ぼくのはなし(4)

 家に帰るとどっと疲れが押し寄せた。一呼吸吐いたら自分からものすごい血の臭いがするのが気になってきたので、ぼくはシャワーを浴びた。シャワーから出るとお腹が空いてきたので、冷蔵庫を漁る。冷凍食品のから揚げを温めている間、ソーダ味のアイスを食べた。冷たくて美味しかった。から揚げは冷凍食品だけど肉汁がたっぷりで、ぼくは眼窩に指を突っ込んだ感触を思い出したりしながら、フォークで突き刺したそれを頬張った。

 から揚げを平らげてリビングのソファの上っで四肢を投げ出してだらけていると、父さんが帰ってくる。タオルを腰に巻いたままのぼくを見た父さんは眉をひそめながら「服くらい着たらどうだ」と言った。ぼくははいでもいいえでもない、曖昧な返事をしたと思う。父さんはぼくを咎めるように溜息を吐いて、着替えるためにリビングを出ていった。

 ぼくは血まみれの制服を洗面所に置きっぱなしにしていたことに思い出して腰を上げた。遅かった。父さんの唸るような、生まれて初めて聞く狼狽の声がして、すぐに廊下にパンツとランニング姿の父さんが現れた。手にはぐしゃぐしゃになったぼくの制服のズボンを握っていて、握っているその手は震えていた。

「これは何なんだ……。お前は何をしたんだ……」

「それは制服だよ」

 ぼくは答えながら、もう一つの質問の答えについて考えた。ぼくは何をしたんだろう。結果から言えば人殺しとか復讐とか、そういいうことになるんだろうけれど、それは本質とは少し違うような気がしていて、考えれば考えるほど、解こうとするほど絡まってしまうコードみたいに頭のなかがこんがらがっていって、結局なに一つとして分からないような気分になってしまった。ぼくは一体、何をしてしまったんだろう。

 父さんの震える手から制服が落ちる。見開かれた父さんの目に映っているのは絶望と嫌悪で、その眼差しはぼくのなかで、分からないなりにどうやらよくないことをしてしまったのだという気持ちを膨らませた。だけど同時に、ぼくは興奮もしていた。父さんがぼくを見ている。雅哉でもなく、母さんでもなく、ぼくのことを見ている。

「ごめんなさい」ぼくは制服を拾い上げる。「脱いだ洋服はちゃんと畳みます。床も拭きます。だから、ごめんなさい」

 父さんの膝から力が抜けて、滑るようにその場に座り込む。

「最悪だ。お前は最悪だよ」

「最悪……」

「ああ、そうだ。どれだけ俺たちに迷惑を掛ければ気が済むんだ。せっかくここまで育ててやったのに、一体お前は何なんだ……」

 次の瞬間、ぼくは父さんの頭を掴んでいた。完全に想定外の行動に出たぼくに父さんがどんな抵抗をするより先に、ぼくの中指は父さんの頭を弾いた。

 父さんの絶叫が廊下に響き、目の上あたりに開いた穴からは脳みそがこぼれた。ぼくは腰に巻いていたバスタオルを父さんの口に突っ込んで、こぼれ出る脳みそを見ながら、昔雅哉の誕生日に母さんと雅哉と三人でつくったショートケーキの上に乗せたホイップクリームのことを思い出したりした。

 ぼくは床で悶える父さんの顔に次々と穴を開けていく。円を描くようにぐるりと一周するころには父さんもとっくに動かなくなっていて、元がどんな顔だったのか思い出すのが難しいくらいに、父さんの顔は穴だらけでぐしゃぐしゃになっていた。

「父さん、ぼくはぼくだよ」

 答える声はなかった。


 さすがに息が上がって、ぼくが父さんの隣りでぐったりと休んでいると玄関のほうで物音がした。母さんの悲鳴が聞こえて、買い物袋がどさりと落ちた。中からはジャガイモとかみかんとかがこぼれ出て、父さんから漏れ出す真っ赤な血のなかを転がった。

