陽だまりの中で出会った人は
第1話 一筋の光
漠然とした不安の中を駆けていた
ビルの隙間、ネズミが我が物顔で徘徊するそこで少女・リタはやっとの思いで息をしていた。
靴擦れの跡が残る足は切り傷や擦り傷だらけ。あちこち引っ掛けてボロボロな服は煌びやかだったことが予想される露出の多いドレス。泥や汗にまみれてボサボサの髪に、ぼやけた空の色を思わせる空色の瞳。華奢だが女性としては成熟しつつあるすらりとした手足。
それらの全てにリタは怯えていた。
自分の体を含めた全てがリタにとっては異様なものだったからだ。
リタの記憶では自分の歳はようやく十歳を数える年齢だった。数日前に両親に誕生日を祝ってもらったから間違いない。いつも通り学校から自宅までの帰り道に鼻や口を圧迫され気を失った。覚えているのはそこまでだ。
その後、目を覚ますとそこは車の中だった。前方の席と両脇を男に囲まれている。悪寒と恐怖で悲鳴を上げそうになると口を押さえつけられた。体をまさぐられ、悪寒の正しさを思い知る。死に物狂いで抵抗し、どうにか逃げ延びて来たのだ。追いかけてくる様子はなかったが、安心とは程遠かった。もし、他の人も同じように襲いかかってきたらどうしよう。一度不安になるとどうしてもそれをぬぐい去ることは出来ず、人通りの多いところに出るのは躊躇われた。
見つかったらもっと酷いことをされるかもしれない。
それから必死に息を殺して生活していた。自分の容姿の変化に気がついたのもその時だ。
自分の身に何が起きているかすら分からない。それがとても怖い。
ふと、肩にあたった滴でリタは慌てて周囲を見渡した。
もう日は傾いてきているのか周囲が徐々に暗くなってきていた。加えてこの天気であれば夜に雨が降る。濡れたら寒いし、なによりこの雨はずっと当たり続けると痛いのだ。せめて屋根のあるところにいかなければ。
「きゃっ」
走り出そうとした足がなにかの管にあたってもつれた。
傷がまた増えた。痛みと不安で涙が滲む。
「知らない……」
嘲笑うように野良猫がリタを見下ろしていた。しばらく見つめていると興味を無くしたのか踵を返す。相手は動物のはずなのに、冷たい瞳が鋭利にリタの心に刺さった。
「わかんない………」
こぼれ落ちた涙が手のひらに落ちて弾ける。ふと、その傍らに滴が落ちた。ぽた、ぽたと数滴だったそれがやがて数を増し、降り注ぐ。
「いたい………っ」
本当はうずくまって泣きじゃくっていたい。けれど、誰も助けてくれないから動くしかないのだ。
どうにか身体を起こし、ろくに力の入らない足で移動を再開する。
運良く数枚のトタンを見かけた。決して大きくはないがリタの体格なら縮こまってしまえば気にならない。そう思ってひっくり返すとその裏側には黒い何かが付着している。視線を奥に動かすと、人の死体のような黒い影があった。その周囲にはじんわりとシミが出来ているようだった。このトタンに手をかける形で。
「うそ、でしょ………」
匂いもない、人の形をしているが本当に人が死んだあとなのか分からない。分からないはずなのに、人の遺体の痕跡だと瞬時に理解していた。理解してしまった。鼓動が早鐘を打つ。
気がつくとトタンを放り投げて駆け出していた。長時間当たり続けた弊害か体のあちこちに痛みが走る。それでも足は止まらなかった。
遺体の痕跡が怖かったのではない。明日は自分の姿になるかもしれない。そんな恐怖がリタにまとわりついていた。不安を振り払うように走る。
家に入るといいと勧めてくれる人も、傘を差し出してくれる人もいない。
気がつくとリタの喉は熱くなっていた。打ちつけんばかりの雨音がかき消す中でリタはがむしゃらに走った。
どれほど走ったのだろうか。疲労と空腹で徐々に速度が出なくなる。ふと、視線を動かすと空き家になった商店が目に付いた。覚束無い足取りで店の中に侵入する。
「パパ、ママ……、どこ…………?」
弱々しい声がリタの口からこぼれ落ちる。問の答えを探すように、リタは意識を手放した。
しあわせなゆめをみた。
