3.浩
「私、ストーカーされてるみたいなの」
震える声で言われた言葉を、
誰かが通報したのか、遠くからサイレンの音が聞こえる。力尽きて倒れた二人と彼らを取り押さえた男性たち、野次馬を見回した。しばらくのちに渦中の男たちは病院なり警察なり行くことになるだろう。
「救急車が来たらしおり、同乗するか?」
腕にしがみつくしおりに意地悪なことを言ってみる。意図を理解できないのか小首をかしげて
「一緒に乗るの? それとも情けをかける方の同情? 私、あの人たちに怖い思いをさせられたのに?」
何食わぬ顔で言う様子を滑稽に思いながら浩は彼女を家に誘導した。
「しおり、実は大切な話があるんだ」
リビングのソファーに座らせたしおりを見下ろす。彼女はカタカタと小刻みに震えているが、二人のストーカーに怯えている演技だろうか。ふいに浩のシャツの袖が引っ張られる。うつむいたしおりが右手の人差し指と親指だけで控えめにシャツをつまんでいた。
ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ、これらの有名な彫刻と並んで立っていても引けを取らない美貌を持つしおりが、このようにまるで人間のような行動をとるだけで、過去の自分は参っていた。彼女は、その美貌に嫉妬したアフロディーテに意地悪をされて下界に落とされた美の女神だ、あるいはうっかり人間界に迷い込んでしまった穢れなき妖精だ、命を懸けて俗物から守らなければならない存在だ。そう考えていたのがはるか昔のことのように思える。
「あなた……私、こわいの……」
小さな小さな呟き声。シャツからしおりの手を払いのけて「何が怖いんだ?」と聞いてみる。心配そうな声音に反してしおりの顔に一瞥もくれず、床に置いた鞄にガサゴソと手を突っ込んだ。
「私、前にも言ったでしょう? ストーカーされてるって。きっとさっきの二人がそうだったのよ。どうしましょう……私……」
「ならいいじゃないか。あの二人は病院でけがを治したあとは警察の世話になるだろう、一件落着だ」
「どうしてそんなに他人事みたいに言うの! 私、私っ、あなたがいない間ずっと不安で……!」
「不安な割にいつも上機嫌だったな」
そう言って目当てのものを見つけた浩はテーブルに書類をトン、と置く。
「離婚してくれ、しおり」
それは彼女にとって青天の霹靂だっただろう。目を見開いて、何を言われたのか何を出されたのか理解できていない様子だ。
浩が妻に違和感を覚えたのは八ヶ月ほど前のことだった。妙にうきうきしている。妙に笑顔がこぼれている。本人は隠しているつもりのようだが、散々言われていた不平不満を口にすることがなくなった。気のせいだと思いたかったが、浩が家にいない日が続くと明らかに機嫌が良くなる。
違和感を否定できなくなった浩は知り合いの探偵に依頼した。それが半年前のことだ。浮気の証拠はほんの数週間で上がった。主婦が行くべきではない店の恒常的な利用、ラブホテルへの出入り、知らない男の家に入ったり、逆に自宅に招いたり、それらの記録や写真を見た浩は何も考えられなくなった。心はドス黒い何かに塗り潰され、事実が事実として脳に焼き付き、思考が停止した。写真のしおりはどれも笑顔で、自ら望んで行為に及んでいることがうかがえる。何故、どうして、漠然とした言葉が口から出るばかりで、何がどう何故なのか、何に対するどういう疑問なのか、自分でも言語化できなかった。
「これだけで十分、離婚事由となりますが」
もう調査は切り上げましょうか、と言う探偵にすぐにうなずくことはできなかった。明確にわかりきっていることなのに認めたくない気持ちが勝り言い訳がましいことしか言えなくなった。「何かの間違いかもしれない」「きっと真っ当な理由があるに違いない」「こんな短期間で判断するべきではない」と言い続ける浩に探偵は憐憫のまなざしを向けた。
「では、もうしばらく調査いたしましょうか」
「お願いします。こんな……こんな、決定打に欠けるものではなく、きちんとしたものを……」
決定的としか言いようがない証拠に不当な評価を下して調査期間の延長を依頼した。当然その後も浮気の証拠は出てきて、それはうんざりするほどの量だった。
しおりはいわゆる相談女というやつらしく、悩みごとの相談という建前で近付いては男と肉体関係を結んでいた。一定期間で相手の男は変わっていったが、今回の彼氏だけはもう三ヶ月も続いている。黒川礼二。探偵の調べでは、顔もスタイルも学歴もよく、一流商社に勤めており交友関係も広いとのこと。優れている上に嫌味なところもなさそうで、もし普通に出会っていたら良い友人関係を築けていたろうなと思える人物だ。しおりだって本気で好きになってもおかしくない。
