ぼくのはなし(2)

 週が明けて、学校へ向かうぼくの足取りは重い。背負うリュックの肩紐を握り締め、窮屈なスニーカーで足を前に進める。途中、何人かの生徒がぼくを軽快に追い抜いていく。中には同じ学年の生徒もいたけれど、ぼくに気づくような素振りはない。

 なんとか昇降口について、上履きに履き替える。ここまで来ると、やはり誰にも気づかれないというわけにはいかず、ぼくには不躾な視線がちらほらと向けられ、ひそひそと話す声が小さな波のように立ち始める。ほら、あの人、例の自殺の。ああ、なんか公園で首吊ったってやつ。気付いた小学生が通報したらしいよ。だっさ、何それ――。

 もちろん話している内容までは聞こえないけれど、だいたいそんなとこだろう。ぼくはその場から逃げるように教室へ向かおうとしたけれど、後ろから聞こえた声のせいで、まるで固まる前のセメントに間違えて足を突っ込んでしまったみたいに、その場から動けなくなった。

「おー、おー、水野じゃん。元気してた?」

 声は足どころか全身を固まらせているぼくに容赦なく近づいてくる。リュックの肩紐を手が真っ白になるほど握り締め、浅くなる呼吸に抗うように何度も深呼吸をする。

「一週間ぶり? いやぁ、やっぱ水野いないと面白くないわー。なあ?」

 頼んでもいないのにべらべらと話し続けている茶髪の男子生徒――雛口ひなぐちがぼくの肩にぬるりと腕を回す。雛口に同意を求められたスポーツマン風の短髪の男子生徒――正田しょうだは「そうだぞ」と笑ってぼくの髪の毛をぐしゃぐしゃに撫でた。

 それは逃がさないという宣告にも思えた。そして実際、自殺すら満足にできなかったぼくにはもう逃げ場なんてなかった。

 ぼくは雛口たちに連れられて教室に向かう。教室までの道すがら、雛口はずっと笑いを堪えているようで、最初は分からなかったその意味は教室についてすぐに明らかになった。

 廊下側から数えて二列目の、前から三番目の、つまりはぼくの席。その真ん中には炭酸飲料のペットボトルが立てられていて、なかには一本、黄色い花が挿されている。意味はあまりにも明白だった。

「おーい、みんな。水野が蘇ったぞ」

 雛口が言うと、クラスメイトたちの間にはにわかなざわめきが広がる。男子はクスクスと笑みを浮かべ、女子は困ったような顔をしつつ自分たちは関係ないと視線を逸らす。誰もぼくに声は掛けなかった。クラスメイトたちはみんな、これまでに何が起きたのかを知っているし、これから何が起きるのかも予想がついている。ぼく一人を生贄にすることで火の粉が降りかかるのを避けられるならば都合のいい尊い犠牲くらいに思っているのだろう。

「せっかく蘇ったのに、誰も歓迎しちゃあくれねえな」

 正田が嬉しそうに言った。雛口はあごに手を当てて、蛇みたいな視線をぼくに向ける。ぼくはどんな顔をしていればいいのか分からなくて、とりあえず穏便に済めばと笑顔をつくる。

 そこでチャイムが鳴った。時間だけは辛うじて、まだぼくの味方でいてくれるようだった。教室に担任の土屋が入ってきて、ぼくらを席に着かせる。

「死んだって逃がさねえからな」

 離れ際、雛口がぼくにそっと耳打ちをする。その瞬間、胃を鷲掴みにされたみたいに吐き気が込み上げてきて、なんとか席に座ったぼくはそれを必死で押さえつけながら、目の前に置かれた萎れかけの花を凝視し続けていた。


 授業中はいい。授業がやっている間なら、雛口たちもそれほどひどいことはできない。せいぜい消しカスを投げたりしてくる程度で、じっと俯いていればやり過ごせる。だけど時間は残酷で、授業時間は必ず終わる。休み時間になって解き放たれる雛口たちの嗜虐性からは、ぼくはどうしたって逃れることはできないのだ。

