愚鈍な男は気付かない

鏡 竟金

1.礼二

「私、ストーカーされてるみたいなの」

 ため息とともに吐き出された恋人の言葉に、黒川くろかわ礼二れいじは眉をひそめる。

 日曜夕方、二人はカフェの壁際二人席で一息ついていた。左右の二人席、後ろのボックス席には誰かしらが必ず座っており、広いとは言えない通路は常に客や店員が行き来している。そんなにぎわう店内でこんな話をしてもいいのだろうか。以前から彼女は誰かに付け回されていることを悩んでいたが、ならば当のストーカーだってこのカフェにいて聞き耳を立てていそうなものだ。軽率な発言に、しかしそれを責める気は起きない。うっかり口をついて出てしまうほど思い悩まされているのだろう。いつにも増して深刻な様子の彼女に説教をするほど礼二は無慈悲な男ではなかった。

「しおり、その話は場所を改めたほうがいいかもしれない」

 それだけ告げて、礼二の右手はくうをさまよった。頭や肩など傍目に見てわかりやすい箇所を撫でると、どこかで自分たちを盗み見ているストーカーの神経を刺激するかもしれない。かといって一切触れないでいることなどもできない。しばし考えた結果彼女を慰める行為は、テーブルに乗るその白い手をひっそり撫でるだけにとどまった。

「いえ、いいの、ごめんなさいね、私ったら何言ってるのかしら。気にしないでね、本当に。特に話すこともないし、何でもないのよ、ええ、本当に」

 早口でまくしたてる様子に、礼二は胸を痛めた。何でもないわけがない。触れた手の冷たさ、それに反する若干の汗、顔色は青白く、眉根に皺が寄っている。目は今にも泣きだしそうなほど潤んでおり、彼女がどれだけの不安を抱えているかがうかがえた。

 しおりと出会ったのは三ヶ月前のことだった。

 手酷い失恋をしたばかりの礼二はになっていた。気の毒に思ってくれた友人が紹介してくれたのがシングルスバー、主に出会いを目的とした店だ。気は進まなかったが、きっといい出会いがあるからとやや強引に勧められた。

 実際に行ってみると想像していたものとは違ってなかなかに居心地のいい場所だった。探偵という職業柄いろんな場所を知っているその友人は、傷心の礼二に適した気晴らしの場を見繕ってくれた。乗り気でなかったにもかかわらず気分が高揚した。

 バーカウンターで一人、物憂げにカクテルグラスを揺らす女性を見つけた。彼女の身を包む深い紫色のワンピースの腰部分には、包装リボンを思わせる黒いレースがあしらわれていた。陳腐な物言いになるが、間違って地上に降りてきた天女ではないかと思ってしまった。吸い寄せられるように歩を進め、声をかけた。癖のない長い黒髪の隙間から見え隠れするうなじは白く、ただ振り向くだけの所作がつややかだった。他愛無い会話のあと、遠慮がちに悩みを打ち明けられた。何者かに付きまとわれていると。

 しおりほどの美人なら勘違いした男がストーカーになってもおかしくない。そう納得した辺りで、自分が彼女に夢中になっていることに気付いた。彼女のラッピングを開く権利を得たいと、魅力的な人間に見えるよう懸命に装っていた。失恋をしたばかりだというのに。切り替えの早さに呆れる気持ちを抑えて、これは運命なんだと自分に言い聞かせた。か弱い彼女を不審者から救うために自分は神に遣わされた、そのための失恋だったのだ。

 それから何度か逢瀬を重ね晴れて恋人の座に収まることになったわけだが、いまだに彼女の悩みの種は正体を現さない。出会った当初は時々見知らぬ男の姿を目にして不安になる、思い違いかもしれないと言っていた。その程度ならたまたま行く先が一緒でとか、実は近所の住民でとか、そういうこともありうるだろうと何の対策もしていなかったのが仇となった。礼二の知らない間に付きまとい行為はエスカレートしていたらしい。昨日などは家の前の電柱に黒い影が何時間もあったと言う。繊細な彼女がストレスで倒れてしまうのも時間の問題だ。

「ごめんなさい、結局相談してしまって……」

「そんな、恋人なのに何を遠慮することがあるんだ」

「だからこそ、あまり頼りすぎてはだめだと思うのよ」

 駐車場にとめていた礼二の車の中で二人は話をすませた。話が終わってもしおりはうつむいたままだった。せめて車内でくらい気分が落ち込まないようにと陽気な曲を流して彼女を家に送るが、その程度では覆せないほどにストーカーのことが頭から離れないようだ。

