6
夕食は部屋に用意され、女将の手によってテーブルの上には乗り切らないほど豪勢なメニューの数々が並んでいた。
初めて身にする懐石料理にアイリスはすっかり上機嫌になっている。目覚めた直後は、何があったのか思い出して頭からすっぽり布団に隠れ、「いっそ殺してください」と連呼していたとは思えないほどの変わりようには舌を巻く。
「女将、この貝はなんだ」
「あ、それ僕も気になってました」
テーブルの上には日本の法螺貝と同程度の大きさの七色に光る貝が陣取り、そのなかには貝の大きさとは対象的にごく少量の薄くスライスされた刺し身が盛り付けられていた。
「そちらは
「百年ですか!?」
「
最高級の黒
弾力のある身を噛んだ瞬間、口の中に広がるのは海の栄養を全て凝集したと錯覚してしまう超密度の旨味の塊――噛めば噛むほど味が薄まるどころか、むしろ濃くなる旨味が口の中で絶えず存在感を主張する。
女将がおすすめだという肝醤油に浸して口にすると、肝心要の肝と身が渾然一体に合わさり相乗効果で得も言われぬ至福に言葉をなくしてしまった。飲み込んだ後も暫く余韻は残り続け、アイリスは目を輝かせ拳を振って喜びを表現していた。
「こんな料理初めてです! 美味しすぎて、なんか上手く表現できません」
「確かにな。これほどの一品は俺も食べたことがない」
「ふふ。喜んでいただけて何よりです」
その他にもずらりと並ぶ皿に盛られた料理は、どれもが無悪とアイリスを満足させるに十分であったのだが、これほどの手間暇かかった料理を提供するとなると採算が取れないのではないか気になった。
女将からすれば余計なお節介と知った上で尋ねると、曖昧に微笑んで答える。
「こんなことをお客様に伝えるのはどうかと思うのですが……最近サラマンドルに開業したとある旅館が破竹の勢いで売上を伸ばしていまして、瞬く間に何軒もの系列旅館が次から次へと開業したことが影響しているのです」
女将の説明を聞くに、そのライバル旅館とやらがオープンしてからサラマンドル全体の旅館の収益が落ちているのだという。
確かに歴史という実態のない看板しか売りのない旅館にとって、ある日突然外資のホテルが参入でもすればどうなるか――バカでも価値がわかるホテルに軍配が上がることは考えずとも理解できる。
一度偵察に行かせた
「お恥ずかしい限りですが、これまでサラマンドルは一つの共同体として支え合ってやってまいりました。あけすけもなく言ってしまえば危機感が欠如していたのです。歴史こそ一、二番を争う
「ふん。そういうわけか――それなら何れこの旅館も、いずれ埃を被った歴史とやらに埋没していくんだろうな」
危機に瀕した旅館やホテルが起死回生を狙ってよくやる手――メシさえ一級品にすげ替えれば客が戻ってくるだろう――という甘い目論見が成功することがないことを無悪は日本の例から知っていた。
ただでさえ収益が減少しているところに原価率も考えないで惜しみなく高級品を提供していれば、遅くない未来に勝手に破産することは目に見えている。
残りの虹色王貝の刺身を口に放り込みながら現実を口にした。
「時代遅れの旅館は求められてないのかもしれませんね……」
自虐的に呟き、部屋を去ろうと立ち上がった女将はアイリスの薬指に光り輝く指輪を見つけると、両手をあわせて褒め讃えた。
「あら、綺麗な指輪ね。なんの石なのかしら」
「コレですか? 実は僕もよくわからないんですけど、最初は黒くくすんでいたはずがいつの間にかこんな綺麗な模様に様変わりしていたんですよ」
「う〜ん……もしかしたらだけど、その石は魔素が尽きていたのかもしれないわね。ウチの泉質には高濃度の魔素が含まれていて、魔素が切れた鉱物や魔石を浸すとその成分を吸収することがあるの。ちなみに、その指輪は誰に貰ったのかしら?」
「へっ? えっと、それは……」
女将の野次馬根性丸出しの問いかけに、アイリスは無悪にチラチラと視線を送るものだから合点がいった女将は、目尻を下げて微笑む。
「お父さんに買ってもらったのね」
「違いますって!」
真っ赤になって否定するアイリスを見て、こいつの本当の親は一体どんなやつだったのか気になった。
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