暖かい毛布があって、優しい両親がいた。労いの言葉と、目の前にご馳走が並んでいる。けれど駆け出した瞬間、闇の中に放り出されるのだ。
弾かれたようにリタは目を開いた。
小鳥のさえずりが風に乗って聞こえてくる。夜が明けていた。
視線をさ迷わせるとホコリにまみれた木枠が並んでいることに気がついた。リタの記憶の中では駄菓子屋が一番近いだろうか。人の痕跡も気配もない。既に閉店してしまって長いのだろう。何か食べるものが残っていなるかもしれないと一縷の希望が差す。だが、すでに探られた後なのかくず一つ残ってはいなかった。
代わりに薄汚れた大きい布を見つけた。所々にシミができており、穴があきそうな箇所はあるが雨避けや顔隠しの意味なら十分だ。辺りを見回しても、視線がかち合う生き物はいない。
「もらっていきます」
誰もいないとはいえ、なんとなくそう声をかけると早速布を羽織る。丈としてはリタの膝下ほど。顔も隠せる丁度いい大きさの布だ。思わぬ掘り出し物にリタの表情が明るくなる。
調子に乗って空腹を訴える腹の虫を黙らせるために、まずは食べ物を探しに行かなくては。
ぼろ布は埃臭く、はたから見たらリタは不審な浮浪者だ。人を遠ざけられるからかえっていいのかもしれない。そう思っていたから油断した。
「おい」
男の声が聞こえた。自分ではないだろうと結論付け、一度止めた足を動かす。その刹那、ぼろ布ごと髪が引っ張られた。
「きゃ!」
「おいっつってんだろうが!」
男が声をかけていたのはリタだったらしい。ついでに顔を隠すように被っていた布が取り去られ、額を風が撫でる。
互いに互いを凝視して間が空いた。
刹那、男の手が緩んだ。その隙を逃さず距離を取ると生理的に感じる嫌悪感のままに布を被りなおす。上目遣いに男の様子を確認すると、三日月に歪んだ唇を舌なめずりしていた。車の中でリタに襲いかかった男たちと同じ笑みだ。背筋を氷塊が滑り落ちる。その油断に付けいられ今度は顎を掴まれた。赤ら顔の口臭に思わず顔を顰める。
「やっぱり可愛い顔してんじゃねぇか」
長期間の空腹に加え、長距離を駆け抜けたリタの体には限界が近づいてきていた。けれど、ここで諦めてしまえばもっと酷い目にあう。そんな直感がリタを突き動かした。
「や、だ……離してっ」
やっとの思いで男を突き放して距離をとる。逃げようと踵を返すも手首を掴まれ壁に押し付けられてしまった。懸命に身をよじるリタを見下ろして男は満足そうに嘲笑う。
「いくらだよ?」
なにを聞かれているのか分からずにリタは目を見開いた。否、正確には脳が理解を拒んだ。
「へ………?」
間の抜けたリタの返事に苛立ったのか、手首を掴む男の手が強くなる。壁と男との板挟みで肺が圧迫され呼吸が出来ない。
「いくらでヤらせるかって聞いてんだよ」
「いや!」
絞り出すように悲鳴をあげると、足に力を込めた。固く目を閉ざして上に飛び上がると鈍い音と共に痛みが走る。必死の抵抗だった頭突きが男の鼻に当たったらしい。呻き声と共に拘束が緩くなる。
好機とばかりに逃れると人の気配がする方向へ駆け出した。
強風に煽られ足が止まる。目の間に広がるのは賑やかな通りだった。すぐ近く、ほんの目と鼻の先にこんなところがあったのか。リタは呆然と辺りを見回す。
「痛ぇだろうが、クソガキィ」
男の声にリタは我に返った。振り返ると憤怒の表情を浮かべた男が距離を詰めてきているのだ。
「ひっ」
誰でもいいから誰か助けて。
あたりを見回すとひとつの店が目に付いた。営業中の看板が下がっているということは人が居るはずだ。店に駆け込んでドアを開く。足がもつれて勢いよく転んでしまった。
痛みを堪えながら顔をあげると机の奥の人影と視線がかち合う。くすんだ緑色の髪にまん丸に見開かれた瞳は真っ黒。歳の頃は分からないが、少なくとも二十歳は越えているだろう顔立ちだった。
助けて、と口を開きかけたところで再びドアが開く。
男が追いついたのだ。後ずさりしてもすぐに背中が壁につく。逃げようとしても壁とソファで袋小路になっているここではすぐに捕まってしまうだろう。せめてとばかりに顔の前で腕を交差させ防御の姿勢を取る。
