第12話 曇天
時を少し遡る。
エンを見送った後、リタはソファで記憶の視聴を楽しんでいた。選んでもらった記憶はどれも楽しめたが、静まり変えった現実に引き戻されるのだけはいただけない。また新たに記憶の視聴をするのも飽きてきたので機械をカウンターの決められた位置に片付ける。
特に深い理由は無く、カウンター内のエンがいつも座っている椅子に腰掛けた。店内が薄暗く感じるのはきっと今日が曇天なせいだけではないだろう。
手持ち無沙汰になってきたので棚に収納されている空のメレを一つ一つ磨いていく。メレはおろしたてのチョークを思い起こすような円筒状をしている。何も入ってない未使用の状態は傷一つない無色透明な物体だ。これに記憶を入れると細かい割れ目が入り、価値と種類に見合った色が付与される。これを専用のケースに入れて保管、管理し売買する。記憶入りの円筒は光にかざすときらきらと輝くのでリタはこの作業が好きだったりする。割れ目一つ一つに持ち主の思い出がこもっていると思うと磨く手にも力が入るというものだ。実際に力を込め過ぎると破損の原因になるためお気持ちで。
無色・色付きの両方を磨き終えてしまった。時計へ視線をくれると昼過ぎを指し示している。
エンはどこに行ったのだろうか。夕方には帰ると行っていたからそう遠くに行ってはいないはずだ。無理を行ってでも着いて行くべきだっただろうか。だが困らせたくないし、嫌われるのはもっと嫌だ。
ふと、閉店の看板の前に人の影が差す。その人物は一度立ち止まって店の中のリタを見つめるが思考の底にいるリタは気づいていないようだった。店のドアが開いた音でようやく顔を上げる。閉店の看板は下がっているが鍵自体は開いていたのだ。
「すみません。今日はりんじきゅうぎょうで……」
腰を浮かせたリタの瞳が音をたてて凍りついた。看板を無視して店内に侵入してくる男の態度はどこまでも物々しい。若々しい見た目だが立ち振る舞いからある程度年齢を重ねている事が見て取れた。金髪に黒の色が入った髪は無造作に揺れる。サングラス越しの若草色の瞳がリタを捉えて細くなった。
「随分可愛らしいことになってんじゃねぇか」
頭の中で警鐘が鳴り響く。逆らうなと理性が訴えている。本能は逃げろと叫ぶ。けれど、逃げ場なんかないこともよく知っている。
「だれ、ですか……」
やっとの思いでそう口にするのが精一杯だった。
青ざめたリタの声は分かりやすく震えている。男はその様子に目を見開くと楽しそうに肩を揺すった。
その一挙一動が、怖い。
「寂しいこと言うなよ、ジルヴィア」
寒気がするほどの猫なで声だった。震えそうになる体を押さえ込んで足に力を込める。
「わたしは、リタです」
この男を知っている。この男は知っている。その警鐘が何を意味するかは分からないが、言葉一つ行動一つ油断出来ないことだけは理解出来た。目をこらして全身全霊で男の動きに注目する。
「そーかそーか」
一瞬、リタを見る目が鋭くなった。氷刃を突きつけられたような感覚に身が強ばる。
男の手が上がった。身構えたリタだが、なにより音に驚いてしまった。けたたましい音と振動を響かせて銀色のアタッシュケースがカウンターに叩き落とされる。
リタが目を奪われた一瞬の隙に男の手が伸びてきた。亜麻色の髪を感触を確かめるように弄んだかと思えば、掴んで引き寄せられる。
「きゃっ」
「帰ってくる気になったら開けろ」
耳元で囁かれた言葉は甘く蕩けるようにリタの脳に染み込んだ。染み込んだ瞬間、毒となってじわりと思考を苛む。
「三日、気持ちの整理にやるよ」
身じろぎ一つ出来なかった。引っ張られた髪が、頭皮が訴えるはずの痛みを感じることが出来ない。
「待ってるぜ、俺の女神」
まるで凍りついてしまったように動かないリタを満足そうに眺めて男は帰って行った。
耳朶を叩く喘鳴が自分の呼吸音だと気づくまでに、果たしてどれほど時間が経っていたのだろうか。カウンターに手をかけると同時に足の力を地面に吸い取られる。冷たい床、冷たい空気、冷たい指先。
助けてと唇が動く。その後に紡ぎそうになった名前を慌てて手で抑える。呼んではダメだ。言葉の代わりに涙が滲む。
ふと、視界に影が差した。リタの背筋を氷塊が滑り落ちる。まさかさっきの男が戻ってきたのか。
だが、振ってきた声はあの男の妙に甘ったるい声ではなかった。
「リタ!」
「ぉ、兄さん………」
黒曜の瞳が心配そうにリタを見下ろしている。走って帰ってきたのか肩で息をしているようだ。強ばっていた体が安堵で弛緩する。
「さっき、私のことを知ってるって人が来て……」
