第17話 ジルヴィアとリタ
無遠慮に部屋に押し入るとテジンは椅子の一つに腰掛けた。
「俺のヴィアが世話になったな」
「誰だ?」
本気で分からなかっただけなのだが、テジンの目にはわざと嘯いたように見えたらしい。
「お前がリタと呼んでる女だ」
ああ、とエンは口の中で呟く。苛立ちを顕にするテジンが小気味よく挑発し返すことにした。
「うちの従業員が世話になったな」
「俺のヴィアだ!」
殴り付けられたテーブルが衝撃で僅かに震えた。
互いに相容れぬものを感じた両者が睨み合う。その視線が可視化できたならきっと派手な火花が踊り狂ったことだろう。
怒りを滲ませるテジンをエンは静かに睨みつけた。
「あいつは誰の物でもねぇしお前の物じゃない」
エンの脳裏には可哀想なほど怯えているリタの姿があった。こうして相対してエンはその理由を肌で理解する。だが、ここで引くつもりは無い。
「なぜそこまで執着する?」
エンの問にテジンは短い笑い声を上げた。サングラスの下の瞳が獰猛さを帯びる。
「お前にだけは言われたくねぇなぁ」
冷ややかな視線の応酬が繰り出された。
「記憶がなくてもあいつは俺のために働いてくれる」
そう言いながらテジンはタバコの火を付けた。パチンと金属製のライターを閉じる。
きつい香りにエンが顔をしかめる。その様子をテジンは愉悦に満ちた表情で観察していた。
「今回のことに関しては最高だな」
今回のこと、とはエンをテジンの前に導いたことだろう。だが、それに関してリタの意思は介在していない。自発的にエンがここに来たのだ。
テジンは煙草をふかしながら恍惚とした笑みを湛える。
「さすが俺の嫁。褒美は奮発してやらねぇと」
その言葉にエンが殺気立った。紫色の男が言っていたではないか。この男はリタを自分の
誰が、誰の、嫁だ
記憶を取り戻した彼女なら、虎賂会の幹部たるジルヴィアならそれも受け入れてしまうかもしれない。だが、この男の隣でリタが幸せになれるとはどうしても思えなかった。
何よりテジンは一六〇を数える年齢だったはずだ。個人差はあるがそろそろ老化が始まってもおかしくない。老い先短い翁が若い娘にここまでの
執着を向けるのはいっそ気味が悪い。
傾きかけた覚悟を立て直しテジンを
「リタは、家に帰りたいだけの普通の女の子だ」
少なくともエンの見てきたリタという少女はそうだった。
だが、テジンは心底驚いたように目を瞬かせる。
「家に帰りたい? ヴィアがそう言ったのか?」
「嘘ついてなんになる」
膝を叩いてテジンが声を上げる。酷く楽しそうなその声が不愉快だった。
椅子に座っている状態でなければ、まったくのプライベートであったなら床に笑い転げていただろう。
「あいつは自分の両親を自分で殺したんだぜ?」
刹那、脳裏にあの夜会のリタの姿が浮かぶ。半狂乱になって自分を害そうとしていた姿だ。
忘れていた。あの姿を見たテジンはどんな表情を浮かべていた。心の底から満足そうに悦んでいたではないか。
座っていた椅子を蹴り飛ばす勢いでエンは立ち上がる。
「お前が命令したんだろうが!」
義憤に震えるエンとは対照的にテジンは冷静だった。
「俺のヴィアに両親なんていない」
冷静に狂っていた。
「あいつには俺がいればいい。俺にはあいつがいればいい」
ぷつんと何かが切れる音がしたのをエンは頭の片隅で聞いていた。怒りに任せてテジンの胸ぐらを掴んで引き上げる。
「それを決めるのはお前じゃねえ!」
胸の中で激流が荒れ狂う。エンがリタと過ごしたのは、ほんの一ヶ月程度の間だ。その僅かな間で見てきた笑顔は、この男があの少女から奪ったものだ。その所業を許すわけにいかない。
怒りでエンの視野は狭まっていた。普段なら避けられていただろうか、否、場数が経験がエンとジンシでは全く違う。それが如実に現れた。
