第7話 天使

 加耶さんもご存知の通り、俺、昔は天使だったんです。


 うん、言ってたわよね。


 天使の役目も色々ありますが、俺に割り当てられていた仕事は主に、もうすぐ死を迎えるであろう人間の行動を記録することでした。それを詳細に書き出すことが、こちらの世界では重要だったんです。


 どうして、重要なの?


 まあ簡単に言いますと、もうすぐ死んでこちら側に来る人間が、どういう動きをする傾向があるか調べているんですよ。ある種の実験に近いですね……


 え、実験……? 


 ええ。……世界は循環しているんです。俺たちのような存在は、あるとき突然死を迎えて、そちら側の世界に行く。天使は貴方たちの寿命を知ることはできますが、自分たちの寿命を知ることはできません。

 天使はね、死を恐れているんです。だから人間の死を覗いて、その仕組みを知ろうとしているんですよ。


 へえ……何というか、天使ってもっと優しい存在だと思ってた。人を助けたりとか、見守ったりとか、そういうことをしてくれるみたいな。


 勿論、そういうこともしていますよ。でも天使だって、一つの生物です。怖がりで、臆病で、繊細で。そういうものなんですよ。


 そうなのね。やっぱり、意外と言えば意外かもしれない……


 ふふ、そうでしょうね。……話を戻しますか。俺は新米天使として、一人の少女の記録を始めました。彼女の名前は天野空芽あまのそらめ

 高校二年生だった彼女は、明るくて気遣いができて、人気者でした。家族も、友人も、恋人も、誰もが彼女を愛していました。加えて健康そうでしたから、俺は『この子がどうやって一ヶ月後に死ぬのだろう』と思いながら、記録を続けました。


 ……うん。


 俺はね、死とはだと思っていたんです。天野空芽はそうではなかった。彼女は一ヶ月の間、代わり映えのない平凡な日常を過ごして、そうして死にました。

 通り魔の持っていた一本の包丁が彼女の腹に突き刺さって、命は真っ赤な血に溶け込んでいたようにして流れ出ていきました。


 そんな……


 ふふ、よくある悲劇ですよ。それで俺はようやく、天野空芽と話をしました。天使は生きている人間と会話してはいけない、という定めがあるから。天野空芽は俺からの説明を聞き終えて、ぽつりと言いました。

 どうして、教えてくれなかったの?

 怒るのでも、悲しむのでもなく、彼女はただそうやって言ったんです。虚ろな目をしていました。俺は何も言うことができませんでした。


 ……そっか。


 それからというもの、天野空芽の言葉が頭にこびり付いて、離れてくれなくて。何人もの余命を記録しながら、ある日ふと思ったんです。

 言おう、って。

 貴方はもうあとこれくらいしか生きられないんですよ、って言ってやろうって。

 まあそこからは、お察しの通りですね。俺は天使であることを許されなくなって、堕天使になりました。そうして今も、好き勝手にやっているという訳です。めでたし、めでたし。


 うん……話してくれて、ありがとう。


 別にいいですよ。まあでも、面白い話ではなかったでしょう?


 ううん。アマノのことを知れただけで、聞いた価値があったと思うわ。


 へえ、物好きですね。


 ……アマノの、名前って。


 ああ、お気付きかもしれませんが、天野空芽の苗字から拝借しているんです。天使だった頃は、他の名前がありましたけれど……まあ俺はもう、天使ではありませんから。


 そうね。……空芽さんは今、何をしているの?


 さあ、どうなんでしょうね。残念ながら、俺は知りません。どちら側の世界にいるのかもわかりません。まあでも、幸せにやっていてくれたら、嬉しいですけれどね……


 *


「俺の話は、これくらいにして。一つ、加耶さんに聞いておきたいことがあります」


 アマノはそう言って、私の方を見た。

 さらさらと、海が揺らいでいる音が響いていた。


「……何?」

「貴方は言っていましたよね。残りの時間を使って、塁人さんと茜音さんに嫌われようと思うと。それがよい道なんだ、と」


 彼はいつものように冷たい微笑を浮かべて、私に尋ねた。



「――貴方はそれで、本当にいいんですか?」



 自分の血液までもが、その冷気にあてられて、冷たくなっていくように思った。

 私は口を開く。いいのよ、と言おうとする。

 でも、結局のところ。


「……よくない」


 口から漏れたのはそんな、どうしようもなく愚かな――


「全然、よくないわよ……」


 ――言葉だけ、だった。


 私は膝を抱えて、うずくまる。波に触れられながら、ゆっくりと呼吸をする。


 寂しかった。苦しかった。愛しかった。

 塁人のことが。茜音のことが。家族のことが。

 大好きで、大好きで……堪らなかった。


 ぼろぼろと涙が溢れてゆく。海に混ざり合って、どこかに流れていく。


「貴方という人は、本当に意見が二転三転しますよね。姿を見せるなと言ったはずなのに、結局俺のことを呼んでみたり」


 アマノはどこか呆れた口調で、私に告げる。私は涙を必死に手で拭いながら、うるさい、と小さな声で反抗する。


「……用事を思い出したので、ちょっとここで待っていてください。暫くしたら戻りますので」


 アマノはそう言って、私から遠ざかっていく。もう見られていないのならいいかと思って、私は思い切り泣きじゃくった。

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