ペトリコール

ケー/恵陽

ペトリコール


 雨上がりの独特の匂いが鼻腔を擽る。畳んだ傘を持って晴れ間の覗く空の下、帰路につく。

 大きな水たまりが歩道の終わる場所に出来ていた。いつも飛び越えるのだが、急ぐわけでもなく、何より今日は長靴だったから、と言い訳をする。

 そして水たまりに足を置いた――瞬間、落ちた。

 ドボン、とプールの中に飛び込んだような音がして、目を瞠る。ゆるりと浮遊する髪の毛やスカートの裾。なにより水族館の水槽の中にいるような、いや、本当に海の中に落ちてしまったようだ。遊びに行った水族館で見たカラフルな魚が目の前を横切っていく。ひそひそ話をするように、熱帯魚が数匹岩陰に集まっている。

「――っ!」

 驚きに叫ぼうと口を開くと、水が入り込んできた。ゴホゴホ、と噎せるも尚此処は水の中だ。海と違い塩辛くないことを不思議に思いながらも、喉を落ち着かせようとする。

「あんた、呼吸できないのかい?」

 呆れたような声に振り向けば、なんとそこには鮫がいた。落ち着けようとしていたはずが、逆に更に噎せる。

「仕方ないねえ。次は呼吸できる道具を持っておいでよ」

 喉を抑えた私の体が勢いよく跳ね飛ばされる。鮫に体当たりされた、と気づいた時にはもう周囲はいつもの光景だった。歩道の端に立ちすくむ私の足元に水たまりはない。

 喉の調子はもういつも通りだ。

 雨上がりのあの独特の匂いが、鼻の奥を通り過ぎて行った。

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ペトリコール ケー/恵陽 @ke_yo_

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