ぼくのはなし(3)
肩を強く押し込まれ、ぼくは派手に尻もちを突く。すぐに胸が踏みつけられ、ぼくは叩きつけられるように地面に磔になる。圧し掛かる足がぐりぐりと捻じ込まれ、ぼくの肺に残る空気を容赦なく絞り出す。ぼくの口からは空気と一緒に苦鳴が漏れた。
「なあ水野。てめえ余計なこと言ってねえだろうな?」
ぼくを踏みつけにしたまま、雛口が凄む。
流血の一件について、雛口は両親にこっぴどく叱られたらしかった。そこでどういうやり取りがあったのか、ぼくには知る由もないことだったけれど、雛口はどうやらぼくが先生や親にいじめのことを訴えたと思っているらしく、放課後に体育倉庫の裏まで連れて来られたというわけだった。ちなみにこの体育倉庫裏というのがいじめにはうってつけで、授業のない放課後は誰も寄り付かないし、校舎から離れているし、視界を遮るように木が植えられている。校舎側から体育倉庫を目視するのはほぼ不可能――つまり体育倉庫裏は絶対にバレることのない格好の処刑場へと早変わりする。
「言って、ないっ。言ってないよ」
「じゃあなんで連絡返さねえんだよ。水野のくせにシカトこいてんじゃねえぞ!」
「だから、スマホ、壊れてたんだって」
ぼくは必死に訴える。だけどそもそも話が通じる相手なら、ぼくをいじめたりはしない。雛口はぼくの髪を掴んで引き摺り回す。
「おい、雛口。顔は目立つからやめとけよ」
抜かりなく見張り役を任されている正田が雛口に声を掛ける。雛口は分かってると正田を怒鳴りつけ、それからぼくの腹に蹴りを一発食らわせた。
「うっわ。こいつ吐きやがった。きったねえ」
喉と口のなかに胃酸の甘酸っぱさが広がってぼくは咽る。呼吸を整えようと顔を上げれば、後頭部を上から押さえつけられた。
「汚ねえから掃除しろ」
ゲロと砂と土が混ざって、ぼくの鼻や口のなかへ入り込む。うまく息ができなかった。ぼくは何度も吐いて、涙が溢れて、ずっともがいていた手足は痺れてとうとう力が入らなくなった。
「さすがにやりすぎじゃねえの。水野死んでねえ?」
「ばーか。人間がこんな簡単に死ぬかよ。ほら」
うつ伏せになっていたぼくは雛口のつま先で転がされて空を仰ぐ。黒々とした雲に覆われた空はその重さで今にも裂けてしまいそうで、ぼくはその裂け目から真っ赤な腸がこぼれ出してくるようなところをぼんやりと夢想した。
だけどそんな世界の終わりみたいな光景が訪れることはなくて、その代わりにいつまでも続く地獄が人のかたちになって、ぼくの目の前に立ちはだかる。
「水野。お前はさ、黙って俺らの玩具になってりゃいいんだよ。なあ、分かるだろ?」
分かってたまるか。
言わなかったけれど顔には出ていたのだろう。雛口が眉をひそめた。
「なんだよ、その顔。お前も俺に反抗するつもりか?」
雛口の表情が歪む。振り上げたこぶしが鋭く振り下ろされ、ぼくの鼻梁を強かに穿った。
「おい雛口、顔はまずいって」
正田が慌てて止めに入ろうとする。けれど本能的に抗おうとしたぼくが雛口の顔へと手を伸ばすほうが圧倒的に早かった。
強烈な破裂音が過ぎ去って、時間が数瞬だけ凍りつく。
それは世界がほんの少しだけ、だけど決定的に壊れた音だった。
誰のものなのか、獣のような荒い息が静まり返った体育倉庫裏に響いていた。
「あ……うあ……」
聞いたことのないくらい情けない声とひゅうひゅうと漏れる空気の音が聞こえた。ぼくの顔にはぼたぼたと生温かい液体がかかった。
恐る恐る目を開ければ、さっきまで興奮気味にぼくを殴っていた雛口が唇をがたがたと震わせながら触れるぼくの指ごと自分の手で首を押さえている。
ぼくの顔を濡らしていたのは雛口の首から溢れる血で、その妙に現実感のない状況――臭いとか温度とか雛口の表情とか、そういうものが一体何が起きたのかをぼくに理解させてくれた。
全部拒めばいい。誰の期待に応えるような生き方ができなくて、選んだ死にすら拒まれて、それなら今度はぼくのほうから世界を拒むしかないんだから。
ぼくは念じる。ほとんど同時、さっきも響いた破裂音が響いて、雛口がおかしな悲鳴を上げて倒れ込む。真っ赤になりながら地面でのたうち回っている雛口を見下ろしながら立ち上がり、今の悲鳴は何点だろうかとぼくは考える。雛口に教えてもらおうかとも思ったけれど、それどころではなさそうなので止めておいた。
「あ、うあ、はっ、ひぃぃ」
雛口はぼくから逃げようと芋虫みたいに地面を這う。しかし動転しているのか、首の傷が深刻なのか、思うように動くことができていなかった。ぼくはゆっくりと雛口の頭のほうへ回り込み、左手で彼の頭を掴んだ。
「や、いだい、いっ、やめで、やめでぐだじゃい……」
雛口がぼくの手のひらのなかで泣きじゃくっている。自分でも少し驚いたけれど、心は全く動かなかった。
「ぼくも痛かった」
「ごべんなざいぃ、もうぢばぜん。だがりゃじゅりゅしれぇ」
「別に怒ってないよ」
パァン――と、ぼくの中指の先で空間が弾ける。雛口の眉間にはくっきりと穴が空いていて、血と脳漿がぽこぽこと泡立って漏れ出した。白目を剥いた雛口はびくびくと全身を痙攣させていて、それからすぐに動かなくなった。死体を見るのはもちろん初めてだったけれど、死んだのだと分かった。
