第2話 雨響 結

「よい~……しょっと!」


そんな掛け声と共に、一途は少女をソファへと下ろす。

いくら少女とはいえ運動とは無縁な学生生活を送って来た一途にとって、人一人背負って長道を歩くのはかなりの重労働だ。成人にもなってこの有様とは情けない。

結局アパートに辿り着いた頃には午後10時30分を回っていた。


疲労感からどかっと木椅子に勢いよく腰掛けると、一途はもう一度少女を眺めた。

身長は155cm前後。全体的にほっそりとした体格で、その肌は病的なまでに白かった。フードのせいでよくは見えないが、顔色も相当悪い。これは休ませておいた方が賢明だろう。

だが濡れたまま放置というのも人としてどうなんだと思うので、とりあえずバスタオルで軽く拭っておこう。

一途は暖房を点けると、自室へと足を運んだ。


「ん~~……客人用のバスタオルなんて買ってたか………?」


手当たり次第にタンスを漁って回る。

掴んでは投げ掴んでは投げの繰り返しで、時雨の自室は荒れに荒れたが、そんな事はお構いなしに漁る漁る。

だが見つかったのは時雨のタオルのみ。これは困った。


「大の大人が使った、しかも男性物のバスタオルで少女を拭いていいものか………」


不意に脳内でとあるビジョンが再生された。






『マァ、大丈夫ダヨネ。 フキフキ』


『(パチッ) キャーーー!オトコガツカッタバスタオルデ拭カレテルーー!』


『チッ、違ッ--』


『百敷サン……マサカアナタガソンナ人ダッタナンテ………』


『オ、大家サン!?コレハタダノ事故--』


『問答無用!出テ行ッテクダサイ!アト、警察ニモ通報シマシタカラ!』


『アンマリダーーーーー!!』






--こんな事にはなりたくないな。


最悪の結末を振り払うように、ブンブンと頭を横に振る。あんな事態になったら、一途は一巻の終わりだ。だが拭く物と言ったら俺のタオルしか………


「……いや待てよ?」


そういえば定期的に従妹……忘時わすれじ 繰異くるいが遊びに来るのだが、繰異はいつも無断で浴室を借りて行く。そして自分のバスタオルをここにストックしていたような………

朧気な記憶を探るようにして、一途は浴室へと向かった。


すると——


「よし!」


思わず小さな握り拳を作る。

浴室手前の脱衣所に、水色のバスタオルがちゃっかり掛けてあったのだ。

普段から見掛けているせいで私物だと思っていたのかもしれない。

一途は繰異のバスタオルを手に取ると、少女の元へ向かった。






「さて、どうしたものか……」


本日二回目の難題。そう『服』だ。

バスタオルは手に入れた。が、しかし。

いざ実行しようとなると、まず上着を脱がせなければならないのだが………


——もし服が透けていたらどうする?


