第5話 菫色の出会い

 領事局から路面電車の線路に沿って西へと歩く。目的地は既に決まっているようでエンの足取りには迷いがない。

「どこ行くんですか?」

「まずはお前の服だな」

 隣に並ぶ亜麻色を一瞥してエンがそう返す。

 エンの指摘でリタは自分が着ている服がおおよそ私服と言えるものでは無いことを思い出した。上着でなんとか表面上は取り繕えているだけなのである。

「いつまでもそれじゃ良くないだろ?」

 エンの私服でも構わない、と言いかけてリタは口を噤んだ。上下はそれで構わないかもしれないが下着はそうもいかない。こうしている今も主に胸元が落ち着かないから、配慮には甘えておくべきかもしれない。自分の体が同性では無いことを悔やみながらリタはエンの後ろを歩いた。

「まぁ、ちょっとアレだけど、なにかと相談にはのってくれるし」

「アレって……」

 口ごもるエンの声に顔を上げるとその瞳が明後日の方向を向いていた。目を合わせようと顔を覗き込むが華麗にスルーされてしまう。

「嫌なことはちゃんと嫌って言っていいからな」

 ようやく目が合ったと思えばこの発言である。

「不安になるような事言わないでくださいっ」

 そうこうしていると目的地にたどり着いたようでエンの足が止まる。おそるおそる店を眺めていたリタの双眸が数回瞬いた。ショーウィンドウに陳列されたマネキンから女性服専門店であることが分かる。問題はそのマネキンが着ている服の合わせだ。今どきの洋服に詳しくないリタでもつい目が止まってしまうような、こんな服が着たいと思わせる組み合わせだった。

「リタ?」

 視線を向けるとエンが扉を半分開けた状態でリタを待っていた。駆け寄ろうとしてリタの足が止まる。家族での買い物の時、こういった服屋の前を通ったことがある。その時は母に入るかどうか聞いたのだが「こういったお店はいい」と隣の男女共に着られる安価な服の店に誘導された。緩慢な動作でもう一度ショーウィンドウを見つめる。

「た、高いお店なんじゃ……」

 いつになく真剣な面持ちでそれだけ呟く。どうやらリタは存外細かいことに気付く性格なのだろう。だが、そこで遠慮するところが面白い。

「気にするとこそこかよ」

 肩を震わせながらエンは笑い飛ばす。領事局から受け取った封筒を引っ張り出しながら言葉を続けた。

「せっかくこれがあるからな」

 封筒は一般的な茶封筒のようであった。だが、その封筒がエンの手の中でくったりと倒れるまでにはいくらか時間がかかる。それだけ中身が詰まっているということだ。

「食と住もそんなに気にしなくていい」

 リタもエンも沢山食べる方では無い。そもそもエンは記憶屋としていくらか成功する程度には稼ぎがあるのだ。住環境も整っていることだし、少女一人養う程度の余裕はある。問題は衣食住の衣なのだ。普段買わないものを買うからこその臨時収入である。

 懐が痛む訳では無いと改めて強調するとようやく納得したようでエンに続いて店に入る。

「ルーシィ、いるか?」

「はーい」

 軽やかな返事と共に姿を見せたのは妙齢の女性だった。高いところで一つにまとめられたすみれ色の髪に黄金こがね色の瞳。健康的な色香を放つ、まさにアパレルショップの店主といった雰囲気の女性だ。

 ルーシィと呼ばれた女性はエンの姿を認めて小さく目を見開く。

「あら、エンじゃない。うちに来るなんて珍しい……」

 エルダーという店の品ぞろえはメインこそ服ではあるが一角にメイク用品や下着・文具も並んでいる。女性向けの雑貨屋さん、といった店であれば確かに男性であるエンがここに来ることは滅多にないだろう。

 ルーシィはそこでようやくエンの背後からこちらを伺う視線に気がついた。

 見られていることに気付いたリタがひょっこりと顔を見せる。

「こ、こんにちは」

 いつでもエンの背中に隠れられるようにしながら軽く頭を下げた。

 対するルーシィはというとリタのつま先からつむじをゆっくりと眺めていたかと思えば戸惑いの滲む子犬のような空色の瞳を射抜いて止まる。

「か……」

 エンがリタから一歩距離を取る。唐突な行動にどういうことかとエンを視線で追いかけた。そのほんの一瞬、ルーシィが視界から外れたその瞬間。

「かわいいっ!」

 歓声と共に抱きつかれた。女性特有の柔らかい胸部と細腕に埋まる。

 混乱のままエンに視線を向けると彼の瞳から光が消えていた。片手が上がったかと思えば胸の下あたりで親指が立ち上がる。唇が「頑張れ」と動いたがそれだけだった。助けるつもりは無いらしい。