 ぼくは今すぐ眠ってしまいたいくらいに疲れていたけれど、スマホを取り出してどこかに電話を掛けようとしている母さんの腰を目がけて飛び掛かって押し倒す。母さんは必死に抵抗して、爪でぼくの頬を引っ掻いたけれど、父さんに比べれば力の弱い母さんを組み伏すのはそれほど難しくなかった。他のみんなにしたように、最初に喉に穴を開ける。それからぼくを引っ掻いた手が疎ましく思えたので手のひらに中指を突き立てた。母さんも父さんと同じようにぼくを見てくれることを期待したけれど、やりすぎてしまったのか上の空で雅哉の名前を繰り返し呼んでいて、そのことが無性に腹立たしくなって、ぼくは母さんの顔にこれでもかと穴を開けてやった。気がつくと母さんの顔は食べかけのパイシチューみたいになっていて、真っ赤なスープのなかにピンク色の脳みその残骸とか砕けた骨とかが浮いていた。

 さすがに疲れすぎたぼくは、いい加減にそのまま眠ってしまおうかとも思ったけれど、ふと思い立って父さんと母さんだったものをリビングまで運び、引き摺りながら食卓のいつもの席に座らせた。生きていたときの二人がどれくらい重かったのか知らないけれど、ただのたんぱく質の塊になった二人は尋常じゃないくらいに重くて、ぼくは息を切らして何度も休憩しながら油断するとすぐ滑り落ちてしまう二人の運搬をやり遂げた。

 ぼくは満足げに食卓に座った。あと一人。とにかくそう思った。

 ぼくは興奮のなか雅哉の帰りを待つ。塾が終わるのが二〇時だから、帰宅はいつも二一時前になる。ぼくは塾に通わせてもらえる雅哉が羨ましかった。いや、塾に通うことが羨ましかったのではないのだろう。そうやって、どんな理由でも父さんと母さんが気にかけてくれているという証に憧れたのだ。でも全ては過去の話になった。規則正しく進んでいく時計の針に合わせて頷きながら、ぼくは静かにそのときだけを待った。

 二一時を回ろうかというころ。そのときは訪れた。

 玄関の扉が開いて、家のなかの空気がにわかに流れ出す。「ただいま」と疲れの滲む声がした。次の瞬間、リビングと廊下を隔てる扉の向こう側で、滑って転げる大きな音がした。

 ぼくは立ち上がり、雅哉を出迎える。真っ赤に染まった廊下の端で、血に滑って転んだらしい雅哉が身体の右半分を真っ赤にしてぼくを見ていた。

「おかえり」

「……なにやってんの」

 雅哉はぼくを見るや、ようやく捻り出したと言わんばかりの掠れた声でそう言った。全裸のぼくは血まみれで、少し固まりかけて赤黒くなった返り血は指の腹でこするとふりかけみたいにぱらぱらと崩れて床に散らばった。

「さあ。何だろう。ぼくも分からない」

 一歩踏み出すと、雅哉が威嚇するように大声を出した。滑りながら立ち上がり、鞄を盾にするように抱えて両腕を突き出す。

「父さんと母さんのこと、殺したんだな」

 おびただしい血の量とぼくの様子から推測したのだろう。雅哉はやっぱり賢い。こんな状況に陥っても、周りがよく見えている。父さんと母さんが目を掛けるのも頷けた。

 無言を肯定だと解釈したのか、雅哉はぐっと顔に力を込め、それでも堪え切れなかった感情が涙になって頬を流れる。ぼくは、その大きくて強い雅哉の感情にほんの一瞬たじろいでしまう。雅哉はそれを好機と見たのか、雄叫びを上げながら鞄を振り回した。

