第19話 テジンとエン

 まぶたの裏を灼くような閃光と体が宙を舞う浮遊感。鼓膜を劈くような爆風に煽られ、地に叩きつけられる痛みを覚悟していた。だが、衝撃は思ったより軽く土煙が落ち着く前に周囲を見回すことが出来た。

 そして、傍らに手足を投げ出して横たわるエンがいた。

「お兄さん!」

 リタは悲鳴のような声を上げる。何度も、何度も呼び続けるが応答は無い。慌てて手首を握り脈拍を計る。規則的な鼓動が皮膚越しに伝わってきた。

 最悪だけは回避出来た。

 だが、決して軽傷ではない。止血の為に何かないかと探すが手持ちにも周辺にも適したものは無い。幸いここは規制線に近い場所だ。ここまで来たならペトロやフォルマに救援要請を出すべきだろうか。

 悩んでいると土埃の向こうから石を弾く音が耳に届いた。明らかに人間のものと思しき足音も。

「見つけたぞ……ヴィア………」

 背筋を氷塊が滑り落ちたようだった。考えていたことが一瞬にして霧散する。

 意を決して振り返るとテジンがそこに居た。

 どうやってここまで来たか。簡単だ。爆発の粉塵が収まってからというものヘリコプターの独特な羽の音がしていた。領事局のヘリコプターを期待したのだが虎賂会の方が早かったらしい。

 砂塵が落ち着いていくとテジンの姿が顕になった。背は脇腹の傷を気にしてか丸められ、だらりと下がった手足は歩く死体ゾンビを思わせる。傷を塞がずに来たのか脇腹から除くサラシは真っ赤に染まっていた。

「私はリタです」

 テジンからエンを庇うように手を広げる。何をするのか分からない。そう思わせる空気が今のテジンから漂っていた。

「あなたの人形はとっくに壊れたんです」

 あの日、リタは心が砕ける音を聞いた。二度と耳にしたくない音だ。

 自分を否定するように記憶を消して、流れて流れ着いた先でエンに出会った。笑うことを思い出した。泣くことを思い出した。怒りも、楽しいも、拾い集めて今のリタがいる。

 テジンが手元に置いていたジルヴィア《お人形》はあの夜会の日に壊れたのだ。

 だが、テジンは感情が削げ落ちてしまったような表情で首を傾げた。

「何言ってんだ?」

 茶化しているわけでないのだろう。子供が答えの分からない問に首を傾げるように、言葉の意味が理解できないと言った態度だった。

 テジンの世界にはジルヴィアしかいないのだ。

「お前の居場所は俺のとこしかねぇだろ?」

 否、本当はジルヴィアすら居なかったのかもしれない。

 ああ、とリタはようやく思い至る。テジンに愛を囁かれても嬉しくなかったのは、その言葉がジルヴィアを通した誰かに向けられているような気がしたからだ。自分を通して誰かを見ている。その誰かに向けられた執着を自分に向けられたくなくて怯えていたのだ。

「あん時のこと怒ってんなら謝るよ」

 取り繕うための笑顔だった。リタが怒っていることには気づいても、なぜ怒ったかについては理解していない。怒っているから謝る、それだけの反射のような言葉だった。

 テジンの歩いた後には血の跡が出来ていた。

「お前と俺はこれでようやく対等になれた」

 この男とまともな対話は出来ない。異世界から飛び出した化け物に見せるような、恐怖と軽蔑の色がリタの瞳には滲んでいた。

「お前が壊れちまったかと心配したが、安心したよ」

 つ、とテジンは意識を失ったままのエンを指さした。

「お前が戻ってくるならそいつは見逃す」

 確かにテジンの相手をしている暇は無い。すぐにでも医者に見せて治療が必要な傷だ。

「髪はまた伸ばせばいい」

 気持ち悪い、は既に通り越していた。充血した眼は瞳孔が開かれたまま、口端には血泡が付着している。ぼたぼたと脇腹から流れ出る血は量を増していた。執念だけで今のテジンは立っているのだ。