「あなた、名前は?」

 黄金の瞳が獲物を見つけた肉食獣のように爛々と輝いている。

「リ、リタ……です」

「リタちゃんね、覚えたわ」

 呆気に取られたまま呆然とリタが呟く。熱い抱擁からは開放されたがリタの両手はルーシィがしっかりと握ったままだ。どうやらまだ逃げられないらしい。

 リタの名前を噛み締めるように呼ぶとルーシィは矛先をエンに切り替えた。

「彼女ちゃん?」

「違ぇよ」

 割と食い気味の否定だった。エンは気まずそうに視線を逸らすと腰に手をあてて体勢を崩す。

「ロストチャイルドなんだ」

 ロストチャイルドとはなんらかの理由で記憶が奪われ精神年齢と肉体の年齢が噛み合わない者、特に若年者の俗称だ。

「領事局から改めて世話役頼まれたんだよ」

 エンはそう言うと先程領事局で渡された封筒をルーシィに手渡した。

「予算これで服見繕ってくれ」

 渡された封筒とリタを交互に眺める。リタの来ている服が豊来のロゴが入った服であることにようやく気付いたのだろう。唇が一文字に引き結ばれ、端正な柳眉が歪む。

「わかったわ」

 封筒の中身を確認するとリタに向き直る。再び肩が震え出したため警戒するリタだったが今回は肩を掴まれるのみに留まった。

「思いっきり可愛くなりましょうね!」

「よ、よろしくお願いします」

 その後はほとんどルーシィの着せ替え人形だった。癖のない長い亜麻色の髪に淡い空色の瞳を持つリタは色んな服が似合う、とはルーシィの嬉しそうな悲鳴からである。幾度となく試着を繰り返した結果、ルーシィの見立てで女の子の生活必需品とやらの大半が揃った。その量と言えば大ぶりの紙袋が三つレジカウンターに並ぶ程だ。

 余談だが、リタは余裕のある上着にスッキリした足元の服装を好むらしい。

「予算オーバーしてないかこれ……」

 呆れ半分疲労半分でエンが紙袋を受け取って顔を顰める。女性の買い物は長いと知っていたつもりだが予想以上だった。昼前に来店したというのに昼飯時を越えて午後の小腹が空く時間になってしまっているのだ。

「足りない分は私から」

 にっこりと微笑むルーシィの頬はどことなくつやつやしている。リタの服を選んでいる時間はとても楽しかったらしくそのお礼も兼ねているらしい。

「変、じゃないですか……?」

 軽く腕を広げてエンに服を見せる。袖の膨らんだ白いブラウスに淡いブルーのキュロットパンツ、アクセントにはブラウンの短いベストを合わせている。靴は動きやすいように柔らかい素材のショートブーツ。さっきまでの施術着とは打って変わって普通の少女のようだ。

「似合ってんじゃないか?」

 屈託のないエンの賛辞にリタの頬が赤く染まった。俯いてしまったリタの挙動をまるっと無視したエンは紙袋の重さに文句を並べている。

 ルーシィのアオハルレーダーが甘酸っぱい恋の反応を検知した。

「あらぁ」

 含みのあるルーシィの声に気付くとエンは首を傾ける。

 自分の言葉に反応するくらいなら頬を赤くするリタの方を見ていて欲しいものだが。エンの鈍感さに呆れながらルーシィはカウンター内の椅子を軋ませた。

「すっごく可愛いわよ、リタちゃん」

「そんなことは……」

 リタが顔を上げると机に頬杖をついたルーシィが首を傾げる。傍若無人に見えて彼女の中には真っ直ぐに芯が通っているのだ。その経験と知識に裏付けられた仕草や言葉の一つ一つが色香を纏って顕れているのだろう。

「ルーシィさんこそ大人っぽくて素敵だと思います」

 それはリタの素直な感想だった。下心のない褒め言葉にルーシィの頬がだらしなく緩む。

「あらあらあらぁ」

 嫌な予感を感じ取ったエンの瞳が半分になった。その予感は正しく、気を良くしたルーシィの視線がエンを捉える。

「うちで預かったりとか、ダメ?」

「面倒くさいから嫌だ」

 ロストチャイルドが住所を移す場合は、当人から自立可能であるという表明と領事局の許可が必要だ。そのどちらもない状態で保護を委託された記憶屋が第三者を介入させる行為は禁止されており厳罰が下される。記憶屋、本人、新しい身元引受け人、領事局、その全ての承諾と手続きがあれば可能だが手順が非常に多いのだ。

