第3話 これからのこと

 瞼を灼く眩しい光に目を開けると朝になっていた。見慣れない天井を訝しみながらリタはその身を起こす。

「あれ、わたし………」

 柔らかいベッドも整理整頓された物の少ない部屋もリタにとっては見覚えのないものだった。まだ覚醒しきっていない思考でを働かせ、昨日の事を思い出す。

 いつものように起きて路地をさまよっていたら男に追いかけられた。その追いかけられた先、たまたま入ったお店で食事と風呂にありつけた。夢のような一日だった。否、リタは慌てて自分の頬をつねる。痛い。

「そっか、あのまま寝ちゃったんだ……」

 入浴後で温まった体と満腹感、何より張り詰めていた緊張が解けたことで溜まった疲労が溢れた。そんなリタを見つけたエンは起こすのではなくここまで運んで来てくれたらしい。

 その事に思い至ったリタは弾かれたように顔を上げる。

 キッチンの方向から物音とパンの焼ける香ばしい匂いがしているのだ。時計は十時を指し示している。早朝とは決して言えない時間だ。思いっきり爆睡していたらしい。ドアを開けた先が見慣れた廊下だったことが幸いした。急いで顔を洗ってリビングに走る。

 リビングではエンがコーヒー片手に新聞を読んでいた。足音でリタが来たことに気づいたらしく顔をあげる。

「おはようございます!」

 腰を直角に曲げる勢いでリタは頭を下げた。どんな叱咤が飛んでも受け止める覚悟で瞼を固く閉じる。だが、リビングはしんとした静寂のまま、怒号が耳をつんざくことは無かった。代わりに小さく笑う声が耳朶を叩く。

「おはよーさん」

 リタがおそるおそる顔を上げるとエンの背中が見えた。

「飯、出来てんぞ」

 食卓の上には目玉焼きが乗ったパンが鎮座していた。同じ皿の脇にミニトマトとレタスのこじんまりとしたサラダ。腹の虫が歓喜の声をあげた。

「飲み物は何にする?」

 リタにも見えるよう開かれた冷蔵庫のドアポケットには水とオレンジジュースと牛乳が並んでいる。

「牛乳、で」

 リタがそう答えると皿の隣に牛乳が注がれたコップが並ぶ。

「いただきます」

「ん」

 リタがトーストを咀嚼している間、エンは対角線になる席に座って新聞を開いていた。

 新聞の日付はリタが認識している日付より五年以上は経過している。ショックは大きいが、半熟の卵がとろけるトーストがいくらか中和してくれた。さすが三大欲求の一角である。

「ごちそうさまでした」

「はい、おそまつさん」

 エンが食器を洗う音を聞きながら、リタはテーブルの上に置かれた新聞を眺めた。父が読み終えたあとのそれで色々遊んだものだとぼんやり振り返る。

 局長が打ち出した新しい政策で豊かになった、新商品が発売された、新しいお店がオープンした。そんな華やかな話題で覆うように、殺人暴行、マフィアの暗躍と思わしき事件が数枚の紙にひしめき合っていた。