「だからヴィア………」

「けほっ」

 話の途中、僅かな沈黙の中でリタは背後から聞こえた声を逃さなかった。

「お兄さん!」

 目に血が入ってしまったのか黒曜の瞳は半分がまぶたの裏に隠れている。咳き込んだ口には血が混じっていた。臓器にも損傷が出ているのだろう。

「リタ……何が………」

「目を開けないでください、血が……」

 懸命に体を起こそうとするエンを労わるようにリタが支える。

 リタの瞳の中にテジンはいなかった。

「なんでだよ」

 視線はエンと彼が負った傷に向けられたまま、テジンを省みることは無い。

 それが耐えられなかったようだ。

「俺を見ろぉ!」

 子供のように地団駄を踏む。唾液と血の混じった泡を口から噴きながらテジンはエンを指した。

「なんでソイツなんだ!」

 続いてリタを指さす。

「お前を見つけたのは俺だ!」

 静まり返った空気の中でテジンの声だけがこだましていた。

「名を与えたのも俺だ! そばに置いてやったのも俺だ!」

 周囲には人の気配もなく、テジン一人。どうとでも出来るはずなのに体が縫い止められたように動けない。

「たかが数日一緒にいただけの奴だろうが!」

 もう無茶苦茶だった。ただ思った言葉を吐き出すさまは玩具を取られた子供のようにも見える。

「なんでお前は俺を見ない!」

 両親の元から離されて以降、リタにとって大人は皆恐怖の対象だった。優しい人ほど淘汰される世界にあって、誰も信じない愛さないように生きてきた。その中でテジンはリタの特別にはなりえなかった。それだけだ。

「どうしてそいつばっかり……」

 ふと、テジンの語気が落ち着いた。ぶつぶつと並べられる独り言はリタやエンのもとには届かずに地に吸い込まれていく。

 やがてテジンの瞳に暗い光が宿った。射抜かれたリタがびくりと肩を震わせる。

「お前もあの女と同じなのか?」

 糸が切れたように地面に膝をついた。脳を掻きむしるように髪を掻きあげる。

「馬鹿な女だった」

 支えを失ったサングラスが空虚な音を立てて地に落ちた。

「俺は止めたのに、まっくらな目に俺は映らなくなって………」

 言葉にならない声がテジンの口から溢れては消える。意味をなさない声が宙を割いた。

 虚ろだった瞳の焦点がゆっくりとリタに定められる。

「俺の物になれ、ジルヴィア」

 ジルヴィア、とは果たして誰の名前なのだろうか。ほんの数時間の間だというのにテジンの顔はすっかり老け込んでしまっていた。

「お前をあいしてる」

 頬を涙が滑り落ちた。笑いながらの泣き顔でテジンは両手を広げている。

 思えばこの人を知ろうとはしなかったな、とリタはこれまでの日々を思い返す。聞いていれば何か変わっただろうか。歩み寄る努力を愛する努力をすれば。そう考えて打ち消す。もう、何もかも遅すぎた。

「すみません」

 静かに瞑目して、ゆっくりと眼前の憐れな一人の男を見据える。

「確かに、あなたの傍にあって救われたことは確かにあります」

 テジンが自分のものだと主張したおかげで組織内で慰みものになることは無かった。心は何度も擦り切れてしまいそうだったが、自分の命を絶とうとするほど追い込まれることは無かった。

 だが、とリタは喉に力を込める。一つ一つ、言葉を選んで並べていく。

「あなたの愛の形に私は賛同できない」

 沢山の誰かを傷つけてようやく成立するような愛をリタは求めていなかった。確かにテジンの愛し方で救われるものはいるだろう。だが、それはリタではなかった。仮にリタがテジンを愛することがあっても、その形がテジンの心の穴に当てはまることもまた無い。

 エンがリタの言葉を肯定するように手を握る。確かめるようにリタもその手を握り返した。

 決定的な言葉を突きつけられたテジンはリタを取り戻す事ではなく攻撃することに切り替えたようだった。 

 許さない。一人だけ光の中に行くことなど。落ちるなら道連れにしてやる。地獄の底まで一緒に落ちていくのだ。

「エン、だったか?」

 覚醒してきた意識の中でテジンの声が耳朶を叩いた。

「そいつはな、教育機関で同じくらいのガキを殺した」

 リタの肩が震え始めた。顔を覗き込むと酷く怯えた表情をしている。目が合うと、空色が泣き出す寸前のように揺れた。

「他にも沢山殺した」

 テジンが言葉を発する度にリタの顔が青ざめていく。

 なんとなく分かってはいた。暗殺姫などと悪趣味な称号を付けられていたのだ。まっさらな手などとは思っていない。それでもリタの力になることをエンは決めていた。だから、ジンシの言葉はエンには全くと言っていいほど響かない。

「お前を支えてる手は血で汚れた手だ」

 体を離そうと繋いだ手からリタの力が抜ける。逃すまいとエンは逆に力を込めた。それが今のエンにはやっとだった。

 体が動くのなら耳を塞いでやりたいのに。

「気持ち悪いだろう? 吐き気がするよなぁ?」

 テジンの執着と狂気には吐き気がする。ふざけるな、そう言いたいのに口の中は血の味がするばかりで声が出ない。

「なんとか言えよ!」

 叫んでも掠れた音しか鳴らないだろう。

 テジンに蹴られた傷に加えて、リタを庇った時の衝撃で全身が痛い。なんとか意識を繋いでいるのに聞こえるのはリタの澄んだ声ではなくテジンの罵声だ。おまけにその声は何とか言えとほざいている。馬鹿も休み休み言えこのクソジジイ。

