第5話 宿泊客:ヨウ子⑤ 会いたい男の子、クリボーのこと


 特別な何かがあったわけではなかった。

 本当に、単に、隣の席になっただけだった。

 いがぐりあたまの、目のくりくりした男の子。みんなからクリボーと呼ばれていた。ほそながい、棒のような手足を持っていた。彼がその足を動かして走ると、クラスの子はみんな置き去りにされた。なわとびで三重跳びもできたし、逆上がりの連続成功回数記録を持っていた。

「ヨー、消しゴム貸してくれね」

 ある日、隣のクリボーにそう言われた。

 その日は小テストがあった。消しゴムがなければ困るだろう。でも、消しゴムの貸し借りは、カンニングとみなされるかもしれなかった。だから消しゴムを半分に切って、半分あげた。

 その三日後、「これやる」と、ヨウ子の机に、新品の香り付き消しゴムがのせられた。

「お礼。お母さんが、持って行けって」

 ヨウ子があげたのは、普通の香りのない消しゴムだ。それで女子のあいだで話題沸騰の消しゴムをもらうのは、なんだか悪い気がした。

「ありがとう」

 クリボーは、べつに、と言って、なんだかムスッとした顔で、休み時間なのに、ふだん見もしない教科書をひろげていた。


 あとで知ったけれど、クリボーはお母さんの買い物について行って、香り付き消しゴムをねだったらしい。

「お礼だから、ちゃんとしたものじゃなきゃ駄目だから」

 そう言って、ゆずらなかったそうだ。

 クリボーのお母さんと、ヨウ子のお母さんは、職場の同僚だった。ヨウ子はその話をお母さんから聞いた。クリボーが死んだのも、お母さんから聞いた。そして、真っ黒い服を着せられて、タクシーで、白と黒の目立つ会場へ行った。

 クリボーは、放課後、道でローラースケートをしていて、車にはねられた。友達と競争していたらしい。それで車道に出てしまった。クリボーは病院に運ばれたが、助からなかった。クリボーはローラースケートも天才的だった。天才でなければ、車にはねられることもなかったのかもしれない。

 死んだという実感はなかった。どこかに行って、帰らないだけのような気がした。

 ヨウ子の知っているクリボーは、椅子の上でのばせる限り、ぴーんと足をのばしていた。給食の時間、煮物に入っているレンコンをまずそうにぼそぼそ食べていた。きゅうりのごまあえも苦手だった。食物アレルギー以外で、給食を残すことは許されていなかった。だから代わりに食べてあげた。

 あれがきっかけで仲良くなった気がする。学校が終わったら、ポケットに手をつっこんで、「ヨー、いっしょにかえろ」と誘ってくるようになった。ヨー、なんて呼び方をするのは、クリボーだけだった。


 学校の帰りみち、ススキの穂を抜いて、二人で振り回しながら帰った。

 「あれ食べられるんだぜ」と、クリボーが指さす知らない木の実に、「うそぉ」と言ったりした。

「取ってきてやろうか?」

「いらなぁい」

「うまいぞ」

「いらなぁい」

 赤とんぼが飛んでいるのを追いかけて、よく道をそれた。

 十字路で別れるとき、クリボーはいつも「俺んち寄ってく?」と訊いた。

「いかなぁい」

 これ以上帰るのが遅くなったら怒られる。

 クリボーは断られても、べつだん何とも思っていない様子だった。

「じゃあな」

 そう言って帰って行った。寄って行けばよかったのに、と、いまは思う。どうせ怒られるんだから、一度くらい寄って行ったら。もう会えなくなる男の子なんだから。

 

 考えてみれば、あれが、人生で出会った最初の男の子だった。

 よくわからないもの。足の速いもの。体を動かすことが好きなもの。ヨウ子のできない三段跳びができるもの。思わぬ好意をくれるもの。

 初恋と呼べるものではないけれど、その前段階ではあったと思う。隣の席にクリボーがいるというのが、毎日ちょっと嬉しかった。そういうのが人生の重大事だった。

 だからクリボーに会いたいのかもしれない。

 今に疲れているから、あの時間の流れがゆっくりだったころが、ぜんぶ許されていたころが、よけい美しく見えた。あのころへ帰ることが、回復するために必要だった。ほんの数分でもいい。それで清水を汲み取るように、先へ進む力を汲み取ってくることができる。

