第6話 宿泊客:ヨウ子⑥ 宿泊代、壁の絵、面会室……赤いドアは?
「夕食はかんたんなものにいたしましょうか」
4種類のお菓子を食べたヨウ子を眺め、秋はそう言った。
そう言えば、夕食のことをすっかり忘れていた。
「お電話でもお話ししましたが、あらためて、お食事のことをご説明いたしますね。
お食事は、基本的にあちらの奥の両開きの扉、食堂で召し上がっていただきます。
朝食は7時から10時まで、夕食は18時から21時までのあいだに、食堂へお越しください。時間は目安で、時間をずらしたり、お部屋で召しあがることも可能です。食堂は、バーの代わりもしており、24時まで開いておりますので、夜、手持ち無沙汰なときなどお気軽にお越しください。お酒が飲めない方向けのドリンクも、いろいろとご用意してございます。
お食事は、洋食か和食、どちらかを選んでいただきますが、もし『今日は軽いものですませたい』とか、『変わったものが食べたい』といったご要望がありましたら、遠慮なく仰ってください。わたくしが担当のあいだは、喜んで承ります」
秋はニコニコ笑って言った。
「ありがとうございます……。あの、お昼は?」
「お昼は、ご希望があればご用意します。外へお出かけになってもかまいませんよ。ホテルの周りにはコンビニも、自動販売機もありませんが、下の町まで下りればお店があります。おいしいパン屋や、テイクアウトのお店もありますよ。気分転換に散歩されるのもよろしいかと」
「でも、ホテルに戻って来られるんですか」
思わず訊いた。あの森が、すっかり怖くなってしまった。
秋が笑って言う。
「まぁ、日の高いうちは、夕暮れや夜より、おかしなことは少ないようです」
少ない、というだけで、起こらない、ということはないのだ。
昼食も、秋にたのむことにした。
「お洗濯物は、朝10時までに、お部屋にあるグリーンの袋に入れておいていただければ、夕方5時には洗ってお返しできます。お客様が朝食を召し上がっているあいだに、私どもがお部屋に伺い、洗濯物をお預かりするのとあわせ、清掃やシーツ交換をさせていただくのが、お勧めの流れです」
ヨウ子はお勧めされた流れで頼んだ。
思わずつぶやいた。
「それで1泊、7千円……」
そう。このホテルの宿泊代は、1泊7千円。
ヨウ子が滞在を決めた一番の理由は、この安さだった。
食事と洗濯がついてこの価格。これは長期滞在者向けの値段で、通常は1泊1万円らしい。それでも安い。
「はじめは、長期滞在のお客様は、1泊8千円という話だったんですけれども、8は、末広がりの八ですから、広がって行ってはまずいよね、という話になりまして、それで取りやめに。では9千円にするかという話になったんですが、9は、苦しみの苦と重なりますから、それもやっぱりまずいよね、という話になりまして、それも取りやめに。結局、もうラッキーセブンの7でいいじゃないかという話で、それで決まったわけです。まぁ、幸運のような博打も、当ホテルには必要かもしれないということで」
「1万円は、どういう理由で……」
「ああ、それは、計算が簡単なので」
儲けようという気はないらしい。
なんにせよ、安いのは助かる。ホテルのホームページがなかったから、ものすごく老朽化したホテルだったらどうしようかと、それだけが不安だった。
電話で秋に聞いて、不安は払拭されてはいたけれど、こうして実物を見ると、逆にこの値段で良かったのかという不安がわいてきた。
「ホテルの1階には、図書室もございますよ。文庫本や雑誌などいろいろ揃えておりますので、日中の過ごし方のひとつに加えていただければと思います。本はすべて、無料で借りられます。お部屋で読んでくださってかまいません。客室は、2階から上にありまして、本日平さまには、2階のお部屋をご用意しました。このあと、お部屋にご案内いたしますね。秋の終わりで、あいにく淋しい景色ですけれども、お部屋には八重咲きの山茶花を飾っております。お楽しみいただければいいのですが」
ホテルにエスカレーターはなかったので、秋に案内され、階段をのぼった。
黒い手すりのついた階段の壁には、絵が飾られていた。
海の景色、木の枝の小鳥、窓辺に置かれた花、かなぶん……ヨウ子は、ある絵の前で足を止めた。白い紙に一人の男が描かれている。藍色の太い線で、荒々しく、削るように。男の髪は黒く、肌と服は青い。男の表情は硬く、険しかった。絵全体から、言いあらわしようのない暗い感情がほとばしっていた。
「それは自画像ですよ」
階段の上から秋が教えた。
「なんか、すごい絵ですね」
「そうでしょう。皆様、よく足を止めてご覧になります。他の絵も、その方がお描きになったんですよ。何でも描かれる方ですが、自画像はその一枚しかないんです」
「画家なんですか?」
「いいえ。けれど、とてもお上手で、ファンも多いのです。紹介してほしいと仰る方も多いのですが、食人鬼なので、気軽に紹介ということもできませんで」
しょくじんき。
「もとはホテルのお客様で、食べてしまった奥様に会いに、当ホテルを訪れたそうです。ご紹介するのはかんたんですが、それでその方が食べられてしまうと、少々困ってしまいますので」
「え……それって、……まさか」
あまりに普通に話すので、うっかり流しかけた。食人鬼?