 エンの堪忍袋の緒がとうとう切れた。最小の行動で最大のダメージを与えてやろうでなはいか。

「リタ」

 指を動かしてリタを呼び寄せると彼女は素直に応じた。顔色はもちろん優れない。血色の良い薔薇色の頬が今となっては青白い病人のようだ。

 呼び寄せられたリタは落ち着かないようで視線をさ迷わせている。

 命令されたことだから悪くないと開き直る者もいる中で、リタは真面目に受け止めて悩んでいる。そんな彼女だから力になりたいと思ったのだ。

 痺れている腕でリタの頭を引き寄せる。警戒のけの字すらないリタの痩躯は容易く傾いた。形の良い桜色の唇に自分の唇を押し付ける。

 口端の血が移ってリタの唇も赤くなってしまった。親指で拭ってやると、ようやく何が起きたのか理解したリタの方が赤く染まる。

 あーとかうーとかしか言えなくなったリタを抱き寄せてテジンに向かって舌を出してみせた。

「バーカ」

「てっ、めぇええええええええ!」

 激昂したテジンが二人に飛びかかる。その刹那、背中を照らす後光があった。

「動くな」

 騒ぎを聞きつけたのだろう。防衛線を見張っていた職員が集まってきていた。揃いの制服に銃を構えた領事局の防衛隊員がテジンを取り囲む。

「お前は包囲されている」

 スピーカーから聞こえる声はエンにもリタにも聞き覚えがあった。

「抵抗する気がなければ両手を頭の後ろで組んで……」

「邪魔をするなぁァァァァァ!」

 虎賂会のボスの気迫があっても怪我人には違いなかった。精細を欠いた反抗は呆気なく取り押さえられ連行されていく。

 窮地は脱したらしい。

 ふと、腕の中で震えるリタに気づいた。テジンにやり返すためとはいえキスはやりすぎただろうか。硬直したままのリタに向けて頬をつついてみせる。

「引っぱたいてくれてもいいぞ」

 女の子の唇を奪ってしまった罪は受け入れる。リタには張り手を飛ばす権利があるのだ。

 だが、張り手は飛んでこなかった。

「そんなことしませんよ!」

 代わりにリタの声が鼓膜を劈いた。

 エンは怪我人なのだ。さらに鞭を打つような真似はできない。嫌だったのではない、むしろ逆だから困っているのだ。

 謎に正座までしてしまうような二人の微妙な空気を救世主が救いに来た。

「エン! リタちゃん!」

「ペトロさん!」

 テジンの連行がひと段落ついたのか、ペトロの背後には数名の救急隊員が控えている。

「救急隊! こっちだ!」

 よく通るペトロの声は遠くの隊員にも聞こえていたのか、途端に彼らの動きが機敏になる。

「リタちゃん、怪我は?」

「私はかすり傷です」

 リタの外見の変化と言えば長さの違う、無惨に切り裂かれた髪くらいのものだろう。それ以外はいくつかの裂傷程度だ。

「エンお兄さんの方が重傷です」

 傷の痛みが増したのかリタの腕の中で声にならない呻き声を上げる。

 固まり始めた流血の跡だけでも相当の怪我をしている事が素人目にも見て取れた。

「そのようだな」

 エンの重傷ぶりに駆け寄った救急隊員が短い悲鳴を上げた。丁寧に担架に乗せられ丁寧に手当がされているが想定以上の傷なのだろう。なんとなく慌ただし気だ。

「全く無茶をする……」

 ペトロの声は呆れ半分安心半分といったところだろう。リタもつられて乾いた笑い声をあげる。

「それじゃあ」

 ペトロの手には手錠が握られていた。

 会得がいったリタも静かに両腕を前に差し出す。

 分かりきっていたことなのにペトロの瞳には迷いが滲んでいた。

 そんな顔をしないで欲しい、とリタは思う。

「リタ、いや虎賂会暗殺姫ジルヴィア」

 カシャンと冷たい音を立てて鍵が降りた。

「現時刻を持って君を逮捕する」

「はい」

 騎士の叙任式のような厳かな空気だった。だが、実際はその真逆。

 唐突に耳朶を叩いたやり取りにエンは身を起こした。

「は………?」

 全ての音が、景色が遠ざかる。ペトロに先導されて車に乗り込むリタの歩く音、凛としたその背中だけがやけに鮮やかだった。

「おい、そいつは悪くねぇだろ!」

 救急隊員がエンの体を固定しようと押さえつける。何か言われている気がしたが、反響するその声はぼやけて聞こえない。

 騒ぎに気づいたリタが車に乗り込む寸前で振り返る。

「エンお兄さん」

 月光の下で微笑むリタはとても綺麗だった。


「今まで、ありがとうございました」

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