ぼくのはなし
やらずの
ぼくのはなし(1)
ぼくは死んだ――はずだった。
どうやら死に損なったらしい。まだ少し霞んだ視界に映る人工的な白さの天井と、突き刺すような強い光、それから石になったみたいに重たくなった首から下の鬱陶しい身体の感覚がぼくにそう教えてくれていた。
そのままぼんやりと天井を眺めていると、病室にやってきた看護師はぼくが目覚めたことに気づいて医者を呼びに行く。連れてこられた恰幅のいい坊主頭の医者は名前とか年とか、ぼくにいくつかの質問をしながら手足を触ったり、強引に開かせた目に光を当てたり、覗き込んだりした。
問題がないことが分かると医者たちは病室から去って行って、ぼくはまた真っ白な箱のなかに一人になる。自分以外の気配がないことに安堵して、ぼくはゆっくりと重たい身体を起き上がらせる。窓にかかったレースカーテン越しには薄曇りの白んでぼやけた空と生い茂る木の緑色の頭が見えた。ぼくは今すぐに立ち上がって窓を開け、吹き込む風に逆らって飛び出す想像をしたけれど、実際に行動に移すことはなかった。
死に損なってみて、死ぬことに怖気づいたとか、そういうことではなかった。ぼくはぼく自身に深く傷つけられていた。あれだけ固く決死の思いで死を選んだにも関わらず、死に切ることができなかった。ぼくが今こうして生きてしまっているという事実は、ぼくが何一つとして満足に成し遂げることのできない人間であるという証明のような気がして、そのせいでぼくにはもう何一つとして行動を起こすような気分が湧いてこなかったのだ。
惨めだった。生きている価値もないのに生きている。生きていくことに拒絶されて疲れ果てて、死ぬことにも拒まれる。ぼくにはもうどうすればいいのかが分からなかった。
やがてさっきとは別の看護師がワゴンで病院食を運びにやってくる。そのいかにも味の薄そうな食事の香りに刺激されたぼくの口のなかは、あっという間にじゅるりとしたよだれでいっぱいになって、そのことが余計にぼくを惨めな気持ちにさせた。
込み上げる嫌悪感を押さえながら、味のしない病院食を胃に詰め込んだ。抑え込み続けた吐き気は、代わりに涙になって溢れて、ぼくの頬やシーツを濡らした。食器を引き上げに来た看護師が泣いているぼくを抱きしめながら「怖かったね」「頑張ったね」と繰り返し囁いた。まるで的外れで、気持ちの悪い温もりに僕はとうとうゲロを吐いた。何も分かっちゃいないくせに、てきとうに理解者ぶるんじゃねえ。ゲロを吐いたことが恥ずかしくて、そんなことをまだ恥ずかしいと思う自分に苛立って、たぶんぼくはそんな感じのことを怒鳴り散らして、ベッドテーブルを叩き、割れんばかりに爪を突き立てた。
――パァン、と。
何かが破裂するような音がした。テーブルを叩いた音ではない。爪が割れた音でもない。もちろんゲロをかけられた看護師がベッド横で尻もちを突いている音でもない。
何が起きたのかは分からなかった。いや、正確には、起きたそれを頭で理解するのに時間がかかった。
ぼくは音がした場所――自分の左の手元、中指の先に視線を落とす。さっきまで爪が真っ白になるほどに突き立てられていたベッドテーブルには、ちょうど中指と同じくらいの直径のまあるい穴が空いていた。
ぼくは死んだ――はずだった。
死ぬことすらできなかったその日、ぼくはとうとう心も身体も狂ってしまって、左手の中指におかしな〈力〉を手に入れた。
†
ぼくの中指に変な能力が目覚めて、なんだかよく分からないままに時間が過ぎて、ぼくは厄介払いされるようにして退院した。
入院中、一度も見舞いにくることのなかった両親は退院の日もやっぱり迎えに来ることはなくて、母さんは一人タクシーに乗って帰ってきたぼくをタクシーの支払いついでに出迎えるや、「もう平気なら、明日からは学校に行きなさいね」とだけ言って、すぐにリビングへと戻っていった。ぼくは「分かりました」と頷いて、二階の自室へと上がった。玄関から出てきてリビングに戻るまでの間、母さんはぼくのほうを見向きもしなかった。
