在廊日

 点滴を受けているうちに、わたしはまた眠っていたようだ。ふっと意識が戻ったわたしの視界に、点滴の針を抜き、処理をしている母の姿が映った。

「あら、気が付いた?」

 母は柔らかく微笑む。

 いつもの、母だ。

 点滴を受ける前のどこか誤魔化しているような態度は見受けられない。


「そうそう。明日奈が眠ってる間に秋桜のオーナーに空くんの在廊日確認したんだけど、今度の土曜に在廊してるみたいだから行ってみましょうか?」

 わたしが眠っている間に連絡をしてしまうほどなんて、空が好きな作家だという事は本当だったのだろう。

 そんなに好きな作家だというのに、母は今まで何故わたしに教えてくれなかったのだろうか。聞いていたら、会ったあの場でサインを貰ってくる事も出来たのに。


「病院は大丈夫なの?」

 土曜日とはいえ、病院は開いているはずだ。この病院は母しか看護師がいないのに空けてしまって大丈夫なのだろうかと思い、わたしは母に聞く。 

「ええ。お父さんにはもう伝えてあるから大丈夫よ」

 母は笑顔でわたしに返す。父に確認済みという事は父一人でも大丈夫と判断したという事だ。それなら、わたしも後ろ指を指されず母と出掛けられる。

「それなら土曜日に」

「決まり、ね」

 母は楽しそうに人差し指を自分の頬に当てながらウインクをする。普段は本当にお茶目で優しい人だ。


「土曜日は診察をせずに、みんなの井戸端会議をしようという事になったのよ」

 思い出したかのように、母は話し出す。

「お父さん、久々に医者じゃなくてただの読書好きのおじさんとしてみんなと話すらしいわ。最近、ずっと医者として振る舞っていたからいい息抜きになるんじゃないかしら。ふふふ。楽しみにしてたわよ」

 余程、その時の父が楽しそうにしていたのか、母は思い出しながら笑っている。

 この夫婦は本当に仲がいい。クラスメイトにも何度か言われた事があるけれど、子供が三人居て、長く連れ添っているのにお互いを尊重し合っていて愛情が透けて見える。

 こんな風に連れ添える夫婦を一番近くで見ているわたしでもたまに現実感がない。もちろん、お互いの愚痴などを子供に漏らす場面も多いが、それは両親共に実際に相手に口で伝えている事ばかりだ。

 昔も、そんなわたしの両親が羨ましいと言っていたお兄さんが居たな。あれは誰だっただろうか。小さな頃だったから余り覚えていない。

 だけど、その時のお兄さんは泣いていた様な、そんな記憶がある。誰だっただろうか。


「明日奈? どうしたの、ぼーっとして」

 思わず考え込んでいたわたしの顔を、母が覗き込む。

 父の話をしたのも、おそらくはわたしが病院の心配をしたから話してくれたのだろうし、その話を聞くべきわたしが気もそぞろとなっていれば母も気にしてしまうだろう。

「お父さんとお母さんは本当に仲がいいな〜って思ってて、なんか、昔にそんなお父さんとお母さんが居て羨ましいって誰かに言われたけど、誰に言われたんだっけ?って考えてた」

 わたしはうーん、と唸りながら考える。

「あらあら。小さい頃の記憶は曖昧な事が多いから、無理して思い出さなくてもいいんじゃない?」

 考え込んでしまったわたしに、母は諭す様にそう言いながらわたしの頭を優しく撫でる。

 昔の記憶に関する事になると、母だけじゃなく、親しい人達は『無理して思い出さなくていい』と口を揃える。過去、それを思い出そうとして倒れた事がある上に、景子が気にしている人形の様なわたしになってしまったらしく、腫れ物扱いになってしまっている。

 この歳になってもそういう風に扱われていると、本当にこのままでいいのだろうかと不安になる。いい加減、乗り越えた方がいいんじゃないかと思う。


「その顔は、納得出来ていないのね。もう子供じゃないし、そろそろ向き合うべきなのかしらね…」

 苦笑混じりの母は困ったように口にする。

「お父さんに相談してからにはなるけれど、子供の頃に会っていた男の子の話を聞いてみたい? 明日奈が聞いてみたいなら、お父さんにそれを伝えるわ」

「男の子?」

「そう。子供の頃、この病院に入院していた男の子。明日奈に両親が仲が良くて羨ましいって話をした子」

「男の子、というか、お兄さんのイメージだったけど…」

「明日奈から見たらお兄さんね、確かに」

 母から、この絡みの話を聞いたのは初めてだ。何かあれば全部誤魔化されて、本当の話は聞かせて貰えなかったというのに。

「…聞いてみたいって言ったら、聞かせてもらえるの?」

 今まで頑なに情報統制でわたしの耳に入らない様にされていたのに、本当に聞かせて貰えるのだろうか。

「お父さん次第ね。主治医の判断でNGになるならちょっと厳しくなるけど…。土曜日までには聞いておくわね。そろそろ潮時だと思うのよ。お父さんもきっと許すとは思うわ」

 心配そうな母の表情を見て、父もきっとわたしを心配して今まで話さない様にしてきたのだろう。それを聞きたいというのは我儘なのかも知れない。


 でも、知りたい。昔のわたしに何が起きたのか。

 もしかしたら、それを知る事でがらんどうの、からっぽのわたしから脱却できるのかも知れないから。

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蒼いキャンバス 浅井和音 @ahnya0115

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