第6話 過去

 きっかけは、大学の授業が同じだったことだった。


 一年生のときに取った一般教養の授業で、何となく座った席の隣にいたのが、三年生の塁人だった。


 入学したてで知り合いも少なくて、私は不安でいっぱいだった。しかもその日に限って、筆箱を家に忘れてしまった。ノートを開いたまま先生の板書を眺めて、どうしよう、と考えていた。それから下ろしたての真っ白なノートを、ぼうっと見つめていた。


 そのとき、視界に一本のシャープペンシルが映り込んだ。私は驚いて、顔を上げた。隣に座っている男性が柔らかく微笑んで、小さな声で、使って、と言ってくれた。


 私は小さくお辞儀をしてから、それを握った。シャープペンシルには少しだけ温もりがあって、それを彼の温度のように思った。


 授業が終わってから、私は彼にお礼を言う。全然気にしないでいいぞ、と彼は笑った。眼鏡の奥に見える目は優しくて、きれいだった。


 私たちは名前を伝え合う。染谷塁人、牧野加耶。そうして私たちは、少しばかりの身の上話をした。さよならの挨拶をして、お互いが次の教室に向かう。手を振り合った。


 それから毎週の木曜日、私たちは会話をするようになった。段々と距離は縮まっていった。ご飯を何度か一緒に食べて、三回デートをして、塁人から告白された。私も先輩のことが好きです、と告げたとき、彼が見せた安堵と幸福の入り混じった表情を、多分ずっと忘れることはないだろう。




 私たちは思い出を重ねる。映画館、動物園、水族館、遊園地――様々な場所に出掛け、笑い合って、お互いの記憶にお互いの姿をなぞっていく。




 私が大学を卒業したタイミングで、塁人と同棲を始めた。

 ある日の夕ご飯で、塁人はぽつりと言った。


 ――君が、僕と同じ苗字になったらさ。


 その仮定に、私は少しばかり目を見開いた。塁人は照れくさそうに笑って、言葉を続ける。


 ――『や』が二つ、続いちゃうな。


 そう言われて、私は思わず吹き出してしまう。塁人は笑顔のまま首を傾げる。そういうことを言われるとは、思っていなかった。もっとロマンチックな話をされるのかと思ったら、そうくるなんて。それがおかしくて、でもとても嬉しくて、私は暫くの間笑っていた。


 ――そうだね。染谷加耶、って名前だもんね。

 ――うん。正直今の、牧野加耶、の方が響きはいいような気がする。

 ――でも、


 私は心からの微笑みを、零した。


 ――染谷加耶になれたら、すごく、幸せだな。


 塁人はくしゃりと笑う。私たちは何だか気恥ずかしくなって、二人して肉じゃがをつつき出す。


 *


 潮の香りが、風に運ばれてくる。

 私とアマノは、砂浜に立っている。広がる海は青々としていて、雄大だった。


「結局、海に来たかったんですね」


 アマノはそう言って、革靴の先で砂浜に文字を書き始める。私はこくりと頷いて、ゆっくりと歩く。打ち寄せる波に、靴も脱がずに足を浸す。冷たくて、心地よかった。


 アマノは私の隣で屈み、手で水をすくった。透明な液体がさらさらと、彼の手の隙間から溢れてゆく。


「ここはね、塁人にプロポーズされた場所なんだ」

「へえ、そんな思い出の地だったんですか」

「うん。よく覚えてる。まるで昨日のことみたいに、思い出せる……」


 少し遠くに、昔の私たちがいるような気がした。結婚しようと言われて、驚きのあまり思わず泣いてしまったこと。嬉し泣きをしたのは、あれが私の人生で最初で最後かもしれない。


 もしかしたら、まだ生まれていない茜音も、あのときの私たちをどこかで見てくれていたのだろうか? アマノがいるのだから、きっと生死に関わる大きな世界が存在している気がした。見たこともないけれど、あるような心地がした。


 茜音と出会えたのは、本当に幸せなことだった。顔立ちはどちらかというと私に似ているけれど、少し下がった眉は塁人譲りだった。天真爛漫な彼女の姿は、私と塁人に沢山の笑顔をくれた。茜音の成長していく姿を見られるのが、喜ばしかった。


 私は首を横に振る。二人のことを考えていると、段々と切ない気持ちになってしまう。気持ちを切り替えるように、アマノのことを見た。

 淡い紫色の瞳と目が合う。彼はすっと微笑む。この海を拾い上げたみたいな、冷たい微笑み。


 私はこの人のことを全然知らないな、と思った。謎だらけの存在だった。でも彼は今こうして私の隣に立って、同じ情景を見ている。何だか、不思議な心地がした。


「……ねえ、アマノ」

「どうしましたか?」


 アマノはそっと首を傾げる。黒い髪が、微かに揺れ動く。


「私、貴方の話が聞きたい。貴方は一体、何者なの……? よかったら、教えてほしい」

「俺の話ですか? 正直聞いたところで、特に面白くはないと思いますけれど」

「それは私が判断することよ」

「ふふ、そうですか。まあ別に、話してもいいですよ……」


 アマノはそう言って、どこか懐かしそうに空を見上げる。

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