母さんはぼくに興味がないのだと決定的に気がついたのは去年――中学二年に上がる直前のことだ。きっかけはごく単純で、一つ下の弟が名門と呼ばれる私立中学に合格したこと。そこは前の年に僕が受験に失敗した学校で、落ちたときは父さんも母さんも何も言わなかったし、てっきり怒られるとばかり思っていたぼくはラッキーだと安心したけれど、それは今思えばつまり、ぼくは大して期待されてはいなかったってだけのことだった。次の年、弟が合格するとそれまで水面下になんとなく存在していた両親の兄弟に対する温度差は、より露骨にぼくの世界を蝕むようになった。体面上の問題があるので、目に見えて虐待したりはしない。けれど家族の冷たい視線というのは、ただ向けられるだけでも十分に気が滅入るものだし、小さいころから何をしても褒められたこともなければ、怒られた記憶もぼくにはなかったというどうでもよさそうな一つ一つのことがふとした瞬間に思い出されて、ぼくはいちいち落胆することになった。そしてぼくはそんな家族と関わらなくて済むように、なるべく部屋に引きこもるようになっていった。
ぼくは不出来な欠陥品。
それがどうしようもない、たった一つの現実だった。
ぼくは背中からベッドに倒れ込み、掲げた左手を眺める。何も変わったところはない。だけど決定的に変わってしまった。その事実を、今のところはぼくだけが知っている。
あれからぼくはこの中指の〈力〉を何度か試してみて、いくつか分かったことがある。
まず能力は中指で何かに触れた状態かつ強く念じることで発現する。おかげで不用意に能力が使われてしまうことはなく、よってぼくの中指がむやみな破壊を引き起こすこともない。ぼくはとりあえず安心した。
二つ目は、能力が使えるのは左手の中指だけということ。いちおう他の全ての指でも試してみたけれど、さっぱりだった。まだ使えないだけなのかは分からないけれど、現状はそんな感じだ。
そして三つ目は――ぼくとしてはこれが一番重要で――能力の範囲について。左中指が消し飛ばせるのは指先から幅一・五センチ、深さ三センチ弱のごく限られた範囲で、具体的には左中指の第一関節分くらいに相当する。銃みたいに射程距離があるわけでもない上での、この微妙な範囲にぼくは正直がっかりした。
けれど同時に、所詮こんなもんだろうという気持ちもあった。この能力がどういう経緯でぼくの左中指に生まれたにせよ、欠陥品には中途半端な能力が似合っている。
中指で触れる数センチの世界を消すことができたって、ぼくの日常は何一つとして変わらない。
そう思ったら悲しくなってきて、ぼくは沈んでいく気分を紛らわすために握り締めたスマホで時間潰しのゲームを始める。
ゲームは同じ色同士のパズルを何枚か並べると敵に攻撃できるという、よくあるパズルゲーム。止まることなく画面を撫でている指は、一見するとこのゲームを難しいものであるかのように見せるけれど、実際は脳みそなんてほとんど使わない。慣れてしまえば、九九や元素表を諳んじるのと同じくらい、意味のないただの作業だ。
「死ね、死ねおらっ、死ね」
インスタントな殺意を画面にいるドット絵の鬼に向けて吐きながら、忙しなく指を動かす。死ね、死ね、ぶっ殺せ。
強い言葉を吐いていると、強くなった気分になれる。もちろん気分だけだと分かっている。それでも、たとえ虚構でも、ほんの一瞬の束の間でも、この高揚感はぼくが生きていく上で捨てがたいものだった。
だけどやっぱり虚構は脆い。不意に扉が開いて、蔑むような視線を肩に感じて、その時間は跡形もなく終わりを告げてどこかへ溶けていってしまう。
「兄さんさ、帰ってくるのはいいけど、うるさすぎ」
立っていたのは弟の
「ご、ごめん。いたの気が付かなくて……」
「そりゃ日曜なんだからいるだろ。気楽でいいもんだな。バカみたいにゲームしてさ。あ、兄さんはみたいじゃなくて本当にバカなんだろうけど」
雅哉は言って、蔑むように鼻で笑った。ぼくは何も言い返せなくて、振り下ろされる侮蔑を堪えるようにただ下を向く。
「とにかく静かにしてろよな。兄さんの声が聞こえるだけで、集中力が削がれるんだ」
雅哉は殺気立っているようだった。受験に勝利して進学校へ入ったものの、やはり同じくらいの学力を持っている人間のなかである程度の順位を維持し続けるのは大変なのだろう。父さんも母さんも、雅哉には大きな期待をかけている。
ぼくがじっと黙っていると、雅哉はあからさまな溜息を残して自分の部屋へと戻っていった。ぼくはいつの間にかゲームオーバーになっていたゲームアプリを閉じて、ベッドの上で膝を抱える。靴下のつま先にはいつの間にか穴が空いていて、血豆で半分黒くなった爪が顔を出していた。
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