 あの香り付き消しゴムは、使わずに取ってある。三分の一ほど使ったところで、クリボーが死んだ。それでそれ以上使えなくなってしまった。消しゴムを見ると、「形見だ」という気がして、なんとなく手が止まった。誰に何を言われたわけでもないのに。

 それで、なんとなく使えなくなって、なんとなく引き出しに入れて、なんとなく、そのまま。

 引き出しにはまだ、あの消しゴムが、ヨウ子のなんとなくの気持ちごと、保存されている。

 

「ああ、いい、お話……」

 秋は感動した様子で言った。目がうるんでいた。

「わたくし、こういうお話を伺うために、ここの勤めをしているところがありまして……。殺伐とした日々の中に咲いた、一輪の花です。貴重です。本当に」

 そう言って涙を拭いた。

 そんなにいい話だったろうか。

「でも、こんなあやふやな動機で、会えるでしょうか。そんな資格、ない気がして」

 ノリが、お店で「いまならこれも安いですよ、奥さん」と言われて、「あら、じゃあ買おうかしら」と応じた時と同じだ。しっかりした考えがあるわけでもない、単なる思いつき。深刻さが、他の客とは段違いだ。

 秋は、うーん、と頬に手をあてて言った。

「まぁ、先ほども申し上げましたように、資格というよりも、相性の問題でございますから。そちらの面では、平さまは大変相性の良い方です。それが良いか悪いかは、さておくとして」

「どうしてそんなことがわかるんですか?」

「平さまは、ホテルまで犬が案内してくれた、と仰いましたね」

「はい」


 そうだ。ヨウ子は、秋がお菓子を運んできた時、犬のことを訊いた。

 森で案内してくれた犬がいたが、いつの間にかいなくなっていた。あれはホテルの犬か、と。

 秋は、よくわからない返事をした。もう帰ったのでしょう、と。

「当ホテルでは、生き物は飼っておりません」

 秋は言った。

「しかし、森の入口では、ホテルの名前をつけたものが、いろいろ出るようです。犬。猫。馬。オウム。変わったところではオカピや、オオアリクイなど」

「ええ?」

 めちゃくちゃだ。

「それらに一貫性はありませんが、示すものは共通しています。それがお客様になついていたら、面会室は、それほど日を待たず開かれます。逆に、なついていないと、面会室はなかなか開かれず、お客様の滞在も長期にわたることになります。

 オオアリクイなど、お客様の道の前に通せんぼをして、進行の邪魔をしたそうです。この方は結局、ご滞在中、面会室に呼ばれることはありませんでした。

 森で迎えに来たものと、森を抜けるまでの時間は、そのままお客様の待機時間の目安となります。平さまは、あまりお待ちにならずに呼ばれると思いますよ。ここに来るまで、それほど時間はかからなかったでしょう?」

 時間どころか、森の中がどんなふうだったかも覚えていない。

 気がついたら、ホテルの前だった。

「森の道は、普通に歩けば1、0分とかからず抜けられます。複雑な迷路になっているわけでもありません。しかしこの道を、2時間かけても抜けられないお客様もいらっしゃいます。

 ひどい場合は、朝、森の入口から入って、夜になってもホテルにたどりつかず、えんえん道を歩きつづけたという方も。

 丘の中腹は、森がぐるりと取り巻いておりますから、どうしても森を抜ける必要がございます。森を抜けられず、諦めてお帰りになる方もいらっしゃいましたよ。

 そういうことが頻繁に起こりますので、タクシーも、森の入口までしか行きません。巻き込まれるのを避けるためですね」

 だから、森の入口でおろされたのか。

「でも、あの犬は、すごくかわいくて、よくなついてて、おかしなことなんて、何もなさそうでしたが……」

 尻尾をふって飛びついてきたボーダーコリー。

 ヨウ子のことが大好きだった犬。

 あの犬が、そんなにおかしなものだとは、どうしても思えない。

「ええ、そうですね」

 秋はうなずいた。

「悪魔は、微笑みながら近づいて来るものですから」

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