2.しおり
「私、ストーカーされてるみたいなの」
これは
夫の
歩合制だか何だか知らないが、夫は夜となく昼となく働きづめだ。将来のことを考えてとか、子どもができたらうんと金がかかるとか馬鹿なことを言う。お金なんて義両親から頂戴すればいいじゃないかとしおりは思うのだが、親に迷惑はかけられないと本当に本当に愚かなことを言うのだ。なんのための親だと思っているのか。財布にするためではないか。おだて、甘え、金を引き出す、義両親は銀行と同一存在だ。
浩は多忙のため家に帰ってくることが少なくなり、夜の営みも途絶えた。奔放な青春時代を送ってきたしおりにとってそれは地獄以外の何物でもなかった。自分一人で慰める夜もあったがまるで満足できない。たまに帰ってきても疲労を理由に情事を断られ、そういった生活が二ヶ月も続いた。欲求ばかりがあふれ限界に達していたが発散する
「じゃあ浮気しちゃえばいいじゃない」
なんて、自分では到底思いつかない提案が出た。
男に不自由しなかった学生時代。飽きれば円満に別れて他の男とまた繋がるというのがしおりにとっての普通だったので、浮気や二股などの発想はそもそもなかった。
「今どき普通のことでしょう、バレなきゃいいのよ」
あっけらかんと言ってのける容子に背中を押された気分だった。
バレなきゃいい。確かに。なるほど。
納得したしおりは意気揚々とその場で出会い系サイトに登録した。行動が早いと容子には笑われたが、思い立ったが吉日という言葉に従っただけだ。
それからは夫のいない生活にも潤いが生まれた。この家が夫にとってただ眠るだけの場所になって久しいがそれに対する不満を口にすることも減った。亭主元気で留守がいいとはこのことか、帰って来ないなら帰って来ないでこちらも好きにさせてもらおう。仮に浮気を咎められたところで、
開き直ってしまうと気が楽なもので、出会いバーや相席ラウンジにも気軽に赴いた。場所が場所なので未婚を装ったが、嘘をつくことにも特に抵抗はなかった。本来の自分はこういう生き方をする人間なのだ。性に開放的で、快楽に身を任せ、自由に生きているとようやく、呼吸ができていると感じる。
これまでの彼氏とは一ヶ月と経たず別れていたが、今の彼氏、礼二とはもう三ヶ月も付き合いが続いている。心根が優しくまじめな子だとしおりは評価している。お気に入りのバーで出会い、いつもの文句で落とし、親身になって甘やかしてくれるところが実にいい。商社のエリートらしいがそれを鼻にかけない、人好きのする笑顔が魅力的だ。このまま今の夫から乗り換えるのもアリかもしれない。
本腰を入れて礼二を篭絡するため今日もまたストーカーに悩んでいると相談してみた。いつになく深刻な雰囲気を出してみるとあたたかく寄り添ってくれる。やはり彼はアタリだ。
「ふふっ」
自然と笑みもこぼれる。
ストーカーについてはまるきりの嘘というわけでもない。事実、彼女の美貌にあてられて付きまとう男はあとを絶たない。雪のように白い柔肌と黒檀のように黒い髪という形容は、童話の白雪姫ではなく自分にこそふさわしい。自分を見る者は誰も彼も息を呑み、この長いまつ毛に縁取られた切れ長のたれ目で一目見やるとみな骨抜きになる。一般的なものとは一線を画す美しさを持っていると自負していた。とっかえひっかえ男と付き合ってきた人生だったが、しおりに対する悪口は少なくとも彼女の耳には届かなかった。彼女は男女問わず好意的に見られた。それも生まれ持つ容貌による恩恵だった。無条件で好意を得られる反面、また無条件で好意を押し付けられることもあった。美しさは罪、こちらは迷惑をこうむるのだから少しくらい利用させてもらったって罰は当たるまい。
愉快な気持ちでいるとスマホが通知音を鳴らす。礼二からかと目をやると、夫からのメッセージだった。
『明日の夜、帰るから』
素っ気ない文章だった。まだ数日は帰らないと高をくくっていたため新たに購入したブランドバッグや化粧品、脱ぎ散らかした洋服の数々が部屋には散乱していた。家事代行を呼ぶことに抵抗などはないが、夫が帰ってくるその日に呼ぶのはどうにも気まずい。万が一明細を見られてしまったら『あなたがいない間は家事をする気などさっぱりございません』という態度がバレてしまう。せめてもう一日早く連絡をくれればいいものを。気の利かない夫に腹を立て、礼二には『明日だけは絶対に家に来ないでね。家の近くに来るのもダメ。お願いよ』とメッセージを送る。面倒ではあるがもうしばらくは浩の世話になるのだから良妻に扮さなければならない。翌日の片付けに嫌気を感じながらしおりは眠りについた。
一日かけて部屋を片付け終わり、ソファーに腰かける。外は暗く、そろそろ夫の帰ってくる時間だろうことが察された。腕を上げて背を伸ばす。
夫の好きなコーヒーはすでに準備した。忘れずに左手の薬指に結婚指輪をはめた。リビングのローテーブルに花も飾り、部屋には自然ないい香りが漂っている。あとは帰って来た夫を労い、不自然でない程度にスキンシップをする。場合によっては一緒に入浴して、そういう雰囲気になればそのように身を委ねる。最後まですることはないだろうけどとしおりはため息をつく。
媚びを売りすぎないように、でもいつも通りになりすぎないように。夫が帰って来てからのシミュレートをしていると家の前で車がとまる音がした。玄関まで行き、すぐに現れるはずの夫を待つがドアは一向に開かない。不思議に思っていると外で男の悲鳴が上がった。そのすぐあとに大声で罵り合うようなやりとり。
悪い予感がした。
そろり、しおりはドアを開ける。そこには暴れ狂う猛獣が二匹いた。ぎゃあぎゃあと吠える言葉の中に「しおりが」「しおりを」などの単語があるのを聞き取り、それらが野蛮な男たちであることをようやく理解した。うち一人は、来るなと伝えていたのに言うことを聞かずにやって来た礼二だ。穏やかな人に見えたのに、あんなに豹変して乱暴を働くなんて恐ろしい。あんなのはナシだ。浩から乗り換える前に彼の本性に気付けて良かったと胸をなでおろす。
もう一人は誰だったか、うっすらと覚えのある顔をしている。記憶を探り、その顔がいつだったかの名前も覚えていない彼氏だということを思い出す。これまでの彼氏とはみな後腐れない関係だったつもりだが手落ちがあったらしい。
いつ浩が帰ってくるともわからないこの時間に、礼二と元彼が鉢合わせてしまったのは全くの不幸であった。夫が帰ってくる前に騒ぎが収束してくれればと願っていたが、悪いことに一台のタクシーが家の前でとまった。想像通り降車する男は夫だ。
しおりは二人の男に視線を戻す。彼らは近所の男性たちに取り押さえられておとなしくなったように見えた。夫が騒ぎの詳細を知る前に、被害者を装うため一歩踏み出る。
「あなた!」
しおりが夫に駆け寄ろうとした直後、拘束を振りほどいた元彼が一直線に進み礼二の頭を強く殴りつけた。目の前の暴力に驚いたように彼女は顔を覆いしゃがみこむ。浩が心配して声をかけてくれるだろうと待っていたが、指の隙間から見える夫はしおりに目もくれず家へと
家のドアに手をかける夫にしがみついて予定通りの言葉を口にした。
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