ふと、視界に影が差したことに気がついた。だが覚悟していた大声も覆い被さる様子は無い。腕の隙間から様子を伺うと、リタと男の間に店員が立ちはだかっていた。
「おい、クソ野郎」
怒りと軽蔑が最大限込めらた声音が飛び出す。男の注意は店員に向けられた。
「あぁっ?」
男の声が店内に反響する。鼓膜を劈くような恫喝に店員は眉一つ動かさず睥睨を続けた。
「この子に何の用だ」
「関係無ぇだろ、そこどけ!」
男の手が店員に伸びる。押しのけようと腕に触れた瞬間、男の体が後方に飛んだ。背中を強打した男が呻きながら起き上がる。
「不法侵入と強姦未遂か?」
起き上がりかけた男を足蹴にしながら店員が見下ろした。酔いが覚めたのだろうか。逃げられないと理解した男の顔がみるみる青ざめていく。
「このまま下がるなら見逃してやるよ」
決して大きな声では無く、低く地の底を這うような声色だった。だが、効果は抜群だったようで悲鳴と共に男が出ていく。小物らしい呆気ない逃げ様だった。
その様子ををリタはぼんやりと眺めていた。正確には視界がぼやけてしまって焦点が合わない。手放しそうになる意識をほとんど意地で繋ぎ止めているのだ。
ため息とともに店員ががしがしと後頭部を掻く。身を翻して、一瞬だけ動きが止まった。見守っていると店員の影が大きくなる。
「大丈夫だったか?」
その声で一気に覚醒したリタが目を瞬かせた。こちらの様子を伺う店員の表情からは鋭利さが消え去っている。ありがとう、そう動いた唇に声が付いてこない。強ばってしまったのか、何を言おうとしても呼気が零れるばかりだ。焦れば焦るほど呼吸が浅くなる。
ふと、視界の隅で白いものが閃いた。慌てて顔を上げると淡く微笑む店員と目が合う。
「傷の手当、していいか?」
リタの前に手が差し出されていた。手を取ろうと上げた自分の手は真っ黒に汚れている。汚してはいけないと慌てて手を引っ込めてしまった。
店員は握られることのなかった手とリタを交互に見て一つ頷く。正面から隣に移動すると再びしゃがみこんだ。
「ちょっと失礼」
リタの背中と膝裏に手が回される。それに気がついたのもつかの間、床が遠のき店員の顔が近くなった。軽々と横抱きにされているのだ。
「あ、あの、汚れちゃいます!」
そうやく出せた声は思った以上に大きなものだった。
リタが身にまとっているのはどれくらい野ざらしになっていたか分からないボロ布なのだ。下ろしてもらおうと体を捩らせるが、リタのか弱さではビクともしない程度には力強い。
「えー、でも床冷たいだろ」
それは紛れもなくリタを気遣う言葉だった。そんな言葉を聞いたのは久しぶりで幻聴ではないかとつい店員を凝視してしまう。視線に気がついたのか店員と目が合った。黒曜石のような綺麗な瞳だ。見入っていると照れくさそうに店員が破顔する。精悍な顔立ちから一気に幼くなった笑みにリタの心臓の音が一際大きく高鳴った。
「女の子座らしたまんまも良くないしさ」
店員が向かっているのはすぐ近くに設置されたのソファのようだった。割れ物でも扱うかのように丁寧にリタを下ろす。
店員はリタに手を上げるつもりは無いのだろう。久しぶりの柔らかい感触に安堵のため息がこぼれた。そしてお礼を言っていないことを思い出す。
「さっきは助けてくれてありがとうございます」
掠れる寸前の声だったが、なんとか言葉を紡ぐことが出来た。ソファに座ったまま、それでも精一杯の感謝を込めて頭を下げる。
ぽん、とリタの頭に店員の手が乗せられた。そのまま、わしゃわしゃと撫でられる。
「どういたしまして」
笑みを深くすると店員はリタの前に跪いた。目線がリタより僅かに下になる。ただそれだけのはずなのに頬が熱くなる、鼓動が暴れ回っているようだ。
「わたし、リタ、って言います」
「俺はエン。一応、ここの店主だ」
そう言って目を細める屈託のないエンの笑顔も、思い出したように動き始めた胸の温もりもきっと忘れることは無いのだろう。リタは漠然とそう思った。
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