「がっ」
横っ面に一撃を受けたエンの体が傾く。その腹を一蹴させて倒すと無言のまま、腹を腕を背中を蹴りつける。何度も、何度も。エンが立ち上がろうとするのをやめるまで。
いたぶって満足したのか、エンの頭を地面に擦り付けた。
「お前、何か勘違いしてないか?」
深草色の髪を掴んで顔を上げさせる。しゃがみこむとその眼前に煙草の火をちらつかせた。
「お前が楽園へ案内してくれるっつーから五体満足で置いてやってんだ」
エンに危害を加えなかったのはもう一つの楽しみのためでもあるのだが、テジンの中ではさっきのやり取りでその気が失せたらしい。甘い対応はお終いだとばかりにエンの手の甲にその火を押し付ける。
「手間だが、お前の記憶ぶち抜いてもいいんだぞ」
痛みを耐えるエンの耳元でテジンが囁く。
だが、エンとて心折れた訳では無かった。ちら、と顔を上げテジンの様子を伺う。
優越感に浸っているのかテジンH隙だらけだった。だが、起き上がって反撃に出るまでどれくらいかかる。この男が対応するまでの時間は。まとわりついた痛みのせいで動きが鈍る可能性は。
その思考を断ち切るように足音が二人の近くまで来て止まる。
「ほ、報告します!」
入ってきたのは虎賂会の構成員の一人だった。
よほど緊急の要件なのか、緊迫した様子で報告を告げる。
「ジルヴィア様が戻られました!」
痛いほどの沈黙が訪れた。
エンの瞳から光が消える。
テジンが勝ち誇ったように三日月を浮かべる。
「連れて来い」
勝利の笑い声と共に、煙草の火を押し付けた手の甲を踵で擦り付けた。
「聞いたか?」
反応出来るほどの余力はエンの中から消え去っていた。
しばらくあって部屋に足音が近づいてくる。一人分の足音は気配からして女性のものだ。
「遅れて申し訳ありません」
冷たい語気だった。
亜麻色の髪は高いところでまとめ上げられ、黒を基調とした戦闘服を身に纏っている。空色の瞳はなんの感情も見いだせないほど静かに、ただ静かに凪いでいた。
「なんだ、記憶が戻ったのか」
テジンの手がリタの頬をねっとりと撫でた。触れる瞬間だけ僅かに肩が震えたが、瞬きひとつでその揺らぎを掻き消してしまう。
「震えるお前も可愛かったが」
そう言いながらテジンはリタの髪に触れた。髪をまとめていたリボンを解くと、くせの無い真っ直ぐな髪が背中に広がった。その亜麻色をひと房掬っては確かめるようにさらさらと手のひらからこぼす。テジンがリタを可愛がる時に良くする仕草だ。
「テジン様がお望みならばそのように振る舞いますが」
それすら黙殺するリタの返答にテジンは満足気に頷いた。
「いや、いい」
そして自分の物だと主張するように肩に手をかけ、抱き寄せる。
「ヴィア」
リタの肩に爪が食い込む。痛みに片目をすがめるその耳元でテジンが冷たく言い放った。
「コイツが変なこと言うんだ」
リタの柳眉が微かに跳ねる。
エンはというと顔を上げることが出来ずにいた。テジンとやり取りをしている冷たい声の主は本当にリタなのだろうか。確かめるのが怖いのかもしれない。彼女は今どちらなのだろうか、と。
「お前が普通の女の子だって」
リタが唇を噛んだ理由をテジンは理解しているだろうか。
「おっかしーよな」
子供のように無慈悲にエンを追い詰めていく。
「お前は俺の女だもんな?」
テジンの手がリタの顎をなぞり、自分の方にリタの顔を向けさせる。二人の距離が瞬きの音が聞こえそうなほど近づいた。
「テジン様」
それまで沈黙を保っていたリタが声を上げる。
選ばれたのは自分だと、そう言わんばかりの笑みでエンを見下ろした。
だが、リタがテジンの名を呼んだのは決して愛を囁くためではない。
「私はあなたを絶対に許さない」
一際低い怨嗟の声だった。油断と動揺で大きな隙が生まれる。その好機を逃すはずもなく抜き放たれたリタのアーミーナイフがテジンの腹を貫いた。
