第2話 記憶屋・豊来


「エン、お兄さん」

 たどたどしい口振りで言葉を紡ぐリタにエンは擽ったそうに笑い声を返した。

「普通に呼び捨てでいいんだぞ」

 リタの手足の怪我を確認しながらエンは言葉を続ける。

「歳も同じくらいだろうし」

 その言葉にリタの肩が僅かに跳ねた。見た目と同じだけの年月、時間に伴う記憶がリタには無いのだ。通常、二十歳になるまでは急速に成長するがその先は緩やかに外見が変化していく。成長も老化も個人差が大きいため、エンにとっては誤差の年齢差に見えるのだろう。あるいは、記憶が欠けることなくこの身に宿っていれば、エンと躊躇いなく呼べただろうか。

 僅かに俯いたリタに気付くことはなく、エンは身を翻す。

「救急箱とってくるからちょっと待っててくれよ」

 動揺して反応が遅れてしまった。浅く頷き返すとエンはカウンターの奥に消える。

 背中を目線で追いかけると机の奥に布がかかっていた。その向こうにスタッフ用のスペースでもあるのだろう。

 背中を見送ったリタは大人しく座ったまま店を見回した。壁にはポスターや料金表のようなものが張り巡らされている。騒がしい感じはあるが不思議と引き込まれる配置だ。

 その中で判を押したように繰り返し書かれてる言葉を見つける。

「めもりーしょっぷ……?」

 両親に連れて行ってもらった大型店舗にそんなものがあった気がする。興味がなかったから素通りしてしまったけれど。どんな施設だったか両親に聞いてみればよかったと今更ながら後悔する。

「おまたせー」

 しばらくして戻ってきたエンは小脇に救急箱を抱えていた。片方には綺麗な布と水の入った大きなペットボトルが握られている。その視線がリタの足元に吸い寄せられて止まった。

「お前、靴どうしたんだ?」

 慌てて視線を落とすと確かに自分の足は傷だらけでみすぼらしい。思わず足を隠そうと手を添える。いつから靴を履いていないのか、どんな靴を履いていたかもあやふやだ。最初から裸足ではなかった証として靴擦れがあるだけ。

「足痛くて、脱いじゃいました」

 嘘だ。

 本当のことを話して信じてもらえる保証もない。疑われて嫌われるくらいなら間抜けな浮浪者でいい。

 リタがそう返すとエンは暫く黙り込んでしまった。

「俺の昔の靴で良ければやるよ」

 リタの嘘に気付いていないのか、あるいは気付いたうえでの発言なのかは判断が難しい。どちらにせよ、エンがそれ以上深く尋ねてくることは無かった。

 その優しさに誠実さで返せない罪悪感でリタの瞳が僅かに潤む。

 エンはペットボトルの水で布を濡らすとリタの足を丁寧に拭き始めた。最初は冷たさに怯んだリタだったが徐々に体温が移っていく。綺麗になった足はと言うと、こんなに怪我をしていたのかと思うほど傷や痣が出来ていた。まだかさぶたになりきっていない傷に消毒液を噴霧していく。

「次は腕だな」

 リタの手首には先程の男に掴まれた時の痣が生々しく残っていた。エンの目元が僅かに険しくなる。布をたたみ直し綺麗な所でリタの細い腕に触れる。腕にも無数の切り傷や擦り傷、痣が出来ていた。傷口から性質タチの悪い雑菌が入ればいよいよ笑えない自体になりかねない。むしろ今まで運が良かった方だ。

「痛かっただろ」

 緩慢な動作でリタは首を縦に振った。

 だが、とリタは怪我の手当をするエンの顔を見つめる。どうしてあなたが痛いのを我慢するような表情をするんだろう。その疑問をそっと飲み込むとリタは傷だらけの自分の腕を見下ろした。転んだ時の傷も、溝に落ちた時の傷も、雨に打たれた時も、痛くて寒かった。その痛みが今ほんの少しだけ和らいだ。