 避けようとしたぼくはバランスを崩し、血溜まりに足を取られて尻もちを突く。雅哉も鞄を振り回した遠心力と不安定な足場のせいでよろめき、前のめりに膝から倒れる。

 ぼくらは血溜まりのなかで取っ組み合った。押し倒せばひっくり返され、ひっくり返せば押し倒された。

「兄さんのくせに生意気なんだよ」

「ぼくは、ぼくを、うあああっ」

 雅哉の拳がぼくの顔面を打った。ぼくは血まみれの床を滑り、顔の中心の燃えるような痛みに顔を歪める。滴る鼻血は床を濡らす赤に混ざっていく。

「だいたいさ、全部お前のせいなんだよ。兄さんがバカでクズだから、弟の俺が尻ぬぐいをしなきゃなんない。おまけに何やってくれてんだよ。生きてるだけで大迷惑なんだよ。お前のせいで全部めちゃくちゃだ」

 雅哉が走り込んでくる。まるでサッカーのペナルティキックみたいに、助走をつけられた勢いに乗って脚が振り上げられる。雅哉の蹴りはぼくの胸と首の間に命中――ぼくは衝撃に息ができなくなって、倒れた拍子に床に後頭部を打ちつけた。

 見える世界が引き延ばされるように歪む。あるいは世界が一層鮮明に、その彩度を増していく。

 ぼくは四つん這いになって呼吸を整え、立ち上がる。だけど強烈な眩暈に当てられたぼくはすぐに立ち上がることができなくて、身体を折ってついさっき食べたばかりのから揚げを吐いた。

 雅哉はぼくがもたついている間に、鞄のなかからスマホを取り出して電話をかけていた。スマホを取り上げなくちゃとぼくは思ったけれど、続く眩暈と吐き気、それから疲労感とか倦怠感とか、身体と五感に生じるあらゆるものがぼくの行動を妨げていた。

 それでもぼくは立ち上がり、雅哉に立ち向かう。通報を終えた雅哉はぼくの動きに気づき、息を吐く間もなく眉を寄せた。

 雅哉はぼくを見ていた。ストレス発散の玩具ではなく、出来損ないの欠陥品でもなく、理解を超えた不気味な存在としてのぼくがその目に映っていた。

 痛かった。苦しかった。だけどぼくは笑っていた。綻んだ口元からよだれを垂れ流し、ぼくは笑った。

「近寄るんじゃねえ!」

 雅哉が声を荒げる。けれど雅哉は冷静で、通報したのだから逃げようと思ったのだろう。鞄を振り回してぼくを牽制すると隙を見て玄関へと走る。だけどそれはぼくからすれば戦意喪失の敵前逃亡でしかなくて、まともに戦えば勝てなかったであろう雅哉との間に生まれた千載一遇のチャンスになった。

 ぼくは雅哉のうなじに中指を突き立てる。音が響いて穴が開き、雅哉の吐き出した血が玄関扉の曇りガラスを赤く染めた。開きかけた扉はゆっくりと閉まり、膝から崩れ落ちていく雅哉を見下ろしながら、ぼくは扉にチェーンを掛けた。

「これで完成」

 唖然とする雅哉の胸座を掴み、抵抗する暇を与えずに左中指を右目に突っ込んだ。雅哉は悲鳴を上げたけれど、押し込んだ中指の先で〈力〉を弾くと、あっけなく静かになった。

 それからぼくは、動かなくなった雅哉の左目も同じように抉り、重たい身体をリビングへと運んだ。完全に力の抜けた身体を椅子に座らせるのは一苦労で、力仕事なのはもちろん、すごく繊細なバランス感が必要だった。

 父さんと母さんと、それから雅哉――三人が行儀よく座る食卓をぼくは見渡し、最後の一席にゆっくりと腰を下ろす。

 本当に疲れた。ぼくはぐったりしながら、ずきずきと痛む後頭部をさする。どうやら打ちつけた拍子にぱっくりと割れたらしく、ぬらぬらと生温かい血がこぼれ出ていて、ぼくの背中を伝って流れていた。

 混ざり合っていく。テーブルの下でぼくら家族の血が一つになっていく。どこにいても異物で、誰よりも存在が軽くて、意味も価値も薄かったぼくは、もうどこにもいなかった。

 どこからか聞こえてきて、だんだんと近づいてくるサイレンの音さえ、ぼくのなかで心地よく反響していた。


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ぼくのはなし やらずの @amaneasohgi

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