女性は誰しも下着を見られる事を嫌がるハズ。その懸念がある上で


「よし、上着を脱がせよう!」


とはならないだろう。


もし上着の下が薄手の服だったら?もし上着の下が露出度の高い服だったら?もし——。


懸念などいくらでも出てくる。それが、人とあまり接した事のない陰の者であるならば尚更だ。思い付いた想像全てが懸念となる。


世の人間は時雨のことをこう言うだろう。


『意気地なし』


と。


しかしこう言われたら、一途は迷いなくこう叫ぶのだ。


「俺は【自主規制】なんだよッ!!」


と。


故に踏み込めない。危ない橋を危ないと分かって渡る猛者など、ほんの一握り。

そしてその一握りというのが、あらゆるカーストの上位層………


俗に言う『陽キャ』という存在である。


しかしカースト最下層の人間である時雨にだって、意地がないワケではない。実際、一途はやれば出来る人間なのだ。


……多分。


なけなしの勇気を振り絞り、遂に少女のフードに手を掛ける。

そしてそっとフードを脱がせると………


——一途は微かに息を呑んだ。


若干あどけなさを感じるが整った顔立ち。陶細工のような肌の白さ。そして何より目立つのは、北欧の血が混じった、薄いベージュ色の長髪。


つまり………

—— 一途と同じ髪色。


「どういう事だ……」


まさかの事態に、一途は驚きを隠せずいた。だが彼女の頬に伝う雨水を見て、ハッと我に返った。


「いけないいけない………」


気を取り直して、バスタオルで彼女に付着した水を拭き取り始めた。


起こさぬように、そっと。


改めて見ると本当に整った顔をしている。睫毛は驚く程に長く、凛とした鼻筋に、きゅっと結ばれた唇。まるで人形のようだ。


……いかんいかん、早い所彼女の身体を拭わなければ。


次に彼女の手を拭おうとしたその時、ふと彼女の手にミルクティーのペットボトルが握られている事に気が付いた。


「そんなに大事なのか?」


子供っぽい一面が見れたせいか、一途も気付かぬ内に苦笑を浮かべていた。

その後は身体を拭く作業も順調に終わり、ひとまずは何事もなく終わった。


「——とりあえずはこんな感じかな?」


ふぅ、と軽く息を吐き腰に手を当てる。一途の頑張りもあって、少女の顔色も少しだけ血色を取り戻していた。


だが………


「流石に濡れた衣服をそのままって言うのもなぁ……」


濡れた衣服をそのまま着ていると風邪をひいてしまう。ならばせめて上着だけでも………

一連の作業をこなしたお陰か、異性に対しての耐性が出来たようだ。今は動悸が早まるという事もない。

触れる場所に注意しつつ、パーカーを脱がせる。


——しかし。



「ッ!!?」


パーカーを脱がせ終わった途端、一途は顔を真っ赤にして勢いよく背けた。

パーカーの下はまさかのYシャツ。


つまり、バッチリ透けていたのだ。


顔を背けたまま硬直する事数秒。一途は俯きながらも自室から布団を持ち出し、極力彼女を見ないようにしながら布団を掛けた。


「………っぶね」


——異性への耐性が付くには、もうしばらくかかりそうだ。






「う、うぅん………」


カーテンから差す朝の日差しが、少女に起床を促す。

ゆっくりと目を開け天井を見やると、真っ先に古びた………


——ではなく、美しい木梁が視界に映った。


「えっ」


寝ぼけ眼のまま飛び起きると、そこは物置のような質素な部屋ではなく、小洒落た家具が埋め尽くす空間だった。

戸惑いを隠せずに辺りを見渡していると、不意に言葉を投げ掛けられた。


「あぁ、起きたんだね」


キッチンから、ひょいと一人の男性が顔を見せた。


「あなたは………」


掠れた喉から絞り出せたのは、そんなしょうもない言葉だった。


「うん。君が昨日会った人だよ」


「…………」


それ以上は何も言葉が出ない。

昨日会ったばかりの男性の家で寝ていた……


私は誘拐されたのだろうか?


カップ片手に歩み寄る男性を恐怖の眼差しで見つめると、彼は「まぁ、そうなるよな」と小さく苦笑を浮かべた。


「はい、これ」


男性は少女の向かい側にあるソファに腰掛けると、テーブルに一つのカップを置いた。

中を覗き込むと、中は濃い茶色の液体が入っていた。微かに甘い香りが漂っている。


「君の為に淹れてみたんだ。 昨日は雨の中にずっといたでしょ?本当は昨晩の内に飲ませてあげるべきだったんだろうけど、寝ちゃってたから」


「私の……ため………」


とりあえずといった感じに、そっとカップを持ち上げる。白いカップの中に入っていた茶色い『それ』は、とても温かかった。

だが………。


「………」


いくらいい人だったとはいえ、ろくに関わったことのない人に用意してもらったものなど、おいそれと口に運ぶことはできない。

それが、例え彼以外の誰が用意したものだとしても。


「……飲まないか」


しかし、目の前の彼がボソリと呟いたのを聞いた途端、少女の肩が大きく跳ねた。


「だ、大丈夫?」


「いっ、いえ!」


少女は首を大きく横に振って否定するが、それとは裏腹に、カップはテーブルの上に置かれていた。


「いや、俺も強引過ぎた。ごめん」


「そんな!顔を上げてください!ちゃんと飲みますから!」


「……嫌じゃないのかい?」


「はい!これっぽっちも!」


彼の少し悲しげな顔に胸を痛めた……

というよりは、彼が何か強引な手に出るのではないかという恐怖を連想した少女は、その言葉の勢いのままに茶色い液体を飲み込んだ。


すると——。


「~~~~!」


一口飲み込んだ途端、少女は見開いた瞳に光を宿し、そのままカップの中身を飲み干した。


「おいしい!」


カップをテーブルの上に置いた直後の第一声は、年相応の可愛らしい言葉だった。


「本当かい?よかった……」


満足気な少女の姿に安堵したらしい彼は、ほっと安堵したような笑みを浮かべた。


不思議な味だった。

甘くて温かく、同時に心をホッとさせるような、優しい味だった。未だに温かい甘美な香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる


——ふと、未知なる美味の余韻に浸る少女に対して、彼は問い掛けた。


「そうだ。 君、名前は?」


問い掛けの後に「俺は百敷 一途だ」と自己紹介する。答えないという選択はありえない。


「私は、雨響うきょう ゆいと言います。 雨が響いて結ぶと書きます」


「結ちゃん、ね。俺のは百を敷いて一途いちずって書くんだ」


「素敵なお名前ですね」


「ははっ、結ちゃんもね」


お互いの名前を聞いたことで少しだけ、その場の空気が和むのを感じる。

そして結は、今の今までぎゅっと握りしめていたのが布団だと気付き、一つ疑問に思ったことがあった。


「あっ、そういえば私の持ち物って………?」


その言葉を聞いた途端、彼が硬直した。


「えっと~………」


——明らかに言葉を選んでいる。

優しい雰囲気に騙されてしまっただけで、本当は誘拐犯なのでは?