「ストライークッ!」

 ガムテープを丸めてつくったボールが、ぼくの胸を強く打った。ぼくは息ができなくなって、その場に膝をついてうずくまる。

「おいおい水野。ちゃんと捕れよ」

 うずくまるぼくの背中に雛口が上履きのままの足を乗せる。

「お前がちゃんと捕んねえとゲームになんねえだろ?」

「ご、ごめん……」

 顔を上げた先では、転がったガムテープボールを拾い上げた正田が楽しそうな顔でぼくを見降ろしている。

「でも、正田くんのボール、早すぎて」

「当たり前だろ? 野球部の元エースなんだから。ほら立てよ」

 雛口はぼくの襟首を乱暴に引いて強引に立たせ、自分はバットに見立てた丸めた新聞紙を構える。教室の奥で振りかぶった正田がガムテープボールを容赦なく放る。

「あだっ」

 構えていたぼくの両手をすり抜けて、ガムテープボールはぼくの顔面へ。ぼくは仰け反って尻もちを突き、正田がげらげらと笑い声を上げる。

「ちゃんと捕れよ」

 雛口が新聞紙バットを振り抜く。バットはちょうどボールの当たった鼻っ柱を押さえていたぼくの手を打ち、パァンと清々しい打撃音を響かせる。

「あーあー、鼻血出てんじゃん。だっさ」

 雛口はぼくの出血に気づくや、置いてあったガムテープをびりびりと剥き、それでぼくの鼻を塞いだ。うまく息ができなくなったぼくは本能的にそれを外そうとしたけれど、雛口がそんなことを許してくれるはずもなく、ぼくは呆気なく突き飛ばされて、近くに集まって話していた女子グループのところへと転がり込んだ。

 女子たちからは亡霊でも見たみたいな本気の悲鳴が上がり、雛口と正田は楽しそうに笑っている。ぼくは犬みたいに喘ぎながらなんとか酸素を貪って、塞がれた鼻腔が血で満たされていく溺れるような苦痛に耐えていた。

「なあ正田、野球飽きたしいつものやろうぜ」

「久しぶりだな。腕にぶってねえかな」

「負けたほうがマック奢りな」

 雛口がシャツの袖をまくり、正田がぐるぐると腕を回す。雛口に引っ張られ、ぼくは教室後ろの壁際に立たされる。

 人間ダーツ。二人がぼくで遊ぶときの鉄板で、当たった場所によって得点を競うものらしい。ちなみにどの部位が何点なのかは知らない。ぼくは二人がなるべく的を外してくれるように祈りながら、じっと的に徹するだけだ。

「動いたらペナルティだからな」

 じゃんけんで先攻を勝ち取った雛口がボールペンを手に取る。片目をつぶって狙いをつけ、ボールペンを投擲する。

「いっ」

 ボールペンの切っ先が左腕に刺さる。ボールペンが床に転がるのに合わせて、ぼくはその場にうずくまる。

「おい、動くなっつてんだろ」

 雛口が怠そうに声を荒げる。ぼくは痛みを堪えてすぐに立ち上がる。

 続いてすぐに正田の一投目が投げられる。今度はぼくのお腹へボールペンが刺さる。正田が拳を突き上げて歓声を上げ、ぼくは全身に力を込めてなんとか直立姿勢で踏みとどまる。

「次は外さねえ」

 一本投げるたび、雛口たちのダーツはエスカレートしていく。ボールペンはいつの間にかコンパスやハサミへと変わり、ぼくに面白い悲鳴を上げさせたら加点という特別ルールが加えられる。制服が破れたりすれば嫌でも教師の目に入るので、ぼくは体操服に着替えさせられる。もちろん着替えるためにトイレに行く許可なんてものが下りるはずもなく、ぼくは女子たちに白い目を向けられながら教室の真ん中で制服を脱がされた。

 風を切って放られるコンパスがぼくの腕を掠めて壁に当たる。投げた正田は舌打ちをして悔しがり、それを雛口が囃し立てる。

「おいおい下手くそかぁ?」

「重くて狙いがむずいんだよ。お前だって外したくせに」

「今度は当てんだよ。見てろ」

 雛口がハサミを構える。刃を開いたまま握られるそれはダーツよりももはや手裏剣だった。

「おい、さすがにそれはやべえって」

「平気だよ。任せとけ」

 雛口は正田の制止を無視してハサミを投げた。回転したハサミは剥き出しになっているぼくの腕に命中する。一瞬、ぼくは自分がどうなったのか分からなかったけれど、今まで聞いたことのないような女子の凄まじい悲鳴が響いて我に返った。

 僕の腕、肘と手首の中間くらいの位置から真っ赤な血が噴き出していた。赤い血は稲妻みたいな模様を描きながら腕を伝い、指先から滴って床に血溜まりをつくっていく。

「う、うはぁ」

 急激に意識が遠のいた。床に倒れ込んでいくぼくの視界にほんの一瞬、嬉しそうに笑う雛口の姿が映り込んでいた。


   †


 保健室で目を覚ましたぼくは先生たちに事情を訊かれた。もちろん雛口やほかのクラスメイトたちにはすでに聴取済み。だから当事者、もとい被害者であるはずのぼくへの聴取は、彼らの発言の簡単な事実確認程度にとどまった。