「きたね」
ぼくの腕や制服には雛口の返り血がべっとりと付いていた。けれど不思議なことに中指だけはつるりと綺麗な肌色のままだった。ぼくは動かなくなった雛口と自分の指を交互に眺めた。
どさりと物音がして、ぼくは振り返る。腰の抜けた正田が尻もちを突いていて、真っ青な顔でぼくと雛口だったそれを交互に見やっていた。
「な、なにしてんだよ、水野ぉっ」
「何って、何だろう……」
ぼくは首を傾げる。正田は悲鳴を上げて立ち上がろうとしたけれど、滑って地面に倒れ込む。ぼくは凪いだ気分そのままに、ゆっくりと正田に歩み寄る。
「俺は止めた、止めただろ。なあ、水野。俺は雛口を止めたじゃねえか。な、頼む。殺さないでっ」
「ぼくもさ、ダーツやってみたかったんだ」
ぼくは左の中指を正田に向けて立てる。正田は逃げるのを諦めたのか、その場で不格好に正座をして、何度もぼくに許しを乞うていた。ぼくは正田の肩に中指を突き立てた。
「うぎゃぁっ」
悲鳴が上がる。正田は何度もぼくに謝った。ぼくは反対の肩に中指を押し付ける。
ぼくが中指で穴を開けるたび、正田の口から叫ばれる悲鳴と謝罪が混ざり合って意味の輪郭を失っていった。汗や涙や血はもちろん、正田は失禁もしていて、ぼくはそんな正田を少しだけかわいそうに思いながら、中指を突き立てて身体のあちこちを抉り続ける。
「いでえ……いでえよぉ……」
「知ってるよ」
ぼくは死にかけの蝉みたいに地面に転がる正田のこめかみに中指を突き立てる。もう既に穴だらけになっている正田の精神はまともとは言えなくて、右目と左目が全く別の方向を向いている様子はB級のホラー映画みたいで気味が悪かった。だからぼくはこめかみに当てていた中指を正田の右目へとずらし、眼窩に指を押し込んだ。眼球はぬるぬるしたピンポン玉のみたいで、次に筋っぽい感触が指先に触れた。正田がとてつもない悲鳴を上げてぼくを引っ掻いてきて、ぼくは反射的に中指の能力を行使した。正田の顔の奥のほうからくぐもった破裂音が響くと、やっぱりびくびくと全身を痙攣させて、正田はすぐに動かなくなった。
ぼくは眼窩から指を引き抜く。さすがに突っ込んだ指は血とよく分からない体液とで汚れていて、正田の制服のズボンで指についた汚れを拭いた。
間もなく黒々とした雲を裂いて雨が降り出した。雨は制服についた返り血や地面の巻かれた血の赤を洗い流していった。地面をくぼみに沿って流れる薄ピンク色の泥水が排水溝へと吸い込まれていくのを、ぼくはしばらくの間眺めていた。
それから教室に置き傘があることを思い出して校舎へと戻った。途中、首から楽器を下げた吹奏楽部の女子に出くわした。血と雨に濡れたぼくを見た彼女は大声を上げて逃げ出した。なんとなく面倒ごとになりそうな予感がして、ぼくは追いかけた彼女を階段から突き落とし、それから正田にしたのと同じように右目に中指を突っ込んで〈力〉を使った。動かなくなった彼女をどこかの教室に運ぼうかとも思ったけれど、重かったのでやめた。ぼくは教室で傘を回収した。
「どうしたんだ、水野。その傷」
今日はとことん運が悪かった。教室を出てすぐに、土屋と遭遇した。土屋はぼくを見るや驚いた表情をしたけれど、すぐに何事もなかったかのように笑顔を貼り付けた。
「どうもしませんよ」
「そうか。あんまり羽目を外すなよ」
土屋は言って、踵を返す。土屋が走り出すより早く、ぼくは背中に駆け寄って、土屋の腰に中指を押し付けた。
思いのほか大きな音が廊下に響いて、土屋が倒れる。その拍子に脚が絡まってしまって、ぼくも土屋の背中にのしかかるように倒れ込んだ。土屋の絶叫が校舎に響く。
あまり騒がれると面倒だった。まだ部活で残っている生徒もいるし、教師だって大半は残業している。ぼくは腕を伸ばして土屋の首根っこを掴み、もう一度〈力〉を使う。首の左側に穴が開いて、血が噴水みたいに飛び出した。グラウンドと違ってリノリウムの床には血がしみ込んでいかないので、廊下はあっという間に土屋の血で真っ赤になった。土屋は腕を振り回してぼくを突き飛ばしたけれど、気道に穴が開いたらしく声すら出せずに冷たい床の上でもがいていた。ぼくは念入りに馬乗りになって左胸に中指を突き立てた。どうやら〈力〉で消滅させられる範囲は胸から心臓までより狭いらしくて、胸には穴が開いて抉れた骨っぽいものが見えただけだった。ぼくはもう一度、その傷口に中指を押し込んで〈力〉を使った。今度はちゃんと心臓に届いたのか、びっくりするほどの血が胸から溢れ出した。
事切れた土屋の腕がばちゃりと血のなかに放り出されて、ぼくは土屋の手がぼくの腕の付け根のあたりをものすごい力で掴んでいたことに気がついた。掴まれていた肩のあたりは痺れたように痛んでいて、ぼくは少し休憩したかったけれど、このままこの場所にい続けるのはまずいと思って、すぐに学校を後にした。外はさっきよりも雨が強くなっていて、傘を差してもあまり意味はなかった。
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