知らず知らずの内に布団を握る力が強くなる。


そして——。


「そのっ」


「はいっ!!?」


彼の声に驚いて完全に声が裏返った。彼は急な大声に目を丸くしていたが、「まだ何も言ってないよ」と苦笑するだけだった。


「君の持ち物なら、そこのベランダに干してあるよ」


「………へ?」


予想外の答えに、間の抜けた声が漏れた。てっきり


「誘拐の証拠を消す為に処分させてもらったぜ、ぐへへへ」


と言い出すと思っていただけに、純粋な驚きが込み上げて来た。


「へ?って何、へ?って。」


「い、いえ、なんでもない……です………」


「そ、そうか」


さっきまで和んでいた空気が少しギクシャクしてしまったが、彼はそんなことお構いなしにベランダへ向かった。


「はい、どうぞ」


彼はベランダから肩掛け鞄と白いパーカーを運んで来た。


「よかったぁ〜〜………」


失くしていなかった事に安堵すると、彼女は彼から私物を受け取った。


……やはりこれがないと落ち着かない。


たった一日しか離れていないのに、まるで何年も会えなかった家族に、やっとのことで再会できたかのような安堵感が込み上げ、その年季の入った鞄にゆっくりと顔を埋めた。

そんな結の姿に苦笑を浮かべつつ、彼は結に言った。


「ちょっと、郵便物が届いてないか見て来るね」


「は、はい」


「すぐに戻って来るから」


彼は微かな笑みを浮かべて言うと、ドアを押し開け出て行った。


「…………」


一途の家にポツンと残された結に、突然、どっと孤独感が押し寄せた。

羽織っている布団の裾をきゅっと握り締め、ソファの上に膝を抱えて座る。

百敷 一途………彼が悪い男性ではないと言うことは、昨日助けられた事からも分かる。

下手に踏み込まず、かと言っていい加減に突っ掛かる事もしない。

彼は人付き合いが上手い。というより、周りに合わせるのが上手い。

しかし、それは同時に人見知りでもあるということ。

彼は安心して接せる人間を装っていたつもりなのだろうが………


受け答えが若干簡素であり、指も忙しなく動いていた。

動悸が早まっていたせいか、少しだけ呼吸音が大きく、肩の上下が少々大きかった。


それに………


彼が話す時、僅かに瞳が揺れていた。


育った環境の影響か、結は人を観察して分析する事が特技になっていた。

だが同時に、嘘つきを見破れるようになったのだ。

そのせいで、味方だと思っていた人間が嘘を付いていると分かるようになってしまった。


故に、周りの人間をあまり信じれなくなってしまったのだ。



『こんな特技、欲しくなかった』



結は常々そう思うようになっていた。

周りが嘘つきだと分からなくなれば、私にも居場所が出来たはずだったから。

結は開きかけていた心を、もう一度閉ざそうとした………。


——その時だった。



「「うわぁぁあッ——。 おっ!?!?」」



外からそんな素っ頓狂な叫びが二つ聞こえて来た。

何やら騒がしい。一体どうしたのだろう?

少しだけ顔を上げ、玄関を見詰める。


その途端。


「ちわーっす!!」


勢いよくドアが開いたかと思うと、つい昨日に結のことをナンパしてきた男が押し入って来たのだ。


「うっ!?」


「あ! 零終ちゃん見~っけ!」


ぞわぞわっと鳥肌が立つのを、身を持って感じる。


なんであの男がここを!?


これまで抱いたことのないようなとてつもない恐怖心を覚え、布団を頭から被る。


しかし次の瞬間………


「おい、あんまり騒ぐなよ? 変な事したらすぐにお前を追い出すからな」


「わーってますってぇ! おにーさんっ!」


「き、気安く触るなッ!!」


あれ?と布団から僅かに顔を出すと、例の男と一途が会話をしている所だった。


——ただし、一途が一方的に絡まれているだけのようだったが………


「ゆっ………。 零終、悪いな。コイツを家に入れちまって」


「——ううん、」


話し方がさっきとはまるで別人………。

あぁ、そうか。この男にとって、私と一途は『兄妹』という扱いになっているんだった。


ならば、この演技に付き合わねばなるまい。


「大丈夫だよ、お兄ちゃん」


「あぁ、すまんな。 それと悪いけど、洗濯物を中に入れといてくれないか?」


「わ、わかったよ」


私が演技のド素人であることを見越して完璧に対応してる。よほど芝居が得意なのだろう。


結は一途にもう一度興味を持つと同時に、彼に対して閉じかけていた心を再度開き直した。



そんなわけで——。



「んじゃ零終ちゃん、お邪魔するね!」


「……うん。家にようこそ。」


「おいおい、それを言うなら家だろ? まぁ、ここアパートだけどな」





結と一途による、即興芝居が始まったのだった。

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「 」 鈴哭 時雨 @suzunaki

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