 車から降りて助手席のドアを開くと細い足が地面に伸びる。その足に見とれているとしおりから触れるだけのキスをされた。

「あなたは最高の恋人だわ、礼二と出会えた私は世界一の幸せ者ね」

 健気にも空元気で作り笑いを浮かべる。気丈に振る舞う姿が痛ましい。家のドアを閉める背中を見送りながら礼二は決意を固めた。彼女の不安の根源を絶たねばならない。

 帰宅した礼二は、後手に回ってしまったことを取り戻すようにすぐさまスマホからインターネットを開いた。思いつく限りの検索ワードを入力しては調べた結果をメモ帳アプリに記載する。

「防犯ブザー……催涙スプレー……録音機器もあった方がいいのか。他に有用なものは……」

 翌日に購入するものをリストアップしているとしおりからメッセージが届く。

『明日だけは絶対に家に来ないでね。家の近くに来るのもダメ。お願いよ』

 礼二は首をかしげた。このように言われるのは初めてのことだった。どうして、と返事を送るが既読マークは付かない。不思議に思いながらもその日はおとなしく眠ることにした。


 翌日、早々に仕事を切り上げた礼二はいくつかの店を巡り防犯グッズを購入した。いつでも使えるようにと購入品のパッケージを外し、動作確認をする。それから何気なくメッセンジャーアプリを開いて、不審なことに気付いた。昨晩送ったメッセージに既読マークが付いていない。しおりは気配りのできるまめな性格で、丸一日そのアプリを開かないとは考えられなかった。今思えば家に来るなというメッセージもおかしなもので、もしかするとこれはストーカーに脅されて送ったものではないかと思い至った。絶対に、お願い、と念押ししていたのは実はその文章とは真逆の意味で、本当は助けてほしいという気持ちのあらわれなのではないか。その考えに行きつくと、それ以外の正解はないように思えた。

 慌ててタクシーを拾い行き先を告げる。「いいところにお住まいですねぇ」という運転手の軽口に返事をする余裕もなく、心はしおりの無事を祈っていた。次第に外の景観が変わっていく。富裕層の邸宅の並ぶ住宅街に入ったようだ。

「運転手さん、この辺りでいいです。降ろしてください」

「番地までおっしゃってくだされば送りますよ、最近物騒ですからね」

 そう言うと運転手はメーターを切る。善意を断るのも忍びなかった礼二は先に料金だけ渡して、番地は覚えていないので「次の角を右に」「左に」と都度伝える。

「ここです」

「いやぁ、ハハ、ねぇ、もしやとは思ったが……」

 運転手の不明瞭な発言を聞き流しながら礼二は降車する。しおりの家の前。窓からはカーテン越しに明かりが漏れていた。

「お前な、お前だったんだな、お前が」

 運転手は語気を荒くする。怒りを抑えきれないといった様子の震える声に礼二が振り向くと、同時に風を切る音が左耳をかすめる。大きな叫び声が聞こえたが、それは自分の口から発されたものだと一瞬遅れて気付く。耳をかすめたのは運転手の振り下ろしたハンマーで、それが左肩に落ちたらしい。アドレナリンが大量に分泌されているようで痛みは感じないが力が入らない。

「しおりはずっと前からストーカーに苦しめられていたんだ! お前が苦しめたんだ! お前のせいでしおりは!」

 激昂しているこの男こそがストーカーだったのかと礼二は瞬時に理解した。男はもう一度ハンマーを振り上げる。礼二はとっさに買い物袋から防犯ブザーを取り出した。口と右手を使って強く紐を引っ張ってから遠くに投げると、ストーカー男は慌ててブザーを壊しに行く。急に鳴り始めた大音量に混乱した彼がブザーに気を取られている間に催涙スプレーを手に取る。男が振り返った瞬間にスプレーをかけると両手で顔を覆いうずくまった。その隙にハンマーを奪いこれでの反撃を試みたが、片手で持つには重すぎたので断念して後方へ投げ捨てる。男に馬乗りになり右の拳で力の限り殴りつける。何度目かで拳を受け止められ男が殴り返してきた。目を開けない男は四方八方に拳を振るい、それが何度か礼二の負傷した左肩を殴打した。

 力の入らない左腕でなんとか男を制しながら再び振りかぶった右腕は何者かに掴まれた。それとほぼ同時に男から体を引き離される。やたらめったら両腕を振り回す男も別の誰かに取り押さえられていた。

 気付くと二人の周りには人だかりができていた。この辺りの住人だろう、何人かの男性が礼二とストーカー男を羽交い絞めしていた。家から出てきたらしい人間がこちらを注視している。その中にはしおりの顔もあり、それは恐怖に歪んでいた。礼二を思いやって彼女が「あなた!」とこちらに声をかける。あぁ、愛する女性を助けられた。彼女の名を呼ぼうとしたとき、後頭部に強い衝撃を感じた。それが制止を振り払ったストーカー男の一撃だったとわかるはずもない。礼二は静かに意識を手放した。

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