 ぱたり、とリタの膝に雫がこぼれ落ちる。

「消毒液滲みたか?」

 体ごと否定すると、リタはぼろ布に顔を押し付けた。声を押し殺して眦を強く抑える。これ以上泣いたらきっと迷惑を掛けてしまう。

 努力の甲斐あってか、深呼吸を一つすると涙は止まっていた。

 その様子を見守っていたエンはふと湧き出た疑問を口にする。

「そういや、お前家出でもしてきたのか?」

 リタが小さく身じろいだ。

「親御さん心配してんじゃねーの?」

 家でしてきた訳では無いはずだ。急に消えて両親はきっと心配していることだろう。だが、帰り方もどうすればいいのか分からない。

 ちらりとエンを一瞥する。話してしまっていいのだろうか。彼が優しい人であることは僅かな時間でもよく分かった。頼ってしまっていいのだろうか。

「帰り方が、分からないんです」

 気がついた時にはそうこぼしていた。慌てて口を抑えてエンを見上げる。

 最初は胡乱げだったエンの表情がにわかに曇った。顎に手をあて考え込んでしまっている。

 冗談だと笑い飛ばしてしまおうとリタが口を開きかけた時、同時にエンも顔を上げた。

「何があった?」

 真摯な眼差しだった。

 慌てておもちゃ箱をひっくり返すように記憶を手繰る。

 初等学校の帰り道に攫われたこと。車の中で男たちに囲まれた気がするけれどいつの間にか逃げ果せていたこと。上手く動かない体に違和感を感じて水たまりに写った自分を見て驚いたこと。頼るあてもなくて路地裏をさまよっていたこと。

 言葉を探しながら、不安に耐えながら言葉を紡ぐ。飛躍する話も、どう説明したらいいのか分からない支離滅裂な話も、エンは笑うことなく耳を傾けた。

「私の体大きくなってるし、ここがどこかも分からなくて」

 リタの声は少しづつ湿っていく。改めて言葉にすると何が起きたのか明確になる。普通では無い。どうやったら帰れるか見当すらつかない。

 不安が膨れ上がって喉を詰まらせる。止まったはずの涙がぽろぽろと頬を滑った。

「おうち、かえりたいんです」

 願いはそれだけだ。

 それだけ零すとリタは顔を覆った。泣くのは無駄以外の何物でもない。水分だけではなく体力も奪われていく。だから路地裏で目を覚ましてから今までずっと泣かないようにしていたのだ。それももう限界だった。

 押し殺すように泣く少女をエンはゆっくりと抱き寄せた。腕の中に収まってしまうほど小柄なリタの頭を撫でる。

「一人でよく頑張ったな」

 鋭い喘鳴が一つ迸ったかと思うと、我慢の限界だったのか声を上げて泣き始めた。エンの胸に顔を埋めるように肩を震わせる。

 一人で放り出されて途方に暮れても、声を掛けてくれる誰かが現れることは無かった。虚ろな目の路地裏の住人ばかりで、誰を頼ればいいのか分からなかった。一人ぼっちの知らない世界に放り出されて、ようやく人を見つけた。

 抱えていた不安が少しずつ泡になって消えていく。

 一頻り泣いて気持ちが落ち着く頃には日が傾いてしまっていた。

「さっき体が大きくなってたって言ったな?」

「嘘じゃないんです」

「疑ってねぇよ」

 おもむろにリタの頬を包むと、まだ涙が乾ききっていないのにむにむにと揉んで遊び出す。

 エンの手は少し冷たくて心地よい。それはそれとして何をするんだ、と抗議の視線を送ったがスルーされてしまった。

「で、リタちゃんは何歳なのかな?」

 先程、怪我の手当の時とは明らかに異なる口調だった。小さい子供を相手にする時の声音を少し高くした抑揚のある話し方だ。

 癪に触ったので唇を思いっきりへの字に曲げる。が、黙ったところでどうしようも無いのでしぶしぶ口を開いた。

「十歳です」

 リタの年齢を聞いた瞬間、エンの瞳が鋭く細められた。だが、それもほんの一瞬ですぐに三日月に戻る。

「じゃあさ」

 ようやく解放された頬を確認しているとエンが一つ提案を出した。

「今日はうちに泊まっていけよ」

 渡りに船の言葉だった。願ってもない提案にリタの瞳が輝く。そのまま頷きそうになった首に待ったをかけて、自分の格好を見下ろした。見てくれもみすぼらしければ、その通りの無一文だ。甘い話に裏があることは十歳のリタでも分かっている。

 そんな警戒の視線に気がついたのか、エンは一つ咳払いをするとポスターの一枚を指し示した。

「ここは記憶屋っていう店なんだ」

 記憶屋とは自分の記憶を売ったり消したり、誰かの記憶を娯楽として売買が出来るところだ、とはエンの説明である。そして時々現れるのだそうだ。記憶を抜き取られ、自分が誰かも分からない状態で発見される人間が。

 そういった人間は自治組織である領事局か記憶屋が身柄を預かることになっている。

「それってつまり……」

「お前を追い出したり粗末に扱うと俺が怒られるってわけ」

 不慮の事故、ないしは第三者が意図的に記憶を奪ったとされる者に気づいた場合は速やかに領事局に申し出る事。その身柄を保護する事。記憶屋を開業するにいたって守らなければいけない規約の一つだ。

