捕まらない様に、俺の心もどんなに落ち着かせようと思っても一向に収まってくれないのだ。


「あの……こちらにどうぞ」


 ピンクの小さなローテーブルに小さな座布団もピンク色。日ごろのクールで仕事ができる彼女の印象のそれではなく、きっと彼女の素の心がここにはあった。ワンルームながら一人暮らしには十分な広さの部屋。そこはきれいに整理整頓されていて、彼女の性格を形にしたみたいな部屋だった。


 俺は準備されていたクッションに座った。普段、男が来ることなどないのだろう。クッションは薄くて俺からしたらあってもなくてもそれほど違いを感じないようなクッションだった。


「いま、お茶をお出ししますね」


 また少し慌てた様子の東ヶ崎さんだ。ここ最近はこういった表情をよく目にする。彼女の人間らしい部分を見た気がして俺は心の中でスキップしていた。


 いくら広いと言っても1畳あるかないか程度の部屋のキッチン。ここで料理をすることはほとんどないのだろう。しかし、コーヒー程度なら準備することもできる。


 その狭いキッチンに立つ東ヶ崎さん。


 俺はそのすぐ後ろに立った。格闘技で段持ちの彼女のことだから、俺が近づいたら気配で察知することくらいはお手の物だろう。しかし、俺はやすやすと彼女の背後に立つことができた。それは、東ヶ崎さんがそれを許してくれていたからだろう。


 後ろから東ヶ崎さんを抱きしめた。


 お茶の準備をすると言っていた彼女の手はまだ何も持っていなかったが、完全に動きは止まってしまった。


「今日は抱きしめに来ました」


 それを聞くと、彼女は俺の腕の中でくるりと身体を回してこちらに向き直った。


「……お慕い……申し上げていました」


 何て上品な言い方だろう。さやかさんも含め、俺の周囲には他にいない奥ゆかしさの人ではないだろうか。


「俺も東ヶ崎さんのことは好感度マックスだったんですけど、こういう感じは想像していなかったと言いますか……」


「私は想像だけしかしていなかったと申しますか……」


「「……」」


 しまった。会話が止まってしまった。考えてみたら、東ヶ崎さんとの会話のほとんどはさやかさんに関するものばかりだった。


 しかし、この状態でさやかさんと言えども他の女性の話をするのは憚られる。


 彼女との唯一の共通言語を封じられた俺に彼女との会話が成立するのか。


「「……」」


 ただ、こんな時は男のほうがイニシアティブを取らないといけないのだ。


 俺は彼女の頬にそっと掌を滑らせた。


「顔を良く見せてください」


「……あんまり見ないでください」


「そんなこと言わずに」


 俺は、東ヶ崎さんの顔を覗き込んだ。


 顔を真っ赤にして俯いている彼女はとても可愛らしいと思った。


「あれ? 狭間さん赤くなってますよ? 首のところ」


「え? ホントですか?」


彼女に指摘され、心当たりはあったけれど、それは違うとも思っていた。


「蚊に刺されたのかもしれません。薬を持ってきます」


 慌てて東ヶ崎さんがクローゼットのほうにむかった。きっとあそこに薬箱か何かが入っているのだろう。


「大丈夫ですよ。かゆくありませんので」


「ん? こっちも?」


「え? 本当ですか? 部屋に蚊が出るんです」


「ちょっと狭間さん、首元を見せてください」


「え? はい」


 東ヶ崎さんが心配した顔で俺のシャツの襟を引っ張って首元を確かめる。


「こっちは……歯形?」


「あ、部屋に……猫が出るんです」


「これは……随分とやきもち妬きの蚊と猫ですね」


 ダメだ。東ヶ崎さんには全てバレてしまっているようだ。


「ははは……跡は付いてないって言ってたんですけど……蚊と猫が」


「狭間さんは愛されていますね」


「ははは……」


 もう笑うしかない。


「あれ? こっちも! いけない! ちょっと目を瞑ってください!」


「え? どこですか?」


「いいから! 目を瞑ってください!」


「は、はい!」


(ちゅ)「!!」


 慌てて目を開ける俺。


 東ヶ崎さんは既に一歩離れたところにいた。


「あの……今の……」


「すいません、この部屋にも蚊が1匹いたみたいです♪」


「ははは……蚊じゃしょうがないですね」


「コーヒーを淹れますので、1杯だけ飲んでいってください」


「あ、はい。ご馳走になります」


 東ヶ崎さんの部屋では、この後東ヶ崎さん渾身の一杯をご馳走になったのだった。

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