カウンターについた手に力を込めて体を引き上げた。手も足も冷たくて思うように動かないが、必要以上に心配をかけたくはない。半ば意地でリタは立ち上がった。
「なにもされなかったか?」
「大丈夫です」
そう言って笑うリタの頬は白い。怪我は見当たらないが何もされていない訳では無いのだろう。ぎり、とエンは奥歯を噛み締める。リタが何らかの事件に巻き込まれていることは最初から承知の上だった。その上であまりにも音沙汰がないため油断したのだ。
「悪い、迂闊だった」
眉根を寄せて呻くエンに異変を感じ取ったのか、上目遣いに様子を伺う。
「エンお兄さんも何かあったんですか」
リタの問に言葉を選んでいるのであろう沈黙が訪れる。片手で顔を覆っていたエンがようやく顔を上げた。苦しそうな、悔しそうな表情で。
「お前のことだ」
カウンターについたリタの手がひくりと震える。エンは出入口の鍵をかけると居間に行くようリタに視線で示した。
向かいに座り直すとエンはテオから提供された情報を机に広げる。
「お前は少なくとも五年前にはこっちに来てたらしい」
防犯カメラの写真を確認しながら広げる。一枚、明らかに後始末をしていると見える煌街の車の写真は見せないことにした。
「なに、してたんですか。私」
逸る鼓動を聞きながらエンの言葉を待つ。
「そこまでは分からない」
報告書や写真を見れば否が応でも理解してしまう。写真の中の少女は普通の少女では無い。闇の中で息をしているような空虚で獣のような瞳。人を殺していてもおかしくない冴え冴えとした雰囲気。そしてその顔は言い訳のしょうがないほどリタと同じだった。
「お前はどうしたい」
静かな声だった。
弾かれたようにリタが顔を上げると静かな黒曜の瞳と視線がかち合う。
「私は……」
言葉の続きは紡がれることはなく、リタは俯いてしまった。強ばった肩が震えている。そうだった、この少女はどうしようもなく優しいのだった。小さく嘆息するとエンは逃げ道を用意することにした。
「お前がそいつと一緒に行きたいなら」
紫色の男の口ぶりが正しければリタに接触したのは恐らく虎賂会の首領だ。そんな彼らの元でリタが幸せになれるとは到底思えない。何より、領事局と結びつきの強い記憶屋として犯罪者を匿うわけにはいかないのだ。
「俺は俺の理由でお前を逃がす訳には行かない」
エンの声は押し殺したような平坦さだった。
泣き出す寸前のような表情でリタが顔を上げる。その唇から答えが出る前にエンは言葉を続けた。
「ここにいたいって言うなら」
一度、エンの瞳がまぶたの下に隠れる。
こちらを選んで欲しいと思うのは個人的なものなのか記憶屋としてなのか。境界線が曖昧になってきている自覚はあった。だが、自分を育ててくれたゼノならきっとこうすると信じている。
「ペトロやその上巻き込んででも守ってやる」
リタはある側面から見れば加害者なのだろう。だが、誘拐された経歴を考えれば被害者でもあるのだ。
エンの言葉を受けてリタは再び顔を伏せてしまった。
どちらかを選ばなければいけないなら、エンの手を取りたいと心は叫んでいる。だが、あの男は本気だった。どんな手を使ってでも、エンを殺してでも自分の欲しいものは手にしたがるような男だった。
「あの人のところには行きたくないです」
緩慢な動作で顔を上げたリタの瞳に飛び込んできたのは、淡く微笑むエンの姿だった。
「迷惑、かけてしまってすみません」
罪悪感を滲ませた表情でリタが小さく呻く。
エンはテーブルに広げた資料を直しながら片目をすがめた。
「お前に声掛けた時から覚悟はしてたさ」
記憶喪失者に声をかけるということは記憶屋にとって人生の片棒を担ぐ行為にも等しい。だから相手は常に真剣に選ぶし、領事局が支援を惜しまないのだ。その上でエンはリタに手を差し伸べた。
「ありがとうございます」
ようやくリタの頬に赤みが差した。かち合った視線の先でようやく笑みが零れる。
ふとエンの目が瞬きを繰り返した。滑った瞳の先には男が置いていったアタッシュケースが鎮座している。
「カウンターのあれは?」
「やってきた人が置いていったんです」
置き土産と言うには物騒すぎるオーラを放つそれを一瞥してリタは言葉を続けた。
「帰ってくるつもりなら開けろって」
「中身はまだ開けてないんだな」
「はい」
アタッシュケースは南京錠で開けられないようになっていた。鍵穴はあるが肝心の鍵は無い。
耳を当ててみても無音。重みはあるから何かは入っているはずだ。
見覚えあるかとリタに視線で尋ねてみるが、首はこてんと横に傾いた。
「明日、ペトロ呼んで開けるか」
開いた瞬間爆発するような爆弾が入っているかもしれないが、今はどうしようも無い。