 リタの幼い記憶にあるニュースや新聞は動物園で赤子が生まれた話や面白い特技を持つ人の話などがほとんどだ。ずっと優しい世界で生きてきたのだと嫌でも気付かされる。

 いっそ、自分は幼い頃に死んでいてよく似た他人の体に入ってしまったなんて話であれば思う。頭のどこかで「それは違う」と訴える声を無視出来ればの話だが。

「で、お前のことなんだけどさ」

 思考の底にいたリタの意識がぱっと浮上する。そして昨日の失態を思い出した。

「昨日は寝ちゃってごめんなさい!」

「よく眠れたか?」

 エンは淡く微笑みながら首を傾ける。余裕のある大人然とした雰囲気に呑まれる度に自分はまだまだ子供なのだと痛感してしまう。

「ぐっすりでした……」

「そりゃよかった」

 深くなるエンの笑みにリタの鼓動が一際大きく高鳴った。惚けてしまった思考を頭を振って戻す。

「まずは早速、領事局に行こうと思ってる」

「りょうじきょく……?」

 聞き慣れない言葉にリタは小首を傾げた。だが、それは折り込み済みだったようでエンは言葉を続ける。

「お前がどこの人間なのか調べる」

 切り込まれた言葉に心臓が跳ねる。自分の事すらよく分かっていないのだ。専門的に調べられる所があるなら行って損は無い。

「捜索願いが出されてる人間の中にお前がいるかもしれないからな」

 行方不明届が出されていればその履歴や名前からおおよそ特定が出来る。だが、それを確認できるのはごく一部の領事局の人間だけなのだ。

「それを調べに行く」

 一般市民であるエンやリタの身分では閲覧も照会も出来ない。だが閲覧出来る人を頼って行方不明届が出ているか確認することは許可されている。

「分からなかったら………?」

「領事局次第だが、向こうで暮らすかここで俺と暮らすかだな」

 領事局は住民の戸籍管理から街を荒らす狼藉者の捕縛まで幅広く行っている、ここ一体の自治組織のことだ。その中にはリタのような記憶を無くした者の保護、自立の手伝いまでを支援する部署がある。本人が希望すればその部署が管理する更生施設への入居が許可されるのだ。

 だが、全てを受け入れていては部屋も足りず財政も傾いてしまう。そのため民間企業に委託することがいくつかある。餅は餅屋。リタのようなケースの場合、領事局から協力的と判断された記憶屋に身柄が預けられることもある。

 これは領事局にリタの情報があってもなくても選択できる事だ。

 言葉を噛み砕いて選びながらエンはリタにそう説明した。

 だが、とリタは唇を噛む。ここに放り出されて、初めて優しくしてくれたエンと離されるのは心細い。領事局という場所のことも行ったことがないからどんなところか分からない。

 リタの瞳にはそんな心細さが滲み出ていた。

「別に領事局行ったらハイさようならじゃないんだ。そんな顔すんな」

 そんな言葉に目に見えて安堵するその表情はやはりどこか幼い。手足の傷が路地裏の放浪中で負った傷だけならばいいとエンは思った。リタの記憶が無い以上、領事局預かりになるとしてもカウンセリングなどで顔を合わせることがある。記憶が戻らずともせめて家に帰るまでは見守ってやりたい。

 物憂げに長めのため息を着くとエンは椅子から立ち上がる。

「じゃあ行くか」

「よろしくお願いします」

 勢い良く立ち上がったものの、リタは自分の格好を見下ろして動きが止まった。リタの服は施術着のままなのだ。

「とりあえず、これ着とくか」

「ありがとうございます」

 見かねたエンが豊来のロゴ入りの上着を差し出す。靴は昨夜リタが寝ている間に見つけておいた。どちらもオーバーサイズではあるが今の格好のまま出るよりマシだ、多分。

 外に出た瞬間、強風が二人を襲った。風に誘われるようにリタは空を見上げる。その目が不思議そうに瞬きを繰り返した。

 リタの目に止まったのは街から遠くに浮かぶモノだった。それは継ぎ目などが一切見られないのっぺりとした銀色で、楕円形の形をしている。否、地上からは楕円形に見えたとしても下から見た形は違うかもしれない。その大きなモノは空に架かった橋の上をゆっくりと移動している。

 空に橋のようなものがかかっていることはリタも気づいていた。だが、「それ」には全く気が付かなかった。空を見る余裕なんてなかったからだろうか。

「エンお兄さん」

「んー?」

 施錠確認をするエンの上着の裾をつまんだ。振り返ったのを確認すると空を指差す。

「あれ、なんですか」

 リタの指差す方向にあるそれを見てエンは瞠目した。あれはエンが幼少の頃から存在するものだ。この街、否、地球で生きているものは常識としてその存在を知っているもの。それをまるで初めて見るかのように尋ねるリタに驚いた。