「雛口たちは遊んでたと言ってるが、間違いないよな?」

 ベッド脇の丸椅子に座った土屋がぼくに言う。

 ぼくはすぐに、否定したところで意味がないことを悟る。土屋も、話を訊くよう指示を出しただろう校長あたりも、誰もそんな回答は期待していない。むしろ訊いてくる土屋の目はぼくに頷いておけと訴えているようにも見えた。血を流しても、自殺をしかけても、事なかれ主義の学校はいじめの事実を、ぼくの苦しみの存在を認めない。誰もぼくを助けてはくれない。それが分かっているから、ぼくは土屋の言葉に小さく頷く。

「そうか。あまり危ないことはするなよ」

 土屋は言って、ぼくの頭を撫でた。白々しくて吐き気がした。


 土屋が教室からまとめてきた荷物を受け取って、ぼくは学校を早退する。親には既に連絡してあるようで、どうせ仕事でいないことは分かっていたけれど、ぼくの靴底を地面に擦りつけながら、そうすれば少しでも家に着くのが遅くなると切に願って歩いた。

 まだ誰もいない家に着き、ぼくは自分の部屋に引きこもってはみたけれど、夜になって父さんと母さんが帰ってきてすぐにぼくは一階へと呼ばれた。リビングに降りると二人は並んで座っていて、その向かいの席に座るようぼくに目線だけで促した。

 顔を見れば分かった。二人にぼくを心配するような様子はない。公立の学校なんかに通っている上、余計な問題を起こすぼくのことを心底疎ましく思っているという顔だ。二人がどういう人間か分かってはいたし、端から期待もしていなかったけれど、やっぱり少しだけ寂しかった。

「どういうことなの?」

 ぼくが座るや、母さんは溜息と一緒にそう言った。額を押さえた腕越しに見える失望と嫌悪の表情が、ちくりと刺さる。何を訊かれているのかは分かっていたけれど、ぼくはすぐに答えられなかった。母さんが言葉を続ける。

「あなたはこうしてくだらない問題を起こさないと、学校でやっていけないの? それとも何。私たちへの当てつけのつもり?」

 ぼくは首を振った。母さんはもう一度、今度は深く荒っぽく溜息を吐く。

 本当は全てを話してしまいたかった。ぼくは学校でいじめられていて、公園で首を吊ったのもそれが苦しくて仕方なかったからなんだ。今回だって遊んでたんじゃない。ハサミやコンパスを投げつけられたんだ。今すぐ脱いだっていい。ぼくの身体は傷と痣だらけだ。ぜんぶ、雛口たちにやられたんだ。

 頭のなかで捲し立てた。でもそれを声にすることはできなかった。いじめられていることを話して、二人がぼくをどう思うか。分かり切ったそのことを考えただけで胃の奥のほうがぎゅうっと締め付けられる思いがして、ぼくから言葉を奪っていった。

「黙ってないで何とか言いなさい」

 母さんの鋭い声がぼくを射抜く。ぼくはますます何も言えなくなって、ズボンがしわくちゃになるまで強くこぶしを握り締める。

「もういいだろう」

 張り詰めるリビングに響くのは、父さんの声。冷凍庫を開けたときのようなひやりとした感覚がぼくの心臓を撫でていく。顔を上げなくても、父さんがぼくを見る目の温度がはっきりと感じられた。

「これ以上、母さんや雅哉に迷惑をかけるな。お前に望むのはそれだけだ。頼むからこれ以上、俺たちの顔に泥を塗るな」

 父さんは「部屋へ戻れ」と強引に話を締めくくった。部屋へ戻る途中、玄関でちょうど帰ってきた雅哉と出くわした。

「またなんかやったんだ。兄さんも懲りないねぇ」

 侮蔑の薄ら笑いが向けられる。ぼくは階段を駆け上がって部屋に逃げ込む。ベッドに潜り込みながら、握りしめたスマホでパズルゲームを開く。

「畜生……くそっ、死ね、死ねっ」

 食いしばった歯の隙間から、震える声を吐き出し続ける。不意にスマホの画面が黒くなって、ぼくの歪んだ顔が映り込む。その真ん中には直径一・五センチの穴が空いていて、その空洞の向こう側から何かに覗き込まれているような、そんな気がした。

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