第50話 女子会5
恵美は歯切れの悪い返事で返す。
その気持ちも当然だろう。いくら書類上とはいえ結婚相手をそんな軽々しく選べない。選ばれなかったほうとも付き合っていかなければならないことも考えればなおのことだ。
と、由希恵は考えていたのだが、恵美の悩みとは全く違っていた。
「実はね、信一の方を出すことは話し合った上で決まってるのよ」
「あ、そうなんすか」
「うん。でもね、役所に出しちゃうと無くなっちゃうわけじゃない? なんかもったいないって気持ちがねぇ。そんなに貰えるものでもないし」
そう言って恵美は腕を組む。
予想よりも遥かに遠いところの悩みに頭を抱えたくなる気持ちを抑えて、
「なら、コピーでいいじゃないですか」
「そうなんだけど、片方原本じゃない? なんかねぇ……もう一回書いてもらうって訳にも行かないよね?」
「嫌です」
由希恵が即答すると、だよねと呟いた恵美は目を細めて天を見上げる。
勝手にやってくれと由希恵はそっぽむく。そこへ景子が、
「まぁ、時間もある事だしゆっくりと解決すればいいわ。それより新居はどこら辺にするか決まったの?」
「えぇ、桜川駅あたりで考えてますよ」
それを聞いて由希恵は思わず振り返っていた。
そこは先日、光秀がなんとなしに言った駅と同じで、私鉄との乗り換えがあるハブ駅だった。
由希恵の内定が決まっている会社と光秀が勤めている会社が違う路線なのでお互い乗り換え無しだとそこしか選択肢がなく、それはよくよく考えてみれば顕志朗と信一にも当てはまる内容だった。
ただまだ自分たちも引越しを考えているとは言っていない手前、由希恵は言葉を詰まらせていた。
そんな彼女を放って、景子は、
「いいんじゃない? 産婦人科も近いし安心ね」
「はい」
恵美の言葉は力強く、変更するという考えはないようだ。
それに満足気に頷いた景子は、急に由希恵のほうを向くと、
「で、あんたたちはどうするの?」
頬杖をついて覗き込むように尋ねていた。
胃の中で兎が飛び跳ねたかのような、そんなバツの悪さに、
「……光秀さんから聞いたんですか?」
そう返すが景子はただ違うわよ、と言って、
「だってそういう話してこなかったじゃない。自分たちでどうにかする方向で舵を切っているって考えたほうが自然じゃない? まぁそれぞれ独立するでもいいけど」
「いえ、同棲予定です」
きっぱりと言いきって、やっぱり敵わないな、と由希恵は思う。
隠していたわけではないが、皆がどう判断するか待っていたのは事実だ。そんな浅ましい考えを見抜かれていたことに赤面してしまっていないかが気になってしょうがない。
そんなことを気にしていると、景子の視線が部屋の天井と壁のつなぎ目へと向かっていることに気づく。そこを見ているというわけではなく、ただ誰とも視線を合わせないようにしているのだが、
「あぁあ。私だけ一人かぁ……」
ぽつりとつぶやいたその声は夕闇がよく似合うようで、
「……なら、うちと一緒に来るっすか?」
「……大阪に? 今の仕事捨てて?」
詩折の提案を鼻で笑うように笑っていたが、ふと目の輪郭をはっきりさせたかと思うと、
「――それはそれで楽しいかもね」
そう言ってから、噴き出すように笑う。
その唐突さに、どうしたのだろうか、そんな疑問を由希恵が思い浮かべた時、
「なーんてね。後輩の世話になるほどまだ耄碌してないわよ」
「あら、振られちゃったっすね」
詩折はさも残念だというように両手を広げてみせる。そのあまりの白々しさに恵美も由希恵も軽く笑みを零す。
そんな中で景子は一人、顔に影を落としていた。
それに最初に気づいたのは由希恵で、急に肩を丸めた彼女にどうしたんですかと声をかけようとした。
その直前に見てしまった。
一滴、テーブルの上に落ちた。
一滴、そのすぐ隣に。
ゆっくりと、そしてとめどなく流れ落ちる涙に声が出ない。
動揺を隠せず固まる由希恵の姿に周りも気づいたようで、ただ理由も分からず声をかけることも出来ない。
短くない時間さめざめと泣いた景子は、未だ引かぬ涙の目に貯めて顔を上げ、
「私、何を間違えたのかなぁ……」
掠れた声で話し始める。
「いっぱい頑張ってきたのに、最期は独りになっちゃった……ずっと皆といたかったのに、なんでなの……」
「景子さん……」
その姿はいつもの凛とした様子ではなく、幼い少女のようだった。叩けば壊れてしまうガラスの心は酷く透明で、現実を映さない。
さばさばとどこか達観していると思っていただけに、由希恵は脳を揺さぶられる思いだった。同時に共鳴するように奥の方に閉まっていた感情が膨れ上がるのを感じて、
「泣くなっ!」
突然の怒号に心臓が跳ね起きる。
部屋に響いた声の主は、
「……後ろ向きな涙は捨てるっすよ。サク姉はよくやった、それはうちが保証するっす。それにいつかまたこうして話せる時も来るっすから」
「いつかっていつ?」
景子の幼い質問に詩折は言葉を詰まらせる。
衝動的に勢いで押し切ろうとでも思ったのだろうか、計画性のなさが露呈して困る詩折にやや嘆息して、
「何時になるか分からないですけど、私が用意します」
由希恵は確かに断言した。
後には引けない言葉に、むしろ覚悟が決まる。
構想も見通しも何も無い、あるのは気力と夢と、そして一番の障害を破壊する手立てだけだった。
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