「は…………?」
躊躇無くその刃を抜き、体当りでテジンをエンから遠ざける。
突如湧き上がった血の臭いにエンが顔を上げた。
「エンお兄さん!」
「リタ……お前………」
エンの目の前にいたのは紛れもなくリタだった。突然のことにエンの思考が鈍る。
「立てますか、立てませんか!」
「あ、ああ」
リタの目は涙で潤んでいた。エンの体を支える手が震えている。歩行に支障が無いことを確認すると安堵のため息を零した。
気を抜きすぎてしまったのか、その背中に伸びる手の対処が遅れてしまった。
「ヴィィィアァァァァッ!」
「いっ」
テジンが狂気にまみれた瞳でリタの髪を掴んで引き倒そうとする。痛みに顔を顰めるが、もう怯えて大人しくなるリタではない。
逆手で握ったナイフで自分の髪を切り裂く。小気味よい音と共に亜麻色の髪が宙を踊った。
「私は、今度こそ私の意思で」
ナイフの切っ先がリタの空色を受けて鮮やかに煌めく。
「あなたを拒絶します!」
支えを失ったテジンの体が吹っ飛んで物音を立てた。異常を察知したのか、数人分の足音が近づいてくる。
それに気づいたリタが何かを探すように視線をさ迷わせて、やがて窓に目を止めた。
「リタ、待て。そこには……」
鉄格子がある。そう言おうとしたエンは次の瞬間、ぽかんと口を開けることになった。
一目散に駆け寄ると窓を開け放ち、鉄格子を蹴破ったのだ。リタが、その細足で。
「こっちに!」
軽やかに窓枠を飛び越えて周辺の警戒にあたる。エンも続いたのを確認すると、荒廃したバラック街を中心部に向けて駆け出す。
崩れ掛けのコンクリートの建物や野良の動物たちの住処のような民家。それらの間、時には中を駆け抜ける。やがて錆びて朽ちたような商店にたどり着き、その奥に身を潜めた。
「あの部屋一度使ったことがあるんですけど、老朽化してたの覚えてたんです」
肩で息をしながらリタは目を細めた。どこかスッキリしたような晴れやかな笑顔だ。
「役に立ってよかった」
手の甲の傷を手当しようとリタが手を伸ばす。
つい、その手を払ってしまった。
「助けに来てくれなんて言ってねぇだろ」
蹴られた箇所が今になって痛む。リタはエンが攫われたような口ぶりだが、真実は違う。エンが自分の足で虎賂会に赴いたのだ。
「楽園への道のりは危険そのものだ」
記憶の中ではゼノの部下が何人も死んで行った。手探りの中で探索するとあちらこちらに仕掛けられた罠で自滅する。記憶を受け継いだエンはどこをどう触れば罠が発動するのか分かっているのだ。
「なによりあそこには自爆コードがある」
もともと楽園の力が暴走したときに速やかに沈黙させるための機能だったらしい。起動させれば楽園とその周辺の島々ごと海底噴火に巻き込まれてなかったことになる。
「あんなもの本当はもういらないんだ」
隠された財宝も大戦前のロストテクノロジーも新しい今を生きはじめた人類には不要なものなのだ。なにより
「お前を苦しめたあいつらごと消しちまうにはこれが手っ取り早い」
ゼノの記憶を引き継いだことで多少の荒事には慣れている。だが、付け焼き刃の素人と戦闘集団では確実に後者に軍配が上がる。エンが出来る最大限の殺意を虎賂会にぶつけようと思えばそれが一番簡単で確実だと思ったのだ。
「だから」
エンが顔を上げると、笑みを保ったままのリタと目が合った。
「なんだよ」
胡乱気にリタの感情を伺う。
リタは目を伏せると静かに首を横に振った。
「私のために怒ってくれてありがとうございます」
エンがテジンの元にいると聞いた時、リタの中には疑問が浮かんだものだ。楽園という機密事項を抱えておいてどうして、と。テジンからの接触後、すぐにフォルマに保護を求めてもよかったはずだ、と。
エンの話を聞いて、視線を重ねてようやく合点がいった。