「当ホテルには、いろいろなお客様がいらっしゃいますので」
秋は微笑んで言った。それ以上の補足はないようだった。
忘れていた不安が、また戻ってきた。
もしかして、この女の人は、頭がおかしいんじゃないだろうか。
そもそもやっぱり、死者と会えるホテルなんておかしい。おかしいに決まっている。あんな話を真面目に話すなんて、どうかしている。
霊感商法。怪しい宗教団体。サイコパス。連続殺人。そういうものが頭をよぎった。
そういえば、ヨウ子がここに来たこと知る人は、誰もいないのだ。
アキヒトはもちろん知らない。親も知らない。友達にも言わなかった。そしてその事実を、ヨウ子は秋に喋ってしまった。
もしこのままヨウ子がここで殺されても、気づく人は誰もいない。
心細さと不安、混乱が、いっぺんに押し寄せた。
けれど、そういうものは、短い時間、ヨウ子の脳内を支配しただけですんだ。3階の突き当たりの、面会室のドアが、そんな気分を一瞬で消し飛ばした。
「面会室を少しご覧になりますか?」
秋がそう言った。
そう言って、2階を通り過ぎ、3階へのぼった。
「先に少しご覧になった方が、心の備えができてよろしいかと」
3階の階段をのぼってすぐだった。
まっすぐな廊下の向こうに、その青いドアが見えたのは。
文章で書けば、天井も、壁も、何もかもが白い廊下の突き当たりに、青く塗られたドアがあるだけだ。
それだけのはずなのに、目が釘付けになった。目玉が吸い寄せられ、吸いついて、離れなくなった。頭のなかに警鐘が鳴った。「あれは見てはいけないものだ」と。「見るな」と。
道路の上の轢かれた動物を見る感じだろうか? いや、違う。もっと目をそむけたくなる汚いもの……いいや、それとも違う。ヨウ子はとても言いあらわせない。あの廊下の奥で、ものすごい邪悪なものがうずくまっているような、あの感じを。濃度が濃すぎて、かえって空白に感じてしまうような、あの空気を。あれはパッと見、なんの変哲もない、ただのドアだ。とぼけたほど牧歌的な、シンプルな青い木のドア。
でも、あそこには、死んでも近づきたくない。
ヨウ子は階段の手すりを、溺れかけた人のようにギュッと掴んでいた。
そこから一歩も、先へ進もうとしなかった。
「こちらがお部屋です」
秋に付き添われて入った部屋は、想像よりかなり広い部屋だった。
窓際には木枠のベッド。その右側には、テーブルと椅子のセットがあり、そばに小さな冷蔵庫と、ポットをのせた棚がある。それにテレビと、クローゼット。右側のドアはバスルームとトイレに通じている。
秋は、腰が抜けたようになっているヨウ子を椅子にすわらせ、手早くお茶を淹れた。
「たいへん相性の良い方ですと、平さまのように、ご覧になっただけでそうなる方もいらっしゃいます。気付け薬が冷蔵庫に入っておりますので、必要な時に口にお入れくださいな。お食事は、もうしばらくしてからお持ちしましょう。喉を通りやすい、栄養満点のおいしいスープをつくってまいりますね」
ほうじ茶の良い香りが、ヨウ子を少ししゃんとさせた。
それに、山茶花。テーブルに飾られた八重咲きの山茶花は、これまでに見た白い花のなかで最も白く、花全体から、馥郁たる香りが雨のようにこぼれ、部屋に満ちていた。
邪気をはらう天の花。
それを眺めていると、いつのまにか、気持ちが落ち着いていた。
「あの部屋って」
そばに控えて立つ秋に、ヨウ子は訊いた。
「あれが、あれですか」
「ええ、面会室です」
おかしな質問を笑いもせず、秋はうなずいた。
「平さまは相性が良く、お会いになりたい方もいらっしゃる。程なく呼ばれるでしょう。呼ばれても、行かないこともできるのですよ。わたくしは常にフロントにおります。何かありましたら、いつでもご相談ください」
ヨウ子はうなずいた。
呼ばれても、自分は行かないだろう。行けない。そう思った。あの青いドア。得体が知れない。あのドアの向こうに、死者の訪れる黄色いドアと、赤いドアがある。
「そういえば、赤いドアは?」
思いついて訊いた。
「赤いドアは、何が来るんですか?」
秋はふと、表情をあらためた。
ななめ横に立たれているのに、正面から見据えられている。そんな気がした。
「赤いドアは基本的に開きません」
秋の口調には、密やかな重々しさが加わっていた。
「ですが、ごくまれに、開く場合がございます」
そう言うと、秋は指を三本立てた。
「わたくしどもが介入する場合が、2つあると申し上げました。1つめは、お客様のご希望とは反する事態になったとき。2つめは、お客様のご希望に沿ってはいるけれど、明らかに止めた方が、不幸が少なくすむとき。実は、先ほど申し上げなかった3つめがございます。それは、赤いドアが開いたとき。あのドアが開いた場合、わたくしどもは、お客様のご希望がどうであろうと、介入いたします。例外はございません。わたくしどもは、そのためにここに置かれておりますので」
秋の顔を見ながら、ヨウ子は、なにかに似ている、と思った。
そうだ。初詣で行く、神社の狛犬だ。あのおごそかで、ちょっとユーモラスな感じ。秋は狛犬に似ている。親しみやすい、愛嬌のあるマダムの顔が、ずっと変わらず微笑んでいるのに、ぐぐぅっと変化した。ぐぅっと、人の域をはなれた。
でも、この雰囲気は、狛犬というよりは……もっと猛々しい……別の何か。
虎?
「赤いドアが開くと、どうなるんですか」
ヨウ子の質問に、秋は答えた。答えになっていない答えを。
「お客様にとって、不幸なことが起こります」
そして、毒を中和するように、こう付け加えた。
「大丈夫ですよ。まず開きはしないドアですので」
死者と会えるホテル、竪琴ホテル おぐらはる @ogurahal
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