蒲公英の子
とんこつ毬藻
野に咲く花のように
かつて、人生においてこれほどにまで緊張したことはあっただろうか?
鏡で自分の姿を見た瞬間、そこには異国のお姫様が居た。きっと、これは、わたしではないわたし。ええ、間違いない。お姉さんにメイクをして貰っている間に一度頬をつねってみたのだけれど、どうやら夢ではないらしい。
まぁ、ここまで相方と喧嘩もしながら準備をしてきたんだ。あとはもうなるよになれ、だ。
扉の向こうにはわたしをよく知る友人たち、恩師、親戚の皆さんがきっとスタンバっている。
こういうときはあれよね、人という字を書いて呑み込めばいいんだっけ?
「夏美、綺麗だよ」
「……馬鹿」
余裕ぶっこいたこいつの笑顔が凄くムカつくけど、お陰で緊張がほぐれました。本当にありがとうございました。綺麗なのは純白のドレスの方ですよね、わかります。てか、うちの父親に聞こえない程度にあっさりそんな台詞言うくらいどうして余裕なんですか、あなたは。
「武史様、準備お願いします」
ひと足早く扉の前に立つ新郎。扉の向こうより、音楽が流れ始め、相方が入場を始める。扉の前には、残されたわたし。もう暫くするとわたしの出番だ。
「夏美さん、本当に綺麗ですよ」
「ありがとうございます。緊張するからそれくらいにしといてください」
「承知しました。ふぁいとです!」
プランナーさんの笑顔に救われる。ええ、この人の笑顔には何度も助けられたな。ありがとうございます。
出番を待ち、扉の前で目を閉じるわたし。ふと、脳裏に浮かぶ〝ある人〟の笑顔。その人はいま、この場には居ない。本来なら、わたしと一緒にバージンロードを歩く役になる筈だった――
――彼女は蒲公英のように明るい人だった。いつも笑顔で周囲を和ませる。趣味でママさんコーラスをやっていた彼女は、存在だけでママさんコーラスのムードメーカーだった。
でも、そんな彼女は元々病弱で、わたしが大学生のとき脳の腫瘍で大きな手術をしたんだ。数年の治療でようやく母は完治し、ママさんコーラスへ復帰。わたしも無事に就職し、一家に平穏が訪れた……そう思っていたんだけど。
「これは
年に三百回、脳腫瘍の手術をこなしていたドクターは、診察室の奥から神経学専門の先生を紹介してくれた。幾つかの病気の可能性を排除して、辿り着いた母の病名は、ALS――
そこから母とわたし、そして父の闘病生活が始まる。
身体を動かす神経へ影響を与えるこの病気は、だんだんと身体を蝕み、手足が動かせなくなり、話すことも食べることも難しくなる。最後に動かせるのは、視神経のみ。幸い、彼と交際を始めた頃はまだ元気だった母。病床で結婚を報告したときは……泣いてくれたっけ。
「行って来ます。お母さん」
母はきっと今、笑ってくれている。
わたしが目を開くと同時、バージンロードへ向かう扉は開いた。
蒲公英の子 とんこつ毬藻 @tonkotsumarimo
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