アタッシュケースを指先で叩きながらエンは思考を巡らせる。一度こつんと突いてリタの方へ向き直った。
「一応確認するが、両親じゃねぇんだな?」
「違います」
それだけは断言できた。あの男は恐怖の対象でしかない。そんなものがずっと焦がれた両親、父であるものか。
「知ってる人なんですけど、分からないんです」
どこかで会ったことがある。その出会い自体が望んだものかどうかは分からない。ただ、あの男の目を思い出す度に心臓を鷲掴みにされているような恐怖に襲われる。声を聞くだけで身がすくみ上がる。それなのに誰か分からないのだ。
「後で防犯カメラ確認しとくか」
豊来に備えられた防犯カメラは四つほどあるが本物は一つしかない。カウンター奥に備え付けられており来客の顔はしっかり映る位置だ。虎賂会の首領の顔はエンとて覚えておきたい。
「あの」
切り出したリタの表情は張り詰めたものだった。眉根を寄せて言葉の続きを促す。
「猶予は三日やるって」
つまり三日後にリタが虎賂会に戻らなければなにかが起きてしまうのだろう。狙われているのは店か人か、あるいはここ一体の商店街か。
「短いな」
瞬間リタの瞳が揺らいだ。
言葉を間違えてしまった自覚のあるエンは慌てて取り繕う。
「情報は無いよりマシなんだ、三日もあれば対策ぐらいなら整うって」
一度曇ってしまったリタの表情に晴れの兆しは無い。しまったとばかりにエンは頬を掻く。
「俺そんなに頼りないか?」
そう尋ねるエンの柳眉は下がりきっていた。困ったような、悲しそうな表情にリタの胸が痛む。
「そんなことありません! 私が……!」
自分のせいであなたが傷つく姿を見たくないんです、そう言いかけて息を止めた。この感情の名前に気づいてしまったのだ。許されない気持ちであることも。
「私が怖がってばっかりなだけです」
「夜のトイレは一人で行けるのに?」
胸の中に凝り始めた黒い感情が動きを止めた。
夜の御手洗は不思議なほど怖くないのだ。闇の中を歩く恐怖はあるが道中のエンの部屋から聞こえる物音で孤独感は無い。もちろん怖がる理由も分からないでは無いが。
「問題が違うじゃないですか」
「悪い悪い」
からりと笑い飛ばされてしまった。すこしだけ胸が軽くなってしまったからずるいと思う。
拗ねたフリのまま指先でアタッシュケースを撫でてみる。南京錠をいじってみても何も思い出すことは出来なかった。
「今日はもう休むか」
「はい………」
その日は簡単に夕食を済ませてベッドに潜り込んだ。
薄闇の中で天井に手を伸ばす。
大人になっているのに大人になりきれていない。最近、それに焦り始めている自分に気がついた。
何があったのか知りたい。思い出したい。あのアタッシュケースが開いたら何か分かるだろうか。
枕元の懐中電灯を握ってリタは店舗の方へ移動する。
その途中、光の筋が廊下に差し込んでいた。灯りのついた部屋はエンの私室だ。そっと覗き込むと眼鏡をかけたエンが資料とにらめっこしている姿が飛び込んでくる。真剣な横顔に見惚れかけて我に返った。
カウンターの上に置かれたアタッシュケースを懐中電灯で照らしながら観察する。ふと、底面に不自然な切れ込みが発見できた。
「これ………」
軽く人差し指に力を込めて突くと乾いた音を立てて文字盤が現れた。
見覚えがある。解る。
勝手に指が番号を押していた。きっと開くはずがない。勘違いだ。そんな願いは呆気なく裏切られた。
ピピッと機械音が鳴って隙間が開く。
開いてしまったらしい。
恐る恐る中を開いて懐中電灯で照らす。
真っ先に確認できたのは衣類だった。
走りやすそうな厚底ブーツのつま先は鉄板でも入っているのか硬い。背中にジッパーの着いた全身タイプのライダースーツは黒一色。袖のゆったりした上着の裏には細長い形状の小さなポケットが大量に付いていた。
自分の服だと、リタは直感的に理解した。
二の腕までの長いガントレットには諸刃の刃が格納されているようだ。拳銃が一丁、弾が入ったカートリッジが二つ。ベルトと一体化した鞘の中には小ぶりな刺突用のナイフが五本程並んでいる。
すべてに小さな傷などの使用した形跡が確認できた。一つ一つ、どういった経緯でついた傷か説明ができる。
思い出を拾い上げるように触れていく。
そうだ、そうだった。
「…………ぁ」
点と点が繋がって線になる。空白の八年間が今に繋がる。
「思い出した」
音と光の洪水に飲み込まれる。脳に負荷が掛かっているのが認知できた。世界ごと自分が歪んでいく感覚に耐えきれずにリタの体が傾く。
雨音が檻のようにこだまする夜の事だった。
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