「確かに虎賂会は憎いです」
誘拐されなければ、両親のもとで普通の女の子として生きて行けた。友人をこの手で殺めることもなかった。心を殺す必要もなかった。
「でも、あなたまで巻き込むわけにはいかない」
エンに出会うことも当然なかった。
リタの手がエンの頬に伸びた。汗で張り付いた髪を耳に掛けてやる。不思議そうな表情はどこか幼く可愛いという感想を抱いてしまった。この人を巻き込んではならない。
「始末は自分でつけます」
どこまでも透明な笑顔だった。
離れたリタの手を逃すまいと咄嗟に掴む。白くて細い手だ。
「お前のためじゃない」
始まりはお礼を言われるような綺麗な感情ではなかったのだ。
両親の元に返してやりたかった。虎賂会から解放してやりたかった。
そうしてリタを助けてやることが出来たら、亡くしてしまった弟妹や母親への罪滅ぼしになると思ったのだ。
「俺は、ただ」
エンの言葉を遮るようにリタがその肩に寄りかかる。突然預けられた重みにエンは目を見開いた。
「あなたは私を助けてくれました」
聞きたくないとばかりにエンが身を離す。寂しいではないか、とリタは距離を詰めて言外に抗議した。
「私だって、勝手に恩を感じて返そうとしてるだけです」
今度は離れないぞと言わんばかりにエンの腕に抱きついて顔を覗き込む。
「お兄さんのためじゃありません!」
鼻息荒くリタは啖呵を切って見せた。
そんなリタの姿をエンはまじまじと見下ろす。
身に纏う服は夜に紛れるための黒で、動きを阻害させまいとデザインされた結果体のラインが強調されて艶かしい。長かった髪はテジンの手を振り払うために断ち切られた。動く度に亜麻色の髪がさらさらと揺れる。
「リタ」
確かめるように、エンはリタの名前を口にする。
名を呼ばれたリタはと言うと嬉しそうに破顔して頷いた。
「はい、リタです」
衝動のままリタを腕の中に閉じ込める。細い肩を背中を折らないようにそっと抱きしめると、えへへと小さく笑い声が聞こえた。それだけでぽっかりと開いた心の穴が満たされるようだった。
熱くなる頬を隠すように肩口に頭を預ける。
「悪い」
顔を上げると空色の視線とかち合った。
助けるつもりが助けられてしまっている。だが、今回は大人しく甘えることを決めた。
「頼んだ」
どれほど拒絶されても罵倒されても構わなかった。けれどやはり頼られるというのは嬉しいもので、頬が緩むのを止められなくても仕方がない。
「はい!」
ちなみに、リタがここに駆け込んだのは理由があった。商店の裏、瓦礫を少しどかすと真新しいビニールシートが覗く。その下にはタンデムタイプのバイクが出番を今か今かと待ち構えていた。ツヤツヤとしているその車体は真新しく、黒字に入った淡いブルーのデザインは特注品を思わせる。
「テジン様からもらったやつです」
説明するリタの口振りはどことなく疲労が滲んでいた。
「あぁ、そう………」
任務の際は虎賂会の所持するバイクを使っていたのだが、ある時テジンが鍵を寄越してきたのだ。高価そうなバイクにもちろん遠慮した。だが、「金目のものを求めない慎ましやかないい女」と認識されてしまったのだ。移動のために堂々とバイクを置いている施設に入り、ここまで走らせて逃亡のために隠しておいた。テジンが豊来を訪れた際、持ってきた荷物の中に鍵が入っていたのは僥倖だった。
二人乗りのバイクにヘルメットも二つ用意されている。その事実から漂うものを無視して乗り込んだ。
「しっかり掴まっててくださいね!」
スロットルを回すと元気よくエンジン音が鳴り響いた。一陣の風が人気のない夜の街を駆け抜けていく。
規制線まで距離にして二五㎞。
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