コスモス

 わたしに点滴を繋いでいる母を見ていて、ふと大堂津の海で会った空の事を思い出した。個展に誘ってくれた彼は母と一緒にと言っていた。

「お母さん。海で絵を描いている人に会って良かったら個展に来てってチケット貰ったんだ」

「あら、そうなの?」

 点滴のスピードを測りながらわたしの話を聞いてくれる母。腕時計を見ながら、点滴の一滴が落ちるスピードを調整する。この母の点滴のスピードを調整する仕草がとても好きだ。横顔がその瞬間だけ真顔になって、いつもの笑顔が形を顰める。いつもの優しい母も好きだけど、格好いい母もわたしは好きなのだ。

「うん。個展ね、秋桜でやるんだって」

「宮崎の?」

 点滴の調整が終わり、わたしの方へ目線を移しながら母が確認する。

 母も秋桜と言えば宮崎市にあるギャラリー秋桜が一番に浮かぶのだろう。それだけ母にとっても根付いている場所である証拠だ。

「うん。お母さん、最近絵を描いてないし、行ってないなって思って、一緒に行かない?」

 昨年、母と一緒に働いていたもう一人の看護師が辞めてしまい、父と一緒にずっと病院で働いている様になって絵を描く時間が取れていないのは知っていた。

 でも、あれほど絵を描く事が好きだった母だ。きっと今も描きたくて仕方ないのだろうとは思っている。描く時間を持てなくても、絵を見る時間は何とか作り出せたりしないだろうか。そう思っての提案だった。

「車出して欲しいだけでしょ?」

 母は、わたしの提案にそう笑いながら嬉しそうに口にする。母なりの冗談なのは分かる。

「それもあるけど、お母さんと画廊に行くの最近なかったから行きたいなって」

 実際に車で行けるのは助かるけれど、本当に一緒に行きたい理由は別だ。


「そうね〜。久し振りにいいかもね。誰の個展なの?」

 わたしの腕の点滴の針が刺さっている辺りが膨らんでいないか確認するためにわたしの腕を持ち上げながら母が聞いてくる。

「藤井空さんってイラストレーターさん」

「藤井空…?」

 空の名前を聞いた途端、母の動きが止まる。母の知っている絵描きだったのだろうか。

「うん。お母さん、知ってるの?」

 純粋に疑問に思い、母に聞く。

「あ、うん。そう。好きな作家さんのひとりなの」

「そうだったんだ。線を書いていくスピードが本当に早くて凄かったの! あと、空の彩色が凄く好きだった」

 母の返答が予測したものと近いもので、わたしは思わず空の絵を見た時の感想を口に出した。あの時の感動は母が絵を描いているのを横で見ている時と同じだった。わたしはやっぱり絵を描いている人を見ているのが好きだ。

「………そう。じゃ、彼と会った後に貧血起こしちゃったのね?」

 母が何か思案げに首を傾げたあと、そう聞いて来た。

「うん、そう。それがどうかしたの?」

 何か問題でもあったのだろうか。

「倒れる前、何かあった?」

「倒れる前? なんで?」

 母の質問の意図が分からずわたしは母に質問を返す。

「何もないならいいのよ。彼の絵を見て感動しちゃったのかと思って」

 母の質問の真意は読めない。こういう風に母が言葉を濁す時は何を聞いても教えてくれない事を十二分に知っているわたしはこれ以上の追求は諦めた。

「きちんとした絵を見た訳じゃないの。だから見に行ってみたいなって思ったんだけど、ダメかな?」

 だから、母の後半の彼の絵を見た感想についてと、空の絵を見に行ってみたいという希望を母に伝える。

「いいわよ。一緒に行きましょうか」

 母からは快い答えが返って来た。

「やった! ありがとう」

 母と出掛けるのは本当に久し振りだ。


「そう…。彼と会ったのね…」

 少し沈んだ様な声で母は呟く。いつも明るく振る舞う母にしては珍しい事だ。何か空に関しては事情があったりするのだろうか。

「お母さん?」

「明日奈が羨ましいわ。在廊日があれば、それに合わせて行こうかしら?」

 わたしが問い掛けると、母は明るく羨ましかっただけだという風に返してきた。でも、やはり母の態度に違和感がある。それを追求できる訳もなく、わたしは母の話に合わせる。

「そんなにファンだったんだ。知ってたらサイン貰って来たのに」

「ふふふ。サインは実際にお母さんが会った時に貰うわ」

 母は先程の沈んだ空気は一切出さず、楽しげに話す。こういう母にはもうどうやっても敵わない。

「………そっか。その方が嬉しいよね。久々に秋桜にあるお母さんのコスモスの絵が見れるの嬉しいなぁ」

 母が昔、秋桜のオーナーにプレゼントしたという生駒高原で描いたコスモスの絵が二階のギャラリーに上がる階段の所に飾ってある。

 その絵は子供の頃からわたしの憧れの絵だ。広がるコスモスの花畑と、その後ろに広がる山と少しクラデーションの掛かった青い空。初めて見た時からずっと引き込まれる絵だった。

 秋桜のオーナーからその絵が母が学生時代に描いたものだと聞いた時は本当に驚いた。母はこんな油絵も描ける人だったのかと。わたしが絵を見るのが好きになったのはその絵に出会ったからだという事は変わる事のない事実だ。

「今も飾って貰えてるといいけど。ああ、絵を描きたくなるわね」

 母のはにかむ様な笑顔を見て、わたしもつられて笑う。

 この笑顔は、本心だ。あの絵が今もあの場所にあるといいと思いながらわたしは母を見つめた。

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