「あれは宙船っつーんだけど」

 聞き慣れない言葉にリタは首を傾けた。そらふね、と自分でも確認するように呟いて記憶を手繰る。その表情は決してエンをからかっているようには見えないものだった。

「見た事無いか?」

 リタは悲しそうに目を伏せると首を横に振った。考えられる可能性にエンの表情が曇る。

「そう、か………」

 眉間にシワが寄る。ともするとリタが年齢を告げた時よりも真剣な表情だ。ぶつぶつと何か呟いているようだが、リタの耳には音の羅列のようにしか聞こえない。

「あ、の………」

 何かおかしなことでも言ってしまったのだろうか。不安げに眉根を寄せるリタだったがすぐに言葉を引っ込める。

 そんなリタの様子に気づいたのかエンが顔を上げた。

「とにかく行くか」

「はい」

 疎外感を押し付けるようだった景色がエンの隣を歩いているだけだというのに全く違うものに見える。

「やっぱり記憶にないか?」

 後ろから掛けられたエンの声は気遣わしげな色をしていた。

 見た事のない街並みは新鮮で美しいと感じる。目が覚めた場所もようやく前を向いて歩けるこの道も懐かしさは感じられないのだ。

「ない、です」

 すっかり足が重たくなってしまったリタの足が止まる。エンがそんなリタの背中を押して前を向かせた。顔を上げる寸前、「悪かった」と囁くような声が降ってくる。顔を上げると声の主は苦笑気味に銀色を指さしていた。

「そういえばアレについて聞きたいんだったな」

 曰く、むかし世界には今より沢山の人間たちが今より沢山の“国”という括りの中で生きていた。だが、枯渇する資源と増えすぎた人口から戦争が起きた。なまじ技術があっただけに、瞬く間に人が死に大地は荒廃した。

 人口が減りすぎたことにより戦争というイベントは消滅した。荒廃した大地で何とか命を繋ごうと奮闘した結果、人間は二百年を超える寿命を手にした。

 そうして少しずつ再びの繁栄を始めた人間だが、荒廃した大地に、それらを作ったかつての先祖たちの所業に、恐怖を植え付けられた人間は少なくない。その恐怖を払拭するために、人間は地に残る者と空に新天地を求める者に別れた。

 宙船とは後者を選んだ者たちが住むコロニーのことだ。赤道線上を主な軌道ルートとし、縦横無尽に航路をひいた巨大な飛行船。空にかかる橋がその航路にあたる。中は人間にとって過ごしやすい環境が整えられているとの触れ込みだ。気候操作、気温操作などは当たり前で病気とは無縁。学問や芸術が芽吹く豊かな此岸の楽園。

 対して地上は宙船と貿易を開くためのパイプラインがそびえる三箇所を中心として栄えた。豊かな大地から食文化が花開くアメリアナ、色彩鮮やかな景観から独自の文化を発展させるヨロパス、そして寒暖差の穏やかな地域で機械産業に力を入れるここ、エイジェン。この三つは三大宙港と呼ばれ、ぞれぞれに領事局が存在している。役割としては宙船と地上の仲介、及び地上の住民たちの生活の補助を行っている。よほど戦争に懲りたのか国という概念を継承するところはなく、「港」と言う呼称が用いられている。

 ちなみにこの三つ以外にもひっそりと存在する集落や民族が存在しており、把握しているだけでも五十はくだらない。

 エンの説明に耳を傾けるリタの表情は興味津々といった表情だ。やはり、地上こちらでは常識として学校に入る前から知っているようなこともリタにとっては初耳らしい。

 気取られぬように奥歯を噛み締めて息をつく。

「で、あれが領事局な」

 空にかかる航路を支えるように伸びた柱。その傍らで寄り添うように佇む煉瓦造りの建物が領事局だった。本当に人工物かと疑うような天空の柱と素朴な佇まいの建物。そのアンバランスさに呆気に取られてしまうな風景だ。

「リタ?」

「はいっ!」

 エンの声でリタは自分が立ち尽くしていたことに気づく。反射的に飛び出してしまった大きな声にエンの目が大きく見開かれた。一呼吸ほどの間を開けて沈黙を笑い飛ばす。

 大きく口を開けた珍妙な建物の中に二人は足取り軽く入っていったのだった。



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