第51話 完

 それからの日々を光秀はよく覚えていない。

 日々仕事と家事をこなし、休日は新居探しやデート、友人達との談笑と、無機質な充実感だけの生活を送っていた。

 朧気ながら記憶に残っていることがあるとするならば、退去の日くらいだ。

 二月の末、寒空の下で八人はそれぞれの道を行く。

 聡は海外へ、詩折は大阪。景子は一度実家へと戻るとの事だった。

 そして残った五人は電車に乗って新居のある駅へと向かう。

 別れの言葉は特には無い。ただ一言、


「またね」


 そういったような気がした。

 新居での生活は山あり谷ありで、幾度となく衝突し、その度により深い絆を紡いでいた。不思議と過去に縋るようなことも無く、そして三年後には結婚を、その二年後には第一子の娘を授かることとなった。

 子育ては大変で夜眠れない日が続いたが、同じ地区に住んでいる育児の先輩三人の力を借りてどうにかこうにか生活をすることができていた。

 特に恵美には随分と助けて貰っていた。由希恵と同じ時期に三人目を産んでいたので、一人も二人も変わらないと預かってくれる時すらあった。そのせいで由希恵が抱いても体を反らして嫌がることがあるほどだ。

 大変だ、苦労だと思うことは多いが、それ以上に幸せな毎日だった。

 そんな日々も随分と経ち、娘が幼稚園に入学するという頃、光秀はレストランで会食をしていた。

 相手はもちろん妻である由希恵。テーブルを挟んで正面に座る彼女は、昔に比べいくらか丸くなっていた。体型も、そして性格も。

 この日は七回目の結婚記念日だった。愛娘のイツキは恵美の家に預かってもらっている。

 久々の二人きり、食事の感想を言い合ったり昔を思い返したりと、毎年と同じようにその時間を楽しむ。

 そして食事も終わり、デザートを待つ間に由希恵はそっと告げる。


「ねぇ、あなた」


 昔とは違う呼び方で由希恵が尋ねてくる。娘が生まれたあたりからそう呼ぶようになっていた。


「ん、なに?」


 たまたまよそ見をしていた光秀が向き直ると、由希恵が頬杖をつきながら彼を見つめていた。

 参ったなぁ……

 決して短くない時間一緒にいる仲だ、声色と体勢で言いたい事の大半は分かるようになっていた。それでも今の彼女の感情が読めず、心構えが出来ないことに一抹の不安を覚える。

 まるでハズレの多いくじ引きだな、と光秀は気取られないように身構える。疚しい事などしてはいないのだが、どこから槍が飛んでくるか分からないからだ。

 由希恵はその様子にくすりと笑みを零してから、バックから取り出したそれを差し出した。

 随分とくすんだ通帳だった。経年劣化もそうだが手垢と拠れが酷い。

 家族用の通帳では無いものだ。それがなんなのか分からず、手に取って良いかすらも判明しないため、光秀はただ見つめる他なかった。


「これはね、私の宝物」


 疑問を浮かべるだけの光秀に由希恵がそう言った。そして直ぐにそれをバッグにしまうと、


「中には両親の遺産と保険金、後は事故の時の慰謝料が入っているの」


「おう」


 由希恵が語るのを静かに聞く。

 段々と話の流れを掴んできた光秀は軽く頷きながら、次の言葉を待つ。そのまんまの意味で現金な宝物を見せびらかしたかった訳ではないのだから。

 由希恵は言葉を選びながら話し始める。


「樹のことを考えていたの。もしあの子が恵美さんと同じように、いえ、恵美さんよりももっと偏見の多い世界で戦って行かなきゃいけないとしたら私たちに何が出来るのかなって」


「それは受け入れてあげるんじゃないのか?」


 光秀がそういうと由希恵はただ首を横に振り、


「駄目よ。恵美さん達だってまだ親に孫を見せられていないもの。私たちみたいに古臭い普通だと駄目なのよ」


 そして、笑みを作り、


「それにね、子供が親を頼ってくれるなんて今くらいなものよ。小学生になったらどんどん隠し事が増えていくんだから」


「そりゃ……確かに」


 身に覚えを感じて光秀は黙り込んでしまう。

 秘密基地、危ない遊び、家出のような冒険。子供だけの記憶というものは色濃く、そして眩いほどに刺激的だ。そこに親の姿はなく、だからこそ楽しいのだから。

 我が愛娘はそんなことをしないだろう、と信じたい気持ちは宇宙より広くあるが、誰に似たのか同世代の男の子をなぎ倒す程の小怪獣っぷりを目の当たりにすると蝋燭の炎のように揺らいでしまう。

