第8話 足跡
随分と、長い時間が経ったように思った。
私は泣き疲れて、砂浜で横になっていた。洋服が汚れてしまうことなど、どうでもよかった。静かな波の音を聞きながら、目を閉じていた。
足音がした。
アマノが帰ってきたんだと思って、私は上半身を起こしてその方向を見る。
目を見張る。
そこには――塁人と、茜音の姿があった。
二人は手を繋いで、私のことを見ていた。昨夜言葉を交わしたはずなのに、おかしなくらい懐かしく思った。私は、口を開いた。
「二人とも……どうして、ここに」
私の問いに、茜音が答えてくれる。
「よくわかんない、けど。だれがが、あかねたちにいったの。おかあさんは、ここにいるよって。そう、きこえたの」
「そうなの? 不思議な話ね……」
「ああ、不思議だな。でも加耶は、本当にここにいた。……だからそれで、いいじゃないか」
塁人は優しく笑って、そう告げた。それからまた、言葉を続ける。
「昨日の言葉、ずっと考えてた。どうして加耶があんなことを言ったのか、わからなかった。本当に僕たちのことが嫌いだなんて、信じられなかった。だって君とは、長い時間を一緒に過ごしてきたんだ。嘘をついているか、本当のことを話しているかくらい、わかる」
私は困ったように微笑む。全部見抜かれていたんだ、と思った。
茜音は真っ直ぐに私のことを見つめて、言う。
「あかねは……おかあさんがすき、だよ。だいすきだよ」
そんな娘の言葉に、枯れたと思った涙がまた、溢れ出す。
私は立ち上がって、ゆっくりと二人に歩み寄った。
もう、素直になってもいいような気がした。
「今から言うこと、全部信じてくれる……?」
「ああ、勿論だ」
「しんじる」
二人のことをそっと抱きしめながら、私は言葉を零した。
「私ね、今月の二十七日に死ぬんだって。どうやって死ぬかわからないけど、そうなの。馬鹿みたいな話だよね。でも本当なの。そう教えてくれた人は絶対に、嘘なんてついていないから……」
そう口にしてしまうことで、改めてその重さに気付いてしまって、心が震えているようだった。
「だからもう、二人とは長い時間、一緒にいられないの。だから、嫌われたらいいんだって思った。そうすれば二人は、私が死んじゃっても気にしないでいてくれるって。でも、だめだ。やっぱり私は、塁人に、茜音に、嫌われたくない……愛されていたい」
温かな家族の体温を感じながら、私は伝えた。
「辛いよ……死にたくないよ……」
塁人と茜音は、何も言わなかった。戸惑っているのかもしれないし、ショックを受けているのかもしれなかった。私はその静寂に浸った。海だけが、淡く響いている。
やがて、塁人の声がした。
「さっきも言った通り、加耶が嘘をついているか、本当のことを話しているか、わかるんだよ。……だから、苦しいなあ。今の加耶、嘘なんてついていないもんな……」
すごく苦しそうな声だった。
うええええん、と茜音が泣き出した。
「ごめんね」
そう、私は言う。
「全部、全部ごめんね。ひどいことを言ってごめんね。一緒にいられなくてごめんね。私、二人に出会えてよかった。人生で色々なことがあったけど、二人に出会えたことは間違いなく、かけがえのない宝物よ……」
私たちは暫くの間、抱きしめ合い続けていた。
*
それから終わりの日が訪れるまで、私たちは色々なところに出掛けた。
近くにも行ったし、遠くにも行った。思い出の場所にも行ったし、新しい場所にも行った。朝起きたら今日やりたいことを居間で話し合って、それから遊びに行く。楽しくて、新鮮で、幸福な時間だった。
塁人は有給を取ってくれて、茜音は小学校を休んでくれた。申し訳なかったけれど、嬉しかった。
ずっとこんな日々が続けばいいのにな、と思った。
でも時間は止まってくれなくて、流れ続ける。
二十七日が近付いてくる。
私たちはその事実から目を逸らして、幸せであり続ける。
私は時折、不安になる。深くて暗い、穴のような不安。でもその気持ちも、二人といると薄れてくる。それは逃避しているだけかもしれない。でも、別にいいじゃない。死ぬことを受け入れる代わりに、これくらいの幸福があってもいいと思った。
二十六日の夜、私たちはやっぱり泣いてしまう。三人で手を繋ぎ合って、布団の中で目を閉じる。明日が来ないでほしいね、と微笑み合う。涙は夜に滲んでいく。
*
葬式が開かれている。
私とアマノは、その様子を少し遠くで眺めている。
塁人と茜音は、喪服に身を包んでいる。私はもう二人と話すことはできない。深く、深く隔てられてしまったから。蜘蛛膜下出血――アマノの言葉を裏付けるように、私はその病気によって命を散らした。
「ねえ、アマノ」
「何ですか?」
「もしかして貴方が、私が海にいることを教えたの?」
「さあ、どうでしょうね……」
アマノはそう言って、はぐらかす。でも私は、そうだと確信している。
だから優しく、微笑みかける。
「アマノはさ」
淡い紫色の瞳。やっぱりそれは、美しかった。
「本当は、誰よりも優しい天使だったのね」
彼は少し、驚いたような顔をする。その顔付きは、どこか泣き出してしまいそうな儚さがあった。アマノのそんな表情を見たことがなかったから、私はつい見つめてしまう。
でもアマノはすぐに、いつものような笑顔に戻る。軽薄で冷たい微笑。やっぱりその表情は、彼によく似合っていた。
「お褒めいただき、ありがとうございます」
私はアマノへ、笑顔を返す。
「……それじゃあ、そろそろ行きましょうか」
「ええ、わかった」
私たちは人々に背を向けて、歩き出す。
私とアマノは、空に向かう。
淡い桃色の花々が、足跡のように咲いていく。
いつか家族に再会できる日を、私はもう心待ちにしている。
――『ネリネの足跡』fin.
ネリネの足跡 汐海有真(白木犀) @tea_olive
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