家に帰るたびに白々しく身を寄せるしおり。甘えた声でしなだれるしおり。心はすでに浩の元にはないだろうに。好いた女性の少しの変化にも気付けない愚鈍な男とでも思っているのだろうか。いまだに騙せると思っているらしいしおりはストーカーなどとその場しのぎの言葉で乗り切ろうとする。その演技に、浩はようやく自分の心をしおりから切り離すことができた。
「理由はわかるね?」
唖然としたままの彼女に告げるが、反応はない。仕方がないので証拠写真をざらざらと出してみると悲鳴が上がった。
「どうして! あなた、どうして! なんで! 違う!」
混乱する姿は、浩の知らないしおりだった。演技ではない本当の姿を見せてくれたことが、浩は少しだけ嬉しかった。
「どうも、お世話になりました」
狭い事務所内。壁にはいくつもの書類棚が並び、事務机の他には一応念のためと言わんばかりに応接セットがあるものの、そこは作業机として使われているらしく机にも椅子にもファイルやら書籍やらが積み上げられていた。窮屈なまでに物が詰められているのに不思議と散らかっているという印象はなく、むしろきちんと整頓されて清潔さすら感じられた。事務机のかろうじてある隙間に置かれた二つのティーカップから香るコーヒーの匂いが心地よかった。
座る席もなく立ったまま、依頼者である浩は世話になった探偵に簡潔に事の顛末を報告した。離婚を告げた当初は散々暴れて拒絶された。自分に有責配偶者としての自覚はあったのだろう。セックスレスが原因で浮気をしたと言われたが、たった二ヶ月のレスで浮気に走った方にも問題があるのではないか。彼女の浮気を知ってからはどうしても抱く気にはなれなかったと言うと「もっと早く相談してくれれば」「あなたの事情がわかっていたら浮気なんてしなかったのに」などと言われた。もう彼女自身、自分が何を言っているのかわかっていないようだった。
これは報告しなかった内容だが、見せた調査書類や写真を破ってから「これで証拠はなくなったでしょう」と言われたことには笑ってしまった。原本を渡すわけがないだろうに。「大丈夫、それはただのコピーだから」と言うと一層髪を振り乱して奇声を上げた。美術彫刻とは程遠いその姿を見たのはもしや自分だけかもしれないと優越感にも似た奇妙な感情を抱いた。キッチンに向かって包丁を手に戻って来た時は少しばかり焦ったが、これであなたを殺すだの私は死ぬだの言ったので安心した。彼女は人を殺す覚悟も自殺する度胸も持ち合わせてはいないのだから。これまで窮地に陥ったことのない者が突然人間の命に直接干渉することができるわけがない。特にしおりという人間は自分からも他人からも一歩引いた立ち位置から物事を見ていたのだ、命のやりとりをする当事者になれるはずもない。
結局、互いの親に事情を話すと言うとあっさりと観念した。きっと彼女の本性を一切合切知っているのは自分だけだ。親にすらその人間らしい汚い姿を見せたことがないに違いない。でなければその程度で引き下がると思えない。そう当たりをつけたところでもはや意味のないことだ。財産分与や慰謝料については弁護士を挟んで取り決めることとなり、今後は本人と直接会うこともなくなる予定だ。
それから、しおりには黙って礼二に会いに行った。しおりを清楚な女性だと思って結婚してしまっては彼が憐れだ。浩と同じく、演じられた架空の女性を好きになってしまっただけなのだから。意外にもしおりの肩を持つことなく浩の話を受け入れた礼二は、うなだれてから「もう女はこりごりだ」なんて呟いていた。
しおりを愛していた。見た目だけでなくその内面、彼女の演じた架空の女性を、心から愛していた。たおやかで、気配り上手で、品があり、はにかむ笑顔がかわいらしい。そんな女性は、存在しなかったのに。
空虚な気持ちを胸に抱え、浩は深々と腰を折って礼を言う。「これからもいつだって力になりますよ」なんて言葉が来るものだから「これからは世話になることが起こらないといいんですが」と返す。するとゴホンと大仰に咳払いしたあと、本来探偵がこういうことを言うのは好ましくないのですがと前置きして
「実は大学生の頃から好きでした、あなたと未来を共に歩ませてください」
愚鈍な男は気付かない 鏡 竟金 @kagamirr
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