 そんな思いを見透かすように見ていた由希恵は、


「大事なのは樹に手を貸すんじゃなくて樹の周りに味方を増やすことだと思うの」


「なるほど。で、どうするんだ?」


 光秀が問うと待ってましたとばかりにバッグから一枚の紙を取り出す。

 それは不動産会社の女社長のインタビュー記事の切り抜きだった。

 細かい文字で書かれたそれを手に取り中を見る。インタビューということでその人の半生や考えなどが記載されていて、最後に今着工している事業の紹介がされていた。

 これがなんなのか、その疑問に対する答えは由希恵の口から語られた。


「この人もね、マイノリティで苦しんだ経験がある人なの。前に恵美さんとそういう集まりに参加したことがあってそこで知り合ったのよ。彼女の話も聞いたし私たちのルームシェア時代のことも興味深く聞いてくれてね」


「そうなのか」


「でなんだけど。その人の紹介でマンションとカフェを経営することにしたの」


 そうか、と口に出してから、光秀は動きを止める。

 由希恵の言動を噛み砕いて理解して、そして、

 これって、事後承諾?

 相談、提案の類かと思っていただけに予想外のところからの射撃を受けて、光秀は空いた口が塞がらない気持ちだった。

 元々否定するつもりはなかった。金の出処は由希恵の財産だしやりたいことが見つかったのはいいことだ。ただその決断を相談無しに決めてしまったことに腹を立てるを通り越して呆れ返る。

 しかし止まる気がないことも分かっている。

 だから、


「それが樹とどう関係するんだ?」


 そこだけが分からず、由希恵に確認をする。


「えぇ、定期的にカフェで交流会をする予定になっているの。ポリアモリー、モノガミー関係なくね。LGBTQの方達もよ、他にも私たちが知らないマイノリティ側の人達と交流してそういう人たちが共有、発信ができる環境を整えていきたいの」


「そこに樹を参加させるのか?」


「それは本人次第よ。参加してもいいししなくてもいい。ただ身近に受け皿があるって事を知っていて欲しいのよ」


 そういうと由希恵は口を閉じる。

 急に突きつけられた話に光秀は向き合い方が分からずにいた。ただ手をこまねいていても状況は由希恵が勝手に進めてしまう以上、時間は無い。

 とんだ結婚記念日になったな、と思わざるを得ない。光秀は諦観を顔に貼り付けて、


「分かった。で、俺がすることはなんだ?」


「えっと、特にはないのよ」


「特にはないって……家族がやることに対して何もせずにいろっていうのも薄情が過ぎるだろう?」


 でも、と考えるように伏し目になる由希恵は、一つ思いついたのか急に顔を上げて視線を合わせる。

 そして、


「カフェのオーナーとか?」


「オーナー?」


 そう、と由希恵が頷く。その目は嫌になるほど期待に満ちていた。

 対照的に光秀の顔には影がかかっていた。経営に関わるのならばやってやれないことはないがカフェのオーナーになるとついてまわるのが調理だ。

 自分が適当に食べる程度の料理なら何とかなるが人様に食べていただく程習熟している訳では無い。かと言って自分から言った手前断るのも恥ずかしい。

 それを察したのだろう、由希恵は大丈夫、と前置きして、


「信一さんに頼めばいいじゃない」


「うーん、協力してくれるかなぁ……」


 元料理番の彼は子供が出来てからすっかり丸くなっていた。昔ならその悪友っぷりを遺憾無く発揮して料理を舐めるなくらい言いそうだが、今なら少しは協力してくれるかもしれない。

 しかしそうなると今の仕事は辞めることになる。元々好きで入った会社でもないので惜しむ気持ちもないのだが明日辞めますという訳にも行かない。


「オープンまでどのくらいなんだ?」


 そう尋ねると由希恵はそうね、と前置きして、


「上物自体は既にあるから、中を改装するのにだいたい半年かからないみたい。マンションはそこから直ぐに始められるけどカフェはその二ヶ月後ね」


「やけに忙しいな」


「準備期間はお金にならないからね」


 すっかりたくましくなった由希恵に、昔の面影はない。それを少し寂しく思うとともに、将来の展望に期待とそれ以上の不安を感じていた。




 それからは順調に開店準備が進んでいく。

 専門家のアドバイスもあって開店まで大きな問題などなかった。

 それとは打って変わって光秀は忙しい毎日を過ごしていた。

 営業するにあたり資格や免許、その他諸々覚えることの方が多く、また営業プランも考える必要があったからだ。

 幸いなことに信一の助言もあり何とか体に覚え込ませることは出来たが、自分の作ったものを人に食べさせることへの不安は当日まで抜けることは無かった。

 プレオープンまで一時間も無い。呼んだのはあの六人。

 来てくれるだろうか。そして、昔みたいに話すことが出来るだろうか。

 変わったものは多い。変わらないものを数える方が大変な程に。

 それでもまた会えることへの期待が胸には満ちていた。

 solana。スペイン語で陽だまりを示す名前を店名にしたのは由希恵だった。

 その看板を眺めながら、光秀は目を閉じる。

 あぁ……

 あの四年間の続きが始まろうとしていた。

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