 それらを無視すると同業者からの圧力や領事局から許可証の剥奪といった処分が下る。

 だが、あいにく今日は既に日が傾き始めている。今から領事局まで行ったところで到着とともにシャッターが閉まるような時間だ。

 最低でも今夜一晩リタを泊めなければエンが怒られてしまう。

 ついでに、とエンが言葉を続けた。

「なくなっちまった記憶も帰ってくるかもしれない」

 記憶は金になるのだ。リタが何故記憶を奪われたのかは分からないが、状況によっては売りに出されている可能性がある。

「パパやママにも会えますか?」

 記憶が戻ってくるのは嬉しい。だが、リタにとってはそれよりも最重要な事だった。

 虚を突かれたように数回瞬きをしてエンは笑みを深くする。

「きっとな」

 リタはソファから勢い良く立ち上がると深々と頭を下げた。

「よろしくお願いします」

「おう」

 二つ返事で承諾するとエンは改めてリタの格好を見下ろす。雨よけのシーツは埃臭さが目立つものだし、臭いもリタくらいの年齢の少女がさせていいものではない。

「まずは風呂だな」

 着いてこいと言外に告げるとエンは店の奥に向かっていく。案内されるままに背中を追うと掃除の行き届いた洗面所にたどり着いた。

「使い方は分かるか?」

 そう言いながら開け放たれた浴室はシャワーと浴槽が別に備え付けられているタイプだった。エンが使っているであろうソープ類も秩序然として並んでいる。

「お、お借りします」

 掃除が行き届いていることから彼が相当の綺麗好きだと察せられる。リタの今の格好はお世辞にも清潔とは言い難い。汚してしまわないだろうか。

 そうおそるおそる尋ねると本人はあっけらかんとしていた。

「気にしねーよ、また掃除すりゃいいんだし」

 そういうものだろうか。リタが心の中で呟いているとエンに手を握られた。体温は同じくらいだが若干彼の方が温かい。

「そんなことより、ちゃんと温まってこいよ」

 言いたいことは言ったとばかりにエンは洗面所の扉を閉めて出ていった。

 握られた手の温かさが消えないように胸に押し付ける。運が良かった、優しい人に出会えた。再び滲んだ視界を誤魔化すように乱暴に眦を拭って顔を上げる。

 シャワーのひねりを回すと温かいお湯が降り注いだ。冷たい水でも綺麗な水が浴びれるだけでいいと思っていたリタにとっては思わぬ朗報だった。嬉しさのあまり顔が綻ぶ。

 髪は思った以上にホコリやゴミを絡めとって傷んでいたし、体は泡が茶色くなるほど汚れていた。

「わあ……」

 排水溝に消えていく濁流を見送りながらリタは思わず感嘆の声をこぼす。 

 服の比較的綺麗なところを割いて髪を結い上げると湯船に肩を落とした。痛いくらいに染みていく熱さが心地いい。

 少し微睡んでから浴室を出るとタオルと一緒に真新しい着替えが置いてあった。「記憶屋メモリーショップ豊来ほうらい」のロゴが印刷されたそれはどう見ても施術着だ。けれど、きちんと洗濯されたもののようで、いい匂いがする。

 タオルで髪を拭きながら人の気配を頼りにエンのところへ急ぐ。

「あの、ありがとうございました」

 リタに気づいたエンは顔を上げた。

 髪は光の加減で金髪にも見える亜麻色。煤汚れて見えた頬や手足も健康的な白さが顕になった。きちんと体を温めて来たため頬は淡い薔薇色に色づいている。汚れた野良猫を拾って風呂に入れたら白猫だったような気分を思い知った。そんな雑念を咳払いで追いやるとリタの頭を乱暴にわしわしと拭く。急いできたせいか吹ききれていなかったらしい。

「着替え、そんなのしかなくて悪いな」

 申し訳なさそうに眉を落とすエンの言葉を否定するように首を横に振る。

「きれいな服ありがとうございます」

「どういたしまして」

 そして、リタの視線はエンから流れて食卓に釘付けになった。 

 湯気を立てる鍋には玉子粥。豆が主に使われたオリヴィエサラダに肉団子が二種類。照り焼きとトマト煮込みのようだ。

「食えないものあるか?」

「とっても美味しそうです」

 食い気味の返事だった。漏れ出る腹の虫の悲鳴と肉食獣のような爛々とした瞳。相当空腹だったのだろう。喉の奥で笑いながらエンは冷蔵庫からペットボトルを出す。お茶のラベルが貼られた未開封のものだ。

「いただきます」

 取り分けた玉子粥を一口食べる。少し熱くてまごついてしまったけれど、久し振りの食事は涙が出るほど美味しかった。どれもこれも初めて食べる味なのにどこか懐かしい。

 冷めないうちにと焦るリタの肩にエンの手が乗った。

「ゆっくり食えよー」

 気を使ってなのか気配が遠のく。

 一通り平らげると今度は睡魔が襲いかかってきた。寝てはいけない。お礼もこの後の話もまだしていない。そんな意志と裏腹にまぶたが重くなる。

 ああ、でもとリタは緩やかに机に突っ伏した。きっとエンが起こしてくれる。そう信じて睡魔に白旗を上げたのだった。

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