「ちえー」

 半分本気ではあったのだろう。残念そうにカウンターの上でと溶ける。だが、敏腕店主殿は立ち直りも早い。居住まいを正すと余裕のある艶っぽい笑みを浮かべた。

「テオのとこにでも寄っていきなさい」

 テオとはすぐ側の店でカフェ兼情報屋を営んでいる男の名前だ。もちろん今日の予定に彼の店への訪問もあるが、わざわざ指摘される意味がわからない。エンの瞳は言外にそう訴えている。

「情報収集ついでに休憩」

 ルーシィの視線の先には虚ろな瞳のリタがいた。仕方の無いこととはいえ、生活に必要なものを薦められ選び、説明を聞いてまた選ぶという作業を繰り返したのだ。体力的には問題ないかもしれないが、精神的な疲労はいかほどか。現にルーシィとエンが二人で視線を送っているというのに気がつくことも無くぼーっとしている。

「リター、大丈夫かー?」

「大丈夫です!」

 答えるのとほぼ同時に足をもつらせて転びかけてしまった。笑って誤魔化そうとしているが、その笑みにも疲労が見え隠れしている。うん、大丈夫ではなさそうだ。

「じゃ、世話になったな」

 支払いは既に済んでいるため紙袋三つを抱えて踵を返す。

「ありがとうございましたー」

 カランとドアベルが名残惜しそうに揺れていた。その音を背に二人は第二目的地へと足を運ぶ。

「あの、荷物持ちますよ」

 紙袋の中身は全部リタのものなのである。全部持たせる訳にはいかない。そう思って伸ばした手だが軽く躱されてしまった。

「疲れてんだろ。これくらい大したことねーって」

 エンにも簡単に譲れない理由がある。リタに袋を任せてもいいが慣れない靴、道、そして彼女自身疲労しているのだ。早く腰を落ち着けて休ませてやりたいのと男としての見栄である。

 だが、リタはそんな気遣いに慣れていないようであった。顔を伏せて立ち止まる。それに気付いたエンも足を止めて踵を返した。

「どうして、こんなに優しくしてくれるんですか」

 リタの脳裏に過ぎるのは路地裏での生活だった。その場所では誰も彼もが自分のことで手一杯で誰かに手を差し伸べる余裕がなかった。だが、エンに出会ってから巡り会った人は手を差し伸べることが当たり前であるかのように優しい。人間という生き物がリタには分からなくなっていた。

 悲壮感すら感じるリタの問にエンは虚を突かれたように瞠目する。

「可愛かったから?」

 予想だにしなかった返答にリタの頬が紅潮した。混乱しているのか声になっていない声が唇から流れ落ちる。

「ってのは半分冗談だけど」 

 つまり半分は本気だと言うことだろうか。だからと言って追求する勇気のないリタはじっと言葉の続きを待った。

「じいちゃんのがうつっちまったのかな」

 じいちゃん、と言う人物の話題をエンが口にするのは二回目だ。その人物のことを話す時のエンの横顔はとても優しくて寂しそうだった。

「困ってる人はほっとけなくてさ」

「その、じいちゃんという方は……」

 言ってなかったか、とエンは言葉を探すように視線を飛ばす。

「あの店始めた初代オーナーで」

 不意に風が吹いてエンの面差しが街路樹の影にかかった。口角は相変わらずつり上がっているのに、目が違った。愛しむような、懐かしむような。寂しそうな、複雑な色が混ざりあって滲む。

「俺の最後の家族」

 豊来の居住スペースはエンの一人暮らしのようだった。空き部屋が一つあったが人の気配などは感じられない。なにより同居人がいたのであれば言葉だけでも紹介があるはずだろう。つまり、その人物は故人ということになる。

 リタの動揺に気づいたのか、気にするなと言わんばかりの貼り付けたような笑顔で覆い隠されてしまった。

「特に女子供はほっとけねーんだ」

 困っている人、特に女性や子供に手を差し伸べずにいられない。それ自体は立派なことである。聖人君子の鏡だろう。

 だが、とリタは思わずにいられなかった。それなら、どうしてそんな寂しそうな顔で笑うんですか。そんな疑問を胸の奥に押しとどめた。

 この話はおしまいだと思っているのかエンは前を向いて歩き始める。

 胸を締め付ける感情に名前を付けないまま、リタはその背中を追いかけた。決して見失わないように。

 

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