第5話 選択
「おかあさん、ごはんはいつ……?」
茜音はどこかおろおろとした様子で、私に声を掛ける。私はそれを無視して、ソファに寝転がって雑誌を読み続ける。茜音はしゅんとした様子で、スケッチブックに再び絵を描き始める。そんな娘の様子に、胸がずきりと痛んだ。でも、そうするしかなかった。
鍵の音がした。茜音はゆっくりと立ち上がって、塁人のことを出迎えに行く。
暫くして、塁人と茜音が居間に戻ってくる。茜音はめそめそと泣いていて、塁人は困ったような表情を浮かべている。
「加耶……帰ってくるなり、茜音が泣き出して。何かあったのか?」
私は雑誌を閉じて、ソファから立ち上がる。冷たく笑おうと思う。……アマノの真似をすればいい。どこか氷のように冷ややかな笑顔を、浮かべればいい。
「私が茜音のことを無視しているの。だから泣いているんじゃない?」
その言葉に、塁人は呆気に取られたように目を見張った。彼は今も涙を流している茜音のことを見て、それからゆっくりと首を横に降った。
「……何でそんなことをするんだ。茜音が何か悪いことをしたとしても、そういう怒り方はよくないと思うぞ」
「別に、茜音は何も悪いことをしていないわ。私がただ無視したいから、無視しているのよ」
塁人は私の言葉に、驚いたような傷付いたような表情を浮かべた。そんな彼の姿を見るだけで、私の心は刻まれていくようだった。透明な血が、伝っていく気がした。
でも……こうでもしないと、二人は私のことを、嫌ってくれない。
自分の気持ちに蓋をするように、私は残酷な言葉を紡ぎ続ける。
「……本当は私、二人のことなんか嫌いだった。ずっと、ずっと嫌いだった。今までは、その気持ちを隠してたの。でももう、限界よ。私は貴方たちとなんて、一緒にいたくない」
茜音の嗚咽が、どんどん大きくなっていく。塁人は何か言いたそうに、俯いている。
この場所にいるのが、もう耐えられなくなってしまう。
私は二人を残して、居間から出る。廊下を足早になりながら歩く。自分の部屋に戻って、鍵をかけてから電気を点ける。そのまま座り込んで、溢れてしまう涙を必死になって拭いながら、声を殺して泣く。
「これで、よかったのよね……」
私はそうやって、ぽつりと呟く。
「どうなんでしょうね?」
目の前に、アマノが立っている。耳に付けられた幾つもの銀色のピアスが、電灯の光を浴びて冷たく輝いている。
「……よかったのよ。だってこうすれば、きっと、二人は……」
アマノは薄く笑って、私のことを見ている。その笑顔は何か言いたげだったけれど、私はそれを聞く気はないと、目で伝える。
寒いなと、ふと思った。
世界が段々と、秋に染まっているようだった。
*
翌朝になって、私は居間のテーブルに一枚の紙を置く。
それは予め用意しておいた、離婚届だった。自分で書けるところは書いたから、あとは塁人が残りを記入して、区役所に届けておいてくれればいい。
私は荷物を仕舞い込んだスーツケースを持って、家を出る。涼しい空気が、身体を包み込む。
いつかのように、ガードフェンスにもたれかかっているアマノがいた。
彼は私の姿を見ると、そっと微笑んだ。
「ご一緒してもいいですか?」
私は少しの間逡巡してから、ゆっくりと頷いた。
「構わないわ」
アマノは小さく一礼して、私と並んで歩き出した。
*
駅の改札を、アマノはすっと通り抜ける。私はICカードをタッチしてから、彼へと尋ねた。
「アマノ、タッチしないで入れるの?」
「ええ。ちなみに俺の姿は今、貴方にしか見えていませんよ」
「そうなんだ……すごいわね」
「これくらい、俺みたいな輩でしたら普通にできる芸当ですから」
私たちは下りのエスカレーターに乗って、駅のホームへ向かう。
「……そういえば結局アマノって、何なの? 死神? 悪魔?」
「俺ですか? 貴方たちの認識に近いものでしたら、堕天使ですかね。昔は天使だったんですよ、俺」
「そうだったの? 似合わないわね、天使……」
「ひどいなあ」
言葉とは裏腹に、どこか楽しげな様子でアマノは笑う。
「まあ、堕天使? っていうのは似合ってるわね」
「そうですか? 何よりです。ところで加耶さん、これからどこに向かうんですか?」
「……内緒。アマノは付いてくればいいのよ」
「ふうん、そうなんですね。まあ話したくないのであれば、別に言う必要などありませんけれど」
ホームに到着するのとほぼ同時に、電車がやってくる。
私とアマノはゆっくりと、車両に乗る。
朝が早いからか、人はまばらだった。この人たちにはアマノの姿が見えていないのだと思うと、どこか不思議な心地がした。
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