11

 ミトスの見立て通り、夜が明けて崩海域メイルシュトロームに突入すると、十階ビルの高さに相当するほどの荒れ狂う高波が船体に襲いかかった。


 横に縦にと大きく揺さぶられ、もはや洗濯機の中に放り込まれたと表現する他にない過酷な環境に、多少は船酔いに耐性がついたガキどもも次元の違う荒波に成す術なく撃沈している。


 引き籠もっている客室からは扉越しに呻き声が延々漏れ聞こえ、船乗り共が絶えず浸水してくる海水を木桶で汲んでは捨てての繰り返し――無悪も立っているのがやっとの甲板で、海に落ちることなく走り回る乗組員の姿には恐れ入る。


「モニカちゃん……。よく平気な顔でいられるね……」


 とうとう吐き気に耐えきれなくなり、横になったアイリスの傍らには甲斐甲斐しく付きそう最年少のモニカが凪の上で佇んているかのように平然とした顔で、酔い潰れたガキどもの世話をしていた。


「俺達は慣れてるからどうってことないけど、おかの人間で、しかも船に乗ったこともない子供が崩海域の荒波を耐えられるなんて、とてもじゃないけど信じられないな。俺だって最初は気持ち悪くなったっていうのに」


 船長であるミストもモニカの超人的な体質に目を丸くさせて、感嘆の言葉を吐いていた。無悪はモニカのことを出会った当初から、異質な存在として密かに注視していた。


 歳不相応というくくりには収まらない落ち着きように、かつて出会った幼子の面影が重なる――。



        ✽✽✽



 鬼道会系列の闇金から借り入れていた男が、家族とともに夜逃げを企んでいるという話を聞かされた無悪は怒り心頭で債務者の自宅へ車を飛ばした。


 施錠されていようがお構いなしに鍵をこじ開け、怒声をあげながら室内に踏み込んだものの到着が一歩遅かった。

 既に多重債務を背負っていた男と、男の妻の姿は自宅から忽然と姿を消していた後だった。


 よほど慌てていたのが、土足で足を踏み入れた六畳の和室には下着や衣服が雑然と散らばっていたのだが、そのなかにあってはならないが放置されていることに気がつく。


 部屋の中央――茶色に色褪せた畳の上には、うんともすんとも言わずに虚空を見つめて座っている子供の姿があったのだ。


 頭髪は垢で固まり、太い毛束となって肩の下まで垂れている。着ていた服は何年着古されているのか、丈の長さも合わずにほつれている有様。袖から覗く小枝に等しい腕には、皮膚病による湿疹が広がっていた。


 仕事柄、債務者の家族構成は頭に入れていた。だが、夜逃げした夫妻が子供をこさえていた事実を無悪は知らされていなかった。畳の上に転がっていたクマのヌイグルミを、爪先で蹴飛ばす。


 実の子供を置いて逃げるような親が、これまで責任感を持って子育てしてきたとは到底思えない。客の中には、出生後も無戸籍のままガキを育てている事例が稀に見受けられた。恐らくこのガキもそうだろうと当りをつけながら部屋を見渡す。


 狭い室内を物色したが、当然金目になるようものは一つもなく、烈火のごとき怒りは無悪の臓腑を焼け爛らせるに十分な火力で燃え続ける。


 夜逃げは絶対に許さない――逃げた夫妻は絶対に捕まえると心に決め、再び視線は足元で身じろぎもしない子供に向けられた。


「お前、親に棄てられたのか」


 憐憫の情があったわけではない。

 仮にそのような感情が備わっていたとしたら、ヤクザの世界に身を置くことなどなかった。声をかけたことに特別な理由が介在する余地はない。


 感情を消し去った声で話しかけるも、ビー玉に似た瞳で無悪を見上げたガキは言葉を発することはなかった。腹の虫ばかりが室内に響き渡る。


 悲嘆に暮れるわけでもなく、泣き喚くこともなければ、絶望しているようも見えない。見たところ年齢は一桁だと思われるが、普段から食事をろくに与えられていない低栄養状態では、外見は参考にもならない。


「自分が何歳かわかるか」


 首を横に振る。意思表示は出来るようだが口を開くことはない。ガキはおもむろに立ち上がると隣の部屋へ移動し、一枚の写真を持ってきて渡してきた。


 黙って受け取った無悪は、使い捨てカメラで取られたであろう写真に視線を落とす。背景がチープな装飾で彩られていた部屋は、チープなラブホテルの一室で撮影されたものだと思われる。


 真っ白なベッドに腰を下ろしてピースをする男と女の――間違いなく夜逃げした夫婦と同一人物だった。その男の腕には、まだろくに見も開いていないような赤ん坊が片腕で抱き抱えられていた。


 八年前の日付が刻印されている。つまり、目の前のガキは八歳ということになる。


 ガキの生い立ちに同情心が芽生えるわけもなく、外で待たせていた人間に一報を入れ、あとは全て任せることにした。


 電話を終え、スーツに携帯をしまい入れるとガキにスーツの裾を引っ張られ、汚いと思った無悪は思わず押し退けた。


 尻餅をついたガキは、一切の感情を失くした瞳で、突き飛ばした無悪を見据えていた。そこに怒りも悲しみも感じない。

 底が空いたバケツは、いくら水を注いでも満タンになることはない。ガキの瞳は、見ているこちら側が吸い込まれそうな、薄気味悪い色を湛えていた。


 あのガキが今はどうしているのか――まるっきり関与していない無悪は知る由もない。ただ、自分を棄てた両親の事も何も感じてはいないんだろうなと、後になって回想した。



        ✽✽✽



「まさか、お前があのときのガキなはずないよな」


 脈絡もない言葉に、モニカはキョトンと首を傾げる。


「モニカはモニカ。マルコお兄ちゃんの妹」


 戦時中の日本から転生してきたイシイや、河川敷で無悪に飼われていた犬から神狼フェンリルに転生した事例が、もしかしたらあのガキもこの世界に転生してきたのではと無悪の脳裏に疑念を抱かせた。


 だが、違和感を感じるとはいえ確固たる証拠があるわけでもない。馬鹿馬鹿しいと、かぶりを振って己の妄想を掻き消すと、無悪の袖が突然引っ張っられた。


 掴んでいる相手はミトス。人気のない備蓄庫に連れ込まれると、ご丁寧に施錠をする念の入れように鬼気迫るものを感じた。


「おい……昨日のことを誰かにバラしたりしてねえよな」

「ああ、お前が女ってことか」

「だから船の中で俺が女であることを口にすんじゃねえって」


 慌てて口を塞ごうとしてくるミトスの体が、慎ましやかにもほどがある上半身と無悪の体が接触すると、何を勘違いしたのか頬を染めて後退る。


「ちょ、変な目で俺を見んじゃねえよ!」

「ふん。自意識過剰がすぎるな。確かに昨晩はお前が女であることを見抜いたが、あいにくお前のような幼児体型に反応するほど落ちぶれちゃいない。そもそもだ」


 一歩一歩近づくと、顔を引き攣らせてジリジリと後退するミトスを壁際に追い込んで、耳元に顔を近づけ声をひそめる。


「お前が男だろうが女だろうが、俺にはどうでもいい。今のところ秘密を誰かに吹聴するつもりはないから安心しろ」

「本当に本当に誰にもバラさないと誓うか?」


 噛み締めた唇、潤んだ瞳、ミトスの心情は崩海域の荒波より時化ているに違いない。自分が女であること、それを隠して船長を任されていること、ユースタスへの秘めた想い――最大の秘密を握った相手が自分だとはつくづく運の悪い奴である。

 

「しつこい奴だな。誓約書でも書けばいいのか?」


 鼻で笑ってやると、ミトスは舌打ちをして顔を背けた。その時だった――備蓄庫の外がやけに騒がしくなったのは。


 ちょっとやそっとのことでは動じない船員の、慌てふためくような狼狽っぷりが伝わる足音が、姿を見せない船長をしきりに呼んでいた。


「なんの騒ぎだ。浸水でもしたのか」

「そんなことで大騒ぎするような連中じゃねえよ。しっかし、なにを馬鹿騒ぎしてるんだ」


 頭を掻きながら鍵を開けようとしたミトスだったが、それはかなわなかった。ドアノブに手をかけた瞬間、船体が激しく横に揺れてバランスを崩したミトスは、吸い込まれるように無悪の腕の中へ飛び込んできて目を白黒させていた。


「な、なんだっ!? この揺れは」


 自分が男の腕の中にいることにも気が付かないほど気が動転していたミトスは、慌てた様子で無悪の腕を振りほどくと甲板へと駆け出した。


 妙な胸騒ぎを覚えた無悪も後に続くと、船首の先で海竜が船体と自らを繋ぐ綱を引きちぎろうと、藻掻いているように見えた。


「お前たちっ! とうして言うことを聞かないんだ!」


 船首に飛び移ったミトスの指示も聞かずに、恐慌状態に陥って口から高水流のブレスを噴射していた。おかげでもろに直撃した箇所は木っ端微塵に砕け散り、推進力を失った船は崩海域で転覆の危機にある。

 

 以前ちユースタスは語っていた――海竜は海中において上位に位置するモンスターだと。では、何が原因で頂点に君臨する海竜が暴れているというのか――。


「来る――」


 海の男達が慌てふためくなかで、気配もなく隣に立っていたモニカが、無悪にのみ聞こえる声量で呟いていた。


 視線は海の一点に注がれ、間を置かずに異形の物体が海竜船を飲